ウォルトンの交響曲1番について

 

 

 ここのところ、繰り返し聴いているのは、W.ウォルトン交響曲第1番。

 ウォルトンは20世紀イギリスの作曲家。作曲はほとんど独学だったというが、イギリスのみならず、20世紀を代表する作曲家の一人といってよい。

 映画音楽でも有名。20世紀の作曲家のなかでは、とにかくカッコイイ旋律が書ける。だから、ベースは調性音楽。旋律を生かすためには、和声や拍子を壊しすぎてはいけない。そういうわけで、カッコイイ旋律に華やかなオーケストレーションがついた。

イギリス王室の2度の戴冠式の行進曲をつくってもいる。なかでも、1937年のジョージ6世戴冠式の行進曲は有名。これぞブリティッシュスタイルマーチ、といった感じの華やかで荘厳な行進曲。邦人でいうと、自衛隊儀礼黛敏郎より、皇室ご用達の團伊玖磨に雰囲気が似ている。どちらもカッコイイ旋律を書けるけど、洗練されているといえば、團だろう。

 

 交響曲第1番は、1935年の作品。20世紀の交響曲といえば、ショスタコービッチシベリウスプロコフィエフあたりが、わりと演奏機会やディスクが多いけれど、ウォルトンの1番も、なかなかの力作。20世紀を代表するシンフォニーと言ってもなんら遜色はない。

 古典的な4楽章で、各楽章の形式も私たちが知っているものからの逸脱はない。しかも、葛藤をへて勝利へという馴染みのある構成をとっていて、45分前後におさまる。と、よくあるシンフォニーの形で、旋律線も非常にはっきりしているので安心して聴くことができるし、聴いたあとは非常にすっきりする。

 けれど、スコアは(多分)相当複雑。演奏も相当ハイレベルに違いない。難しいパッセージが多々あることにくわえ、トゥッティでタテセン合わせるのがたいへんそうな箇所がたくさんある。

 曲の特長は、管楽器がとにかく鳴る、ということ。これが、カッコよさの要因。金管では、トランペット、トロンボーンのほか、チューバもかなり鳴るのだけど、なかでもホルンが活躍する。高音域にも低音域にも出てくるホルンの咆哮が印象的だ。

 実は、私は最近まで、このシンフォニーを聴く気にはならなかった。とくに終楽章コーダのくどいフォルテシモは、脂っこくて胃にもたれる感じだった。

 この曲に限らず、とにかく大音量の金管の響きが、きつかった。歳をとると、金管のフォルテシモが体に合わなくなるんだな、シベリウスの弦楽あたりを欲しがるんだな、と思っていた。食傷したという感じだった。

 けれど、今年になって、この交響曲を何度も繰り返し聴けるようになって、体調というか気持ちというかが、回復してきたと感じるのである。また、いろんな楽曲を楽しめるというのは、いいことだ。ただ、ウォルトンは聴けるようになったけど、まだ、ストラヴィンスキーを聴こうという気にはならない。果たして、聴けるようになるのだろうか。

 

 

 ウォルトン交響曲1番のディスクだけど、私が持っているのは、4枚。

 その中で、ベストは、これ。ラトル、バーミンガム市響

 

交響曲第1番

交響曲第1番

 

 

Walton: Symphony No.1

 

 

 98年発売だから、もう現役盤じゃないんだろうけど、これを聴けばこの曲については、じゅうぶんである。

 ラトルの解釈も的確だけど、なによりオケが素晴らしい。生き生きとしたリズム。複雑なオーケストレーションを難なくこなす。そして、ちゃんと鳴っている。ここまで、立ち上がりがいいというか、機動性にすぐれているというか、分厚い響きをパッパッと鳴らして色彩豊かに曲想を繰り広げていく躍動感がとにかく素晴らしい。

 これで、録音が最上だったら申し分ないけど、少しだけレンジが狭いかな、という感じだ。

 

ラトルの対極にあるのが、ホーレンシュタイン指揮のロイヤルフィル。1971年のライブ録音だから、これは、入手は困難なようだ。

 とにかく、重厚。遅い、遅い、重い、重いの解釈。珍盤の向きもあるが、これはこれで、ひとつの解釈として一聴に値する。演奏はいたって真面目、オケも精度も(1971年のライブ演奏としては)高い。じっくりと聴くのにはいいが、ただし、これがウォルトンのシンフォニーの正統とはいえないだろう。

 

