短歌の<私性>と<リアル>②

 前回とりあげた作品はこれだ。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                        今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                        脇川飛鳥

 

 これら作品について、次のような論点を提出した。

 すなわち、

 なぜ、作者は、こうしたモノローグである<わたしの想い>を、あえて原初的なままで作品として提出しているのか。

 と、いう点だ。

 

 短歌作品である以上、いかに韻律を整えるかは重要である。定型を目指すことは当然として、定型におさまらなくとも、定型意識というか、定型におさめられるようにする努力の痕跡が作品にあることが定型詩には必要だ。短歌と一行詩の違いは、当然ながら、定型意識と、そこから必然的に沸き立つ韻律感である。これが感じられれば、短歌として完成度は高まるし、韻律に乏しい歌は、どうしたって評価はされない。

 もう一つ、短歌作品である以上、いかに統辞や修辞を施すかという点も重要だ。短詩型であればこそ、その少ない言葉に張り付いているコノテーションから詩情を感じ取り、言葉と言葉をつなげる統辞の妙や多種多様な修辞技法から、歌の情感を味わい尽くすというのが、短詩型文芸である短歌鑑賞の醍醐味であろう。

 と、短歌作品の歌作についての重要点を2点あげたが、提出した今橋と脇川の短歌作品からは、残念ながら、韻詩文芸である短歌が短歌として拠って立つ必然性が感じられない。

 と、いうより、あえてこの2つを捨て去っているかのようである。韻律も修辞も意識せず、ただ<わたしの想い>をそのまま書き連ねたような体裁をとっている。定型と格闘した痕跡はない。というより、あえてそこの痕跡を消しているかのようだ。

 つまり、あえて定型への格闘の痕跡をこのさず、また、あえて統辞や修辞を施さず、そのまま即詠のような体裁をとっているのだ。

 では、なぜ、そうした原初的というか短歌の原型のようなものをあえて完成品として提出しているのだろうか。

 

 この問題を考えるときに、<リアリティ>というキーワードで考えてみたい。

 歌人にとって<リアリティ>とは何だろう。つまり、リアルな<わたしの想い>を表現するには、どうやって歌を詠ったらいいのだろう。

 おそらく、パッと心に浮かぶ<わたしの想い>というのは、普段使っている日常の言葉だろう。掲出歌でいえば、<わたしをみつけてくれてありがとう>とか<嫁に行きたくてたまらん>とかといったものだけど、普通は、そうした普段使う言葉で<わたしの想い>を言葉にするだろう。日常的に文語を使った言語生活をしていない以上、文語体ということにはならないだろう。そして、そうした日常の言葉、すなわち口語というのは、どう考えたって定型にはなっていないはずである。自由な散文型の<わたしの想い>のはずだ。

 つまり、リアルな<わたしの想い>を言葉にするのなら、それは口語で自由に呟かれているものになる。であるならば、そもそもそれは、定型あろうはずがないし、統辞や修辞といった詩的な修飾も施されているわけがない。

 そして、そうした<わたしの想い>をそのまま作品とした、という体裁ととっているのが、今橋や脇川の作品、といえるのではないか。

 

 であるから、提出した問題、すなわち、作者は、こうしたモノローグである<わたしの想い>を、なぜ、あえて原初的なままで作品として提出しているのか、の答えとしては、

 

 <わたしの想い>をリアルに表現しようとしたら、必然的に短歌的な韻律や修辞を捨て去ることになった、と、いうような体裁の作品にしたため

 

 ということになるだろう。

 

 では、このような作品は、短歌作品としてどのように評価できるであろう。つまり、短歌作品として良いか良くないか。

 と、いうと、私は否定的である。

 やはり、こうした作品は短歌というには私は手放しでみとめられない。

 韻詩文芸である以上、定型意識のないものは韻詩とはいえないのではないか、というのが、私の意見である。

 じゃあ、短歌に定型がある以上、リアルな<わたしの想い>というのを、短歌で詠うことは無理なのだろうか。

 と、いうと、最近はそんなこともないだろうとは思っている。

 そういうわけで、最近の作品をみてみよう。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

                        田口綾子『かざぐるま』

 