 3枚目は、ブライデン・トムソン指揮のロンドンフィル、は、可もなく不可もない演奏。ときおり、リズムが重くなるところが傷といえば傷だ。

 

 

ウォルトン:交響曲第1番

ウォルトン:交響曲第1番

 

 

Walton;Symphony No. 1,Varii

 

 

 最後の一枚、ポール・ダニエルの指揮するノーザン・シンフォニアナクソス盤、まだ現役で、廉価で販売している。

 

ウォルトン:交響曲第1番/パルティータ(イングリッシュ・ノーザン・フィルハーモニア/ダニエル)

ウォルトン:交響曲第1番/パルティータ(イングリッシュ・ノーザン・フィルハーモニア/ダニエル)

 

 

 これは、一言でいうと、熱い演奏だ。スタイリッシュの対極。かといって、鄙びているというわけでもない。聴いていて、胸の熱くなる、情熱的な演奏なのだ。

 一流のオケとは言い難いが、ちゃんと鳴っているし、ミスタッチもないし、聴いていてはらはらすることもない。ちゃんと安心して聴ける。なので、演奏に心配はない。

 1楽章、入りは非常にハイテンポなのだけど、だんだん重くなっていく。第2主題の提示でルバートをかけているところが、独特。再現部の前が、相当重く熱量を感じる。

 2楽章はやや重いが、なんとかスケルツォになっている。

 3楽章。もう素晴らしい。気持ちが入った、熱い熱い演奏。後半、トゥッティで奏でるオケの慟哭にグッとくる。

 終楽章。やや落ち着いた運びながら、コーダ前で、スネアとドラが入って、ファンファーレの鳴ったところから、グンと熱量を帯びた演奏になる。このシンフォニーを愛してやまない、プレイヤーの熱い感情が伝わってくるそんな演奏。こっから先、情熱は途切れず、感動のフィナーレとなる。ここは、聴くたびにグッとくる。

 

 

「歌のある生活」30「音楽」の歌その17

 音楽の歌、「リズム」「メロディ」ときて、今回は「ハーモニー」です。これは、これまでの「リズム」「メロディ」よりも詠うのが格段に難しい。なぜなら、ミミオクでハーモニーを響かせるのは、読者にも作者にもそれなりの音感が必要とされるからです。ですので、作者もおいそれと題材にはしにくいという事情がうかがえます。

 それでも果敢に挑戦している歌としては、こんなのがあります。

 

 脳天へ叩き込まれる三和音、冬はじめてのオリオン星座 

                          杉﨑恒夫『食卓の音楽』

 

 三和音(さんわおん、と読みます)、まさしくハーモニーです。こういう詠い方なら、なんとか読者も受け取ってくれるだろうということでしょうか。

 冬の夜、オリオン星座を見て、われの脳天にハーモニーが叩き込まれたというわけです。冬の寒さをハーモニーでたとえたのがこの歌のユニークなところなわけですが、どうでしょう、読者である私たちは、果たして共感できるでしょうか。

 三和音(これは、おそらく主和音の響きなのでしょう)が脳天に叩き込まれる感覚というのは、これは巧いところを持って来たなという感じがします。ただし、調性音楽で、主和音が他の和音より強く響くのは、当たり前といえば当たり前なのではありますが。

 次の作品は、こんな響きです。

 

 君が手をあてれば響くオルガンになりたい群青色の一日(ひとひ)を

                          早川志織『種の起源

 

 オルガンです。君に手をあてられると響くオルガンに私はなりたい、というのがなんともチャーミングです。ただし、これ、鳴っているのはハーモニーではなく、単音かもしれない。けど、このオルガンは、倍音が幾重にも響いていて、深い深い音色になって いるに違いありません。

 最後に、この一首を。

 空いちめんEm7のひびきにて桜花咲きそむ満月の下  

                          『墓地裏の花屋』仙波龍英

 

 Em7は、イーマイナーセブンスと読みます。コードネームと呼ばれる和音記号の一種です。

 季節は春、桜が咲いている満月の夜空に、Em7のハーモニーが響いているというわけです。

 こうなると、そのEm7なるハーモニーがミミオクで響かないと、この歌の鑑賞ができないということになりますが、まあ、ここは歌意はさておき、こうしたコードネームを短歌に詠みこんだ、現代的でスタイリッシュな一首としてとらえるのがいいでしょう。

 たぶん、短歌でコードネームが詠われたのも、この作品がはじめてだと思いますし、そのアイデアはじゅうぶん成功しているとも思います。

 ですので、これはこれで秀歌といえるのですが、欲目をいえばマイナーセブンスなのが、ちょいと惜しい。ここは、マイナーセブンスじゃなくて、メジャーセブンスの響きのほうがより大衆的で都会的だったと思います。

 で、ここから先は、私の勝手な推測になるのですが、仙波もメジャーセブンスの響きを詠いたかったんじゃないか。ただそうなると、字面に難がでる。イーメジャーセブンスの表記は、Emaj7となるので、視覚的にうっとうしい。そこで、字面を優先させて、泣く泣くEm7と詠んだのではないか、というのが私の推測です。どうでしょうかね。

 以上、十七回にわたっておしゃべりしてきました音楽の歌の話もこれでお終いです。

 

「かぎろひ」2018年5月号所収

「歌のある生活」29「音楽」の歌その16

 前回の続きです。流行歌の歌詞を一首に挿入した作品を鑑賞します。前回は茂吉を紹介しましたが、今回はグッと最近の作品から。

 懐かしのヒーローアニメ主題歌の「♪だけど」の後が沁みる夜更けぞ

                     笹公人『叙情の奇妙な冒険』

 

 笹公人です。ここでは、「あしたのジョー」の主題歌の歌詞の一部が詠われています。ただし「あしたのジョー」とそのまま詠んだら抒情性が台無しになるので「懐かしのヒーローアニメ」なんていう、持ってまわった詠い方をしています。

 で、「だけど」。ここが歌詞の引用になります。この後は、「ルルルルー」とスキャットになりますので、これが沁みると詠うわけです。ですので、ただ流行歌の歌詞を引用しているわけではなくて、ひとひねりしています。

 今回、歌詞を短歌作品に挿入している歌として、笹公人ならいろいろあるんじゃないかと目星をつけて歌集を読み直してみましたが、意外なことに、この一首しか見つけられませんでした。

 そうして思ったのは、やはり、歌詞を挿入した短歌というのは、ともすると、他人のフンドシで相撲をとっている感が強く、ヘタすると剽窃、せいぜいはパロディということで、なかなかうまくはいかないのではないか、とうことです。

 もともと三十一音という少ない音数の中に、他人の歌詞を挿入しても、なかなか上質な効果を得るのは難しいといえます。なので、どうしても、アイディア勝負の感じで終わってしまうのではないでしょうか。

 ただ、前回取り上げた斎藤茂吉の歌、「鼠の巣片づけながらいふこゑは『ああそれなのにそれなのにねえ』」などは、嘱目詠ならぬ、ショクミミ詠とでもいえるもので、聴こえてきた音楽をそのまま歌にした、といえなくもありません。こうした短歌作品が、もっとあってもいいのではないかと思うのですが、目にしたものを即興的に歌にするのとは違って、聴こえてきた音楽をそのまま詠んで一首として成立させるというのは、なかなか難しいことなのでしょう。そんなことを思うと、音楽の歌というのは、まだまだ開拓の余地のあるテーマといえるのではないでしょうか。

 もう一首、歌詞を詠み込んだ作品を鑑賞しましょう。こちらもアイディア勝負の楽しい歌です。

 声だけが通り過ぎゆく雪(ゆーき)のふる街を雪(ゆーき)のふる街を  

                        小島ゆかり『獅子座流星群』

 中田喜直作曲の「雪の降る街を」です。地元旭川の私たちにはなじみある歌ですので、嬉しい気持ちになります。

 初句からの「声だけが通り過ぎゆく」は「想い出だけが通り過ぎてゆく」の歌詞のパロディです。で、三句目から、読者のミミオクにはメロディが歌詞ともに聴こえてくるのです。さあ、聴こえてきたでことでしょう?「ゆーきのふるまちをー」のリフレインが…。

 ここで楽しいのは、ルビです。「ゆき」ではなくて「ゆーき」です。つまり、「雪の降る街を」の部分はちゃんとフシをつけて歌ってねといっているのです。「ゆーきのふるまちをー」と。ですので、この作品は「メロディ」プラス「リズム」を詠った合わせ技の作品といえるかもしれません。

 「メロディ」の歌は、ここまで。

 次回は、いよいよおしまいの「ハーモニー」を詠った作品のいくつかを、皆さんと鑑賞したいと思います。

 

「かぎろひ」(2018年3月号)所収

柊明日香『そして、春』書評

 

 