 この作品も、今橋や脇川と同様に、一首まるまるモノローグで作られている。すなわち<わたしの想い>のつぶやきをそのまま歌にした、という体裁をとっている。

 けれども、この韻律の深化はどうだろう。しっかり定型におさめようとする痕跡がはっきりと認められよう。ぴったり定型の音数を句またがりでつなげて、結句七音できちんとおさめている。下句の句またがりの屈折した調べが歌と共鳴しており、修辞への配慮も感じられよう。「棒立ち短歌」からの決別といえると思う。

 リアルな<わたしの想い>をこのように表現することができるところまで、現代口語短歌は成熟してきていることを、ここで確認したうえで、次に進むことにしたい。

 

 

短歌の<私性>と<リアル>①

 さて、「私性」についてのお喋りであるが、今回からは、また違った視点から議論していきたい。

 今回からは、読者側ではなく、もっぱら作品を作る側、つまり作者側からの視点で「私性」を議論してみよう。

 

 なぜ、口語で歌を作る歌人は、文語ではなく、口語で歌を作るのだろうか。

 と、いっても別に口語歌人にインタビューしたわけではないから、憶測であれこれ考えるしかないのだが、口語は文語に比べて圧倒的に詠いにくいことは間違いがない。

 とにかく韻律に乗ってくれない。あの文語の朗々とした詠いぶりをみよ。言葉が伸びやかに韻律に乗る。というか、5音7音に乗ればそれでもう歌となっている。

 それに比べて、口語のだらしなさといったらどうだろう。何とか5音7音の定型にはめたと思ったら、逆にはまりすぎて、安っぽい交通標語みたくなってしまう。そこで、仕方なく、句跨りや字余りで、わざわざ韻律を屈折させてねじれさせたりする。文語の伸びやかさと対極だ。

 それでも、口語で歌を詠うのはなぜだろう。というと、やはり文語ではしっくりこないんだろう。韻律をさっぴいても、口語じゃないと、ダメなんだろうと思う。

 このしっくりこない感じというのは、要は、<わたしの歌>としてしっくりこないんだろうと思う。文語は、借り物の言葉というか、<わたしの想い>を表現する様式と認められないんだろうと思う。<わたしの想い>を<わたしの言葉>で<わたしの歌>にするのは、文語じゃなくて、口語なのだろう。そうじゃないと、なんで、わざわざ口語で詠うのか説明がつかない。

 

 じゃあ、その口語で一体何を詠いたいのだろう。

 歌を詠うというのは、<わたしの想い>を短歌形式にのせたい、というのがプリミティブな作歌の動機だろう。

 そうでないと、こんな情報量の少ない、形式を選択するのが分からない。

 散文や現代詩と比べて、短歌形式は圧倒的に言いたいことが限られている。

 多分、何かを存分に伝えたいことがある人は、散文の世界に行っていよう。そこで、エッセイで存分に語り、あるいは、小説世界で、自分のアタマの中でこしらえた世界のあれこれを語ることだろう。

 短歌で存分に語ることは物理的に無理だ。小さいことを、ちょっとした心の揺れ、そんな日常で感じる揺れを詠うのが、短歌にはちょうどよい。

 で、そんな日常というのは、当然ながら作者本人の日常ということになる。そうした、日常にある題材で<わたしの想い>を詠うのが短歌にはちょうどいい。

 

 と、ここまで話を進めたところで、実際に、作品をみていこう。

 現代口語短歌で<わたしの想い>をストレートに詠う、というなら、こうした作品がある。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                          今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                           脇川飛鳥

 

 短歌作品といわれなければ、ただのモノローグ、とでもいわれてしまいそうな作品である。

 口語短歌文体で<わたしの想い>を詠う、もっとも原初的な形といえるかもしれない。

 本来であれば、こうした心の中のつぶやき、すなわち、モノローグから、いかにして短歌にしていくか、というのが、歌を詠む、というものだったはずだ。つまり、この<わたしの想い>を、短歌にしていくのが歌作だったろう。5音7音にはめて、韻律に乗せる作業、と、もう一方で統辞や修辞を施して、ただのモノローグを詩的芸術へと高めていくという作業、という2つの作業をやっていくのが歌作、すなわち歌を詠む、というものだったろう。

 しかし、この2つの作品は、そうした作業をすることなく、原初的な<わたしの想い>のまま、短歌として提出している。

 