 温かい歌集である。読むと、胸の深いところからほーっとする気持ちになる。それは、なによりも著者である柊明日香の人柄なのだろうと思う。短歌は、何を題材にしてもどんな風に歌っても許されるけど、やっぱり温かい人柄の歌人が紡ぐ温かい歌は、読者を幸せな気持ちにさせる。

 

 折りにふれ昔を語る母といて納戸の整理とんと進まず

 トーストの匂い満ちたる朝の部屋にとめどなく降る雪を見ており

 

「とんと」に著者の人柄が凝縮された一首目、真冬の歌なのにぬくもりの感じる二首目。歌集は、旭川に住む著者の身近な日常を詠った、いわゆる生活詠が中心といってよい。登場する人物は、父母、夫、舅姑、が主だ。そんな日常に季節や自然の移ろいを絡める。誰だって気持ちの沈むベタベタ、ジメジメの時だってあるだろう。まして、北海道の自然、とくに冬は厳しい。にもかかわらず、歌は前向きだ。実直に生きる生活人のしなやかさがある。

 

 左目の視力亡くしし老犬といつもの道をひとまわりする

 粗大ごみのシール貼られしストーブがしっとり濡れて門前にあり

 駅中の伝言板は外されてわが初恋を思い出づるも

 明日には忘れてしまう舅姑と桜の下に弁当ひらく

 

 抒情性にあふれた歌の数々。一首目、老犬との散歩。「いつもの道」を歩くと詠うだけで、切ない情感のあふれる歌となる。二首目、粗大ゴミのストーブでさえも歌になるという、歌人の技量がうかがえよう。「しっとり濡れて」いた、という著者の発見、あるいは、抒情の発露が歌になった。

 歌集は、著者の十四年間の歌作より三七一編を編んだというから厳選に厳選を重ねたのだろう。年代順に歌が並べられているのだけど、私には初期の頃のほうに瑞々しい抒情あふれる歌が多いように思った。抒情性というのは、身につけていくものなのではなく、その歌人の資質なのだということを改めて思う。柊明日香は、その持って生まれた抒情性をてらうことなく我意のものとして自在に詠っている。

 最後に、是非とも私が言っておきたいのは、多くの歌にみられるすぐれた描写である。さりげないなかに著者ならではの観察眼が光り、そこにリアリティが生まれている。

 

 園児らが反りかえりつつ見る空にディノサウルスが悠然とゆく

 散り積もるさくら花びら押し上げてマルハナバチは飛び立ちゆけり

 風呂の椅子に座りて豆の莢をもぐ米寿の母に秋の陽やさし

 

 一首目の「反りかえり」。ちゃんと見なくちゃ詠えない。振り返っても、仰ぎ見ても、ツマラナイ。リアルな描写によって歌に命が吹き込まれている。二首目の「押し上げて」。短歌は、どれだけ観察できるか、そして、それだけ正確な描写ができるかで決まる。三首目の「風呂の椅子」。何気ない描写だけど、これがあることによって、一首が秋の日和を描いた一幅の絵画となった。

 

『かぎろひ』2018年1月号所収

 

 

 

「歌のある生活」28「音楽」の歌その15

 

 前回の続きです。前回は、「メロディ」を隠喩とした斬新な歌を三首紹介しました。

 ただし、石田比呂志も杉﨑恒夫も、その曲を知っていれば、その隠喩の効果がわかりますが、曲を知らなければ、さっぱりこの作品を鑑賞できないという残念さがあります。そこが、大きなマイナスといえます。

 杉﨑のモーツァルトなど、私は相当に面白い歌だと思うのですが、モーツァルトの四〇番を知らない人には、どう説明してもその面白さはわかってくれないでしょう。

 じゃあ、ほかに「メロディ」を詠う方法はないだろうか。

 短歌にはまだまだ斬新な詠い方をした作品があります。その一つとして、一首の中に、「メロディ」をそのまま詠むというのがあります。

 さて、「メロディ」をそのまま詠むとは、一体どういうことでしょうか。杉﨑の次の歌をみてみましょう。

 

 街路樹の木の葉ふるときソラシドレ鳥刺の笛がきこえませんか  『食卓の音楽』

 

 そうです、メロディを音階にして歌の中に、入れてしまえばいいのです。ここでは、三句目の「ソラシドレ」の音階がそうです。音階を詠えば、そこにメロディが鳴るわけです。アイディア勝負の一首といえるでしょう。そして、このアイディアのすぐれているのは、音階を三句目にもってきたことで、「ソラシドレ」が八分音符五個のつながりで、そのあとに、一拍半の休符がついている四分の四拍子の一小節である、ということが、読めばわかるという仕組みになっているという点です。(と、ここまで書いてみましたが、多分、チンプンカンプンという人が大多数だと思います。文章で音楽を説明するのが、こんなにもわかりにくいとは残念です)。

 ただ、このままでも十分楽しいのですが、下句にある「鳥刺の笛」から、この「ソラシドレ」の旋律は、モーツァルト魔笛」のパパゲーノのアリアだということがわかります。けど、そんなことわからなくても、この歌のすばらしさは、十分に理解できると私は思います。

 「メロディ」の歌をもう少し。音階を詠ってみたけど、音階が読めない人には、やはり鑑賞できない。じゃあ、いっそのこと、流行歌の歌詞を一首に詠んじゃおう、だったらメロディが鳴り出すだろう、という発想の歌をみていきましょう。

 

鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」 斎藤茂吉『寒雲』

 

 茂吉を出しました。これが、流行歌を詠んだはじめての短歌かもしれません。当時の流行歌を口ずさみながら、ネズミの巣を片付けた、というただそれだけの歌です。『寒雲』は昭和十五年出版。一首にある流行歌「ああそれなのに」は、サトーハチロー作詞で昭和十一年リリース。調べてみると、この曲は大ヒットしたということですので、おそらく茂吉も口ずさんでいたことでしょう。

 この「ああそれなのに」という流行歌、今では、知らない人がほとんどでしょうが、当時は誰もがみんな知っていたのでしょう。ですので、この作品の下句は、誰もがフシをつけて歌ったに違いがありません。そう考えると、何というか、ちょっと微笑ましい感じもします。これもアイディア勝負の一首といってもいいかもしれません。

 次回も、そんな流行歌の歌詞を一首に挿入した作品を鑑賞します。

 

『かぎろひ』2018年1月号所収

「歌のある生活」27「音楽」の歌その14

 

 今回からは、音楽の歌のなかでも「メロディ」の歌を鑑賞します。

 けれど、ひとくちに「メロディ」の歌といっても、いくつかの種類に分けることができますので、ちょっと整理しながら見ていくことにしましょう。

 まずは、一首を読むと、頭の中にメロディが思い浮かぶ、というような作品があります。いうなれば、山を詠えば雄大な山並がマナウラに映り、鰻重を詠えばウナギの味が口いっぱいに広がるように、音楽を詠えばミミオクにメロディが鳴り響く、という作品です。

まんじゅしゃげ散っている道蟻の列どこか遠くでボルガの舟歌 

                           石田比呂志『老猿』

 蟻の列を見ていると、石田のミミオクから、ロシア男声合唱の野太いユニゾンが聞こえてきたのでしょう。「ボルガの舟歌」というのは、エイコーラー、エイコーラーの歌詞で有名なロシア民謡です。日本では、往年のダークダックスが歌っていました。蟻の隊列に集団労働の苦労を想ったのでしょうか、その連想で船曳きの労働歌が思い浮かんできたのでしょう。蟻の列から「ボルガの舟歌」への着想は、実に巧い取り合わせと思います。

 この石田作品と同様の構成の歌としては、杉﨑恒夫の次の作品があります。

石鹼がタイルを走りト短調40番に火のつくわたし  杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』

膨れゆく硝子の火玉 ラプソディ・イン・ブルー吹く硝子工   同『食卓の音楽』

 杉﨑には、音楽を楽しく詠んだ作品がたくさんあって、読むと読者も明るく楽しい気持ちになりますがこの二首もそうです。

 一首目。恐らくはフロ場の洗い場で、これから自分の身体を洗おうという場面なのでしょう。手にとった石鹼がツルンと滑ってタイルに落ち、その勢いで石鹼がツーっと走っていった。銭湯くらいの広い洗い場かもしれません。そのツーっと石鹼が走っていったその時に、杉﨑のミミオクにはモーツァルト交響曲四〇番の冒頭の旋律が鳴り響いたというわけです。この歌には、「モーツァルト」も「冒頭」も詠われていませんが、クラシック音楽にそこそこ詳しい読者であれば、この石鹼がタイルをツーと滑っていく時にふさわしいBGMは、モーツァルト四〇番冒頭のあのメロディ以外には考えられません。