 穂村弘は、こうした定型から外れた作品を「思いに対して余りにも等身大の文体」として、「棒立ち」と名付けた(「棒立ちの歌」『短歌の友人』河出書房新社)。

 自分の感情をそのままモノローグするのであれば、定型への意識は遠くなり、破調が当たり前となる。そのうえ、これまで短歌が積み上げてきた、短詩型でいかに修辞や統辞を施して詩歌としての芸術性を高めるか、といったベクトルも捨て去ることになる。これを穂村は、「短歌的武装解除」と呼んだ(前掲書)。つまり、ありのままの<わたしの想い>を言葉にしたら短歌になったという風をとるこれらの作品は、これまで短歌が積み上げてきた技法、すなわち、句またがり、対句、反復、体言止め、比喩など、を捨て去ったのだ。

 

 これらの作品を、「短歌以前」として一蹴することは可能であろう。しかし、逆に、こうしたストレートに<わたしの想い>をそのまま歌にしたことで、読者に強烈なインパクトを与えている、ということもいえよう。

 ただ、読者としては、これらの作品にインパクトはあるのは認めるものの、作品の完成度という点でみると、ちょっとなあ・・・、というのが大方の感想ではないかと思う。

 

 では、こうした作品について、作者側の視点で考えてみよう。

 なぜ作者は、こうした原初的な<わたしの想い>を、短歌的な作業を施さずに、完成した作品として提出したのだろう。

 

 つまり、こうした、心のつぶやきというのは、そのままでは作品の完成度しては決して高くないことは、作者も分かっているはずである。普通だったら、この<わたしの想い>を、韻律に乗せて、それから、統辞や修辞を施して、短歌らしくして作品として完成させていく、というのが歌を詠むという作業となる。しかし、そうした、作業をせずに、<わたしの想い>をそのまま作品として提出してしまっているのはなぜか。

 もしかしたら、こうやって提出したほうが、読者にインパクトを与えるに違いない、と作者は思ったのかもしれない。けど、そんなのは歌作の主理由たりえない、というのが、残念ながら、文芸ジャンルとしての短歌形式だ。

 もし、読者にインパクトを与えたいというのが動機だったとしたら、それは、もっと違う文芸でやったほうが、その望みはかなえられよう。

 そうではなく、短歌形式が積み上げていた、5音7音の美しい調べとか、統辞や修辞を施した短歌技法を捨て去ってまで、あえて原初的なままで作品として提出しているのは、なぜなのか。

 これを、次回、考えてみたい。

 

 

短歌の<私性>とは何か④

 前回からの続きである。

「主体」「話者」「作者」の3者の批評用語で、短歌の読み直しをしていたのだった。

 この3者を出すことで、これまでの現代短歌が、また違った様相を示すようになる。

 

 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて 

                       穂村弘『シンジケート』

 

 穂村の初期の代表歌といえるだろう。この作品は下句の<降りますランプ>に注目が集まってしまっていたが、今回は、上句の<ふたりは眠る>のところを注目しよう。

 この作品は、「話者」の存在を持ち出さないと読めない。

 たとえば、この作品を、次のように変えると、分かりやすいだろう。

 

 終バスにあなたと眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて  改作

 

<ふたりは眠る>を<あなたと眠る>に変えてみた。

 この改作であれば、「話者」の存在がなくても、これまでの「作者」と「主体」の2者でこの作品(改作)の説明ができた。つまり、「主体」は<あなた>と終バスの<降りますランプに取り囲まれて>眠っている。その状況を「作者」は叙述しているのである、といった感じだ。

 しかし、原作のように、<終バスにふたりは眠る>だとそうはいかない。ふたりが眠っている、ことを認識している第三者の存在、すなわち「話者」の存在が必要になってくる。「話者」の視点を「作者」が叙述している、ということにしないと、この作品は説明ができない。

 つまり、この「話者」の存在を認めることで、はじめてこの作品は鑑賞できるのだと思う。

 

 けど、この作品は、1990年の『シンジケート』に入っているものだから、もう30年も前の作品だ(初出は不明)。そして、現在でも穂村の初期の代表歌といわれているのだけど、この「話者」の視点については、これまで突っ込んだ議論はされていなかったんじゃないか、と思う。

 で、それはどうしてなのか、というと、短歌の世界ではこれまで「話者」という概念は存在しなかったからではないか。少なくとも、自明の存在だったとは思えない。存在しなかったのだから、議論されなかったのだと思う。

 

 さて、これまでの4回にわたった「私性」の議論を、ここで一度まとめよう。

 短歌の「私性」とは何か。という問いを立てて、これまで議論してきたけれど、乱暴にいって「近代短歌」の「私性」というのは、「作者」そのものであった。

 たとえば、子規の作品の<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>なら、藤の花をみているのは、子規本人であった。そこには、「主体」なんていう概念は存在しなかった。存在していないのだから、議論しようがない。つまり、「近代短歌」の「私性」というのは「作者」ということで、すべては了解されてきて、批評されてきていた。

 しかし、時代が進むにつれて、どうもこれだけでは、短歌の「私性」が説明できないということになった。そのエポックは、戦後の前衛短歌運動だ。

 塚本の作品にでてくる「われ」(その頃はまだ「主体」という概念は存在していない)を「作者」とすると、どうにも説明できないという事態になった。どうにも説明できなかったので、はじめの頃、塚本は相手にされなかった。けど、時代が進むにつれ、何とか説明しようとあれこれ作品批評が生まれ、塚本自身、評論の場でも短歌の世界を更新しようと試みた。現在、この当時の「私性」を分かりやすく述べたと認められているのが、以前にも引用した、岡井隆の有名なテーゼだ。

 

短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(中略)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。

岡井隆『現代短歌入門』1969年)

 

 このテーゼによって、前衛短歌で拡大された「私性」というのものが、いったい何だったのか、私たちは理解することができるようになった。

 すなわち「作者」ではない、作品の「われ」の存在が可視化されたのだ。その後、80年代後半のニューウェーブでの議論のなかで、「主体」という言葉が使われるようになり、この作品の「われ」というのが、すなわち「主体」という批評用語として定着していった。

 こうして、短歌の「私性」が「作者」だけから、「作者」と「主体」の2つになった。

 しかし、さらに時代を進めて、現代口語短歌となると、「作者」と「主体」の2つでも説明がつかない短歌が出現するようになり、そこで、3つ目の「私性」である、「話者」が、ここ最近、批評用語としてしばしば持ち出されてきたのではないか、というのが私の見立てである。

 この、「作者」と「主体」の2者だけでは説明ができない作品、というのは、今回掲出した穂村の<終バスにふたりは~>がそうだし、これまで議論してきた、いわゆる「話し言葉/実況タイプ」の歌がそうだ。

 これらの歌は、一読、おかしな日本語を使っており、それは結句の「現在形」終止が端的なのだが、そうしたおかしな日本語も「話者」の存在を出すことで説明が可能ということは、これまで議論した通りだ。

 また、なぜ、現代口語短歌は、そんな「話者」の存在が必要となる作品になっているのか、という問いについては、おそらく<リアリティ>を出すためにそうした叙述になっているのだろう、ということを仮説として提出している。

 

 そういうわけで、短歌の「私性」とは何か、という問いについて現時点で回答するならば、

「主体」「話者」「作者」の3者によるものであり、この3者はそれぞれ別物である、ということになるだろう。

 

 さて、ここから先は蛇足になるが、これまでの短歌批評は、「作者」批評や「主体」批評が中心であった。

「作者」批評というのは、一首とりあげて、この歌はどういう意図で作られているのか、とか、作者の心情はどのように歌に表れているか、といった批評だ。

「主体」批評というのは、歌の内容についての批評であり、主人公の行為や心情について批評するというものだ。

 こうした「作者」中心型、「主体」中心型、あるいは2つ合わせたミックス型、というのがこれまでの批評の中心だった。

 それはそうで、「話者」という概念は、ついこの前まで短歌の世界には存在していなかったのだから。

 けれど、そろそろそうした「作者」型や「主体」型ではなく、「話者」型で批評するべきだというのが私の主張で、それは、これまで私が、ずっと言い続けてきた批評、すなわち「一首評は形式主義的批評であるべき」ということと一致しよう。

 つまり、一首評については、「作者」のプロフィールや心情は取り上げない、「主体」の行為や心情の是非についても批評しない、もっぱら「話者」の語り方についてあれこれ批評する、そうした形式主義的な批評のほうが、短歌の批評は生産的であろうと考えるのだ。