 二首目も同様です。硝子工がぷーっと頬を膨らまして硝子玉を作る様を見て、作者のミミオクにはガーシュインの音楽が鳴り響いたというわけです。「ラプソディ・イン・ブルー」と曲名が詠われていますが、ここは、この曲の冒頭でのソロクラリネットの旋律の部分を詠っていると断言しましょう。というか、もう、あの冒頭のメロディが、硝子工のぷーっと吹く描写に、まったくもってドンピシャなのです。

 こうした石田や杉﨑の歌というのは、技法で言えば、メロディを隠喩として使っているということがいえます。すなわち、蟻の列は「ボルガの舟歌」の旋律のようであり、石鹼がタイルを走っていく様は四〇番の冒頭のようであり、硝子工がぷーっと吹く様は「ラプソディ・イン・ブルー」のクラの旋律のようである、と視覚による事象を音楽で喩えているというわけです。これは相当に高度な隠喩技法であり、斬新でもあります。音楽の歌でよくあるのは、音楽を聴きながら、我はこう感じた、という歌なわけですが、これらはそうした凡百の歌とは一線を画した、高度な修辞技法が駆使されている作品なのです。

(「かぎろひ」2017年11月号所収)

「歌のある生活」26「音楽」の歌その13

 

 前回の続きです。永井陽子のこの歌の鑑賞をします。

 べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊

 永井は、鼓笛隊の行進のリズムを詠いたかったのでした。大太鼓や小太鼓が打つタンタンタンという二拍子のリズムをどうにかして短歌にしたかったのでしょう。しかし、鼓笛隊がタンタンタン、なんてオノマトペを詠っても、そもそも短歌の韻律感以上のリズム感は生まれようもない。では、前回とりあげた二つの歌にある、「規則正しい杭」のようなリズムとか、「天人の手」のように叩くとか、修辞を駆使しようか。そんなことも考えたのかもしれない。

 しかし、永井は、そうした手法とはまったく違う発想で詠いました。それが、「べくべから~」です。

 これは、もともとある言葉(べく、とか、べから、という助動詞の言葉)をオノマトペとして使う、というのが、これまでにはなかったアイデアでした。そして、その使う言葉に意味がない、というのも、すぐれた発想といえます。つまり、この歌は、鼓笛隊のタンタンタンの二拍子のリズム感をいかに短歌の韻律感のなかで表現するか、というリズムのための一首なので、できるだけ言葉の意味に引っ張られたくない。そこで、出してきたのが、助動詞の活用形なわけでした。

 この点がもうこの歌の天才的に素晴らしいところです。名歌というのは、結構、コロンブスの卵みたいなところがあって、言われてみれば、へーそなんだー、で済まされがちで、新大陸を発見したすごさがなかなか伝わらない感じがするのですが、この一首も、まさしくそれだと思います。

 いや、まだ、あります。この歌は、短歌の定型のリズムは決して崩すことなく、短歌の韻律と、鼓笛隊のマーチのリズムが見事に一首のなかでハイブリッドしている、これまでにはなかったリズムの歌なのです。

 永井が発見したリズムを詠むこの手法は、こんな風に応用されていきます。

 だったよな抱いてだいて抱いてだいてパイン畑のなかの打楽器

 加藤治郎『マイ・ロマンサー』

 あまでうすあまでうすとぞ打ち鳴らす豊後(ぶんご)の秋のおほ瑠璃(るり)の鐘 

 永井陽子『モーツァルトの電話帳』

 加藤の歌は、「べくべから~」とほぼ同じ構成です。恐らく、加藤には永井の「べくべから~」の一首が想い浮かんでいたことでしょう。ここでは「抱いて」という言葉を、意味よりも音(おん)として使い、そして、それを四度も繰り返すことで打楽器のビート感(ダイテダイテダイテダイテ)を出すのに成功しています。なかなか面白い歌です。

 二首目、「あまでうす」はモーツァルトの名。これを日本の鐘の音のオノマトペとしたのが、とてもチャーミングです。もちろん、モーツァルトと豊後の鐘は何の関連もありません。あえてひらがなで表しているのも、意味ではなく音として使っている意図がわかります。

 永井が発想した「べくべから~」の手法は、短歌の韻律感のなかに、どうやったら違うリズムを詠うことができるのか、という難題の解答を示すものでした。この先、もっとすごい発想の歌が生まれるかもしれませんが、今のところ、この永井の歌を越えるリズムの歌というのは出現していないと私は思います。

 

「かぎろひ」2017年7月号所収