 だって、短歌も詩歌文芸なんだから、統辞や修辞を批評せずしてどうするの?、と思うのだ。

 

短歌の<私性>とは何か③

 前回までに、3つの批評用語がでてきた。「主体」「話者」「作者」の3つだ。これは、今日の短歌批評では別人である。

「主体」は作品の中の<わたし>。小説でいえば「主人公」。

「話者」は作品の中の語り手。小説でいえば「地の文」を語っている人。

「作者」は作品を<叙述>する人。小説も同様。

 

 「近代短歌」はこの3者はイコールだったが、現代口語短歌はこの3者が別人なので、この点を理解しないと現代口語短歌の批評ができない、ということになる。

 と、ここまで進んだところで、次の問題は、これだ。

 

 では、作者は、作品をどこで<叙述>しているか。

 これを考えてみよう。

 前回まで永井の作品をえんえんと分析してきたから、今度は、違う作品にしよう。

 分析して楽しい気持ちになるような瑞々しい相聞がいい。

 

 イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

              初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 そういうわけで、この作品。

 これまでの議論を踏まえて、この作品を分析するなら、この作品は口語短歌の、リアルタイムで中継する、「話し言葉/実況タイプ」だ。

 「主体」は、イルカが飛ぶのを見て、続いて、落ちるのをみる。そんなイルカショーを君と見ているときに、君が何も言っていないのに、主体のほうを「ん?」て振り向いた、という場面だ。これを、「話者」が実況しているということになる。

 では「作者」は何をしているか。と、いうと、作者は、この作品を<叙述>している。では、どこで<叙述>しているか、というと、それはPCの前でキイを叩いてるんだろう。いまどき、書斎で万年筆を握って原稿用紙の前、ということではないだろう。

 少なくとも、イルカショーの席で君の隣に座っていないことは、明白である。

 いいだろうか。イルカショーの現場に「作者」はいない。いるのは「主体」だ。

ちなみに「話者」は、というと、「主体」とほぼ同じ位置にいると思われる。

 提出した作品は「話し言葉/実況タイプ」の作品だから、「主体」のすぐ近くに「話者」はいるし、「主体」が動けば、「話者」が追いかける、ということになる。そうしないと実況ができない。

 では、この「主体」「話者」「作者」の3者の関係、これ、「近代短歌」だったら、くっきりと分けることができるだろうか。

 正岡子規ならどうだろう。

<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>

 藤の花を見ているのは「主体」。その藤の花について語っているのは「話者」。それを叙述しているのは「作者」。ということになるのだが、どうも、「主体」の「話者」の区別が、イルカの歌ほどはっきりしない。藤の花を見て写生しているのは、「話者」だけど、その藤の花を見ている視線は、「主体」と「話者」で一致しているといえるかもしれない。

 あるいは、「話者」と「作者」の区別がつかない、という意見も成立しそうである。<叙述>しているのは「作者」に違いないが、その叙述内容は、「話者」の写生と寸分違わない、といえそうだ。

 なぜ、イルカの歌と比べて、藤の花の歌は、「主体」「話者」「作者」の区別がはっきりしないのか。

 と、いえば、時間の経過が見えないせいだろう。つまり、イルカの歌には、イルカがとんだりおちたり、君が振り向いたりと、時間の経過がわかる。時間にすれば十数秒かもしれないが、一首に時間がながれている。まさしく、実況ができる。

 けど、子規の藤の花の歌は、時間の経過はさしあたってない。だから、実況ができないので、三者の区別がつきにくいのだろうと思う。

 このことは、小説世界をイメージするとわかる。小説世界は、ストーリーを展開させていく以上、時間の経過について叙述するのが当たり前だから、「主人公」「語り手」「作者」の区別はつくだろう。

 しかしながら、小説の世界にも、情景描写のようなストーリーが前に進まない場面がある。こういう部分では3者の区別が曖昧になろう。というか、そでの「主人公」の動作は叙述していないだろう。そうした叙述と、藤の花のような写生の作品とは似ているだろう。

 

 ところで、時間の経過といえば、以前に、次の2作品を比較したことがあった。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり

                  斎藤茂吉『つゆじも』

 永井の作品は、典型的な実況型だ。「主体」はたばこの灰で字を書こうとしたり、おもいつかなかったり、こすりつけようとしたりしている。その「主体」の心の動きを、「話者」はその場面場面について実況している。そして、「作者」は自宅のPCの前で、打ち込んでいる、ということになる。

 一方、茂吉の作品もまた、「主体」は、海の向こうを思ったり、暮れた道に佇んでいたりしている。その様子を「話者」が語り、その語りを「作者」が叙述している、ということになる。

 やはり、時間の経過が感じられる作品は、3者の区別はつきやすいように思われる。

 つまり、こうした時間の経過型は3者の区別は容易だが、一瞬の切り取り型になると、3者の区別はつきにくい、といえるのではないか。

 とりあえず、そうした仮説を提出して、次回、また話を進めていこう。

短歌の<私性>とは何か②

 前回からの続きである。

 この作品の分析を通して、短歌形式の<私性>ということについて議論をしているのだった。

 

 日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる

                      永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 この歌は、リアルタイムで中継をする「話し言葉/実況タイプ」ととらえてよいが、では、実況をしているのは誰だろうか。

 まず、日本の中でたのしく暮らしていたり、雪の中に手をさしいれたりしているのは、この作品の主人公だ。これを、短歌の批評用語では「作中主体」あるいは「主体」という。

 本Blogでも、「主体」という用語で、説明してきている。ようは、作品に登場する「わたし」ということになる。

 そうなると、その「主体」の心象や行為を実況しているのは誰だろう。というと、これは、新しい批評用語をださないといけない。けど、短歌の世界で、この実況者に対する用語は、共通認識として流通していないようだ。そこで、本稿では「話者」と名付けよう。

 この実況者は誰かという話題は、短歌の世界ではこれまで注目されていなかったが、小説の世界を連想すれば、古くからの話題といえる。いわゆる「地の文」で表されている「語り手」のことだ。小説世界では、一人称にしろ三人称にしろ、この「語り手」は分析対象あるいは研究対象となっていようが、短歌の世界では、どうも最近までは議論の対象にあがることはなかった。というか、必要とされていなかったのだ。

 なぜかといえば、近代短歌の世界では、「わたし」といえば、作者そのものだったから、いちいち用語を使って議論する必要がそもそもなかったのだ。

 

 例えば、<はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る>

の、わが生活というのは、石川啄木の生活であり、手を見ているのも啄木自身だ。それは、いちいち確認する余地はない。

 <瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>

だったら、藤の花をみているのは、正岡子規なんだから、わざわざ「主体」なんていう用語は必要なかった。

 これが近代短歌の読みの作法だった。

 こうした読みの作法をはっきりと転換させたのが、塚本邦雄に代表される前衛短歌だった。

 

雪の夜の浴室で愛されてゐた黑いたまごがゆくへふめいに

割禮の前夜、霧ふる無花果樹の杜で少年同士ほほよせ

銃身のやうな女に夜の明けるまで液狀の火藥塡めゐき

乾葡萄のむせるにほひにいらいらと少年は背より抱きしめられぬ

                   塚本邦雄『水葬物語』

 

 一首目。 菱川善夫『塚本邦雄の生誕』(沖積舎 二〇〇六)によれば、「黑いたまご」は女性器の喩、であるという。そして、それが「ゆくへふめいに」なったという結句より、この作品は、人間の深部にひそむ欲望の物語化、であるという。いずれにせよ、この作品が、塚本が浴室で女性器を愛している、その性愛場面を詠った、というようなエロスの歌ではないことは理解できよう。

 二首目も同様に、きらびやかな喩と強い物語性によって一首が構成されている。菱川は「無花果樹」が少年の聖なるペニスの映像を引き出している、ととらえ、旧約聖書のアダムとイブによる知恵の実の物語が喚起されるという。つまり、「無花果樹」は、ペニスの喩であり、また、旧約聖書へ喚起する物語性を備えたものでもある、というのだ。

 三首目、四首目も菱川は同様に読み解く。「液狀の火藥」は精液の喩であるとし、「背より抱きしめられぬ」からはホモセクシュアルへの物語性が導き出される、としている

 こうした、短歌作品の虚構性によって、「作品のわたし=作者」という構図は崩壊し、小説世界のような、作品の登場人物(「主体」)と「話者」による作品、という読みのモードが成立したのである。

 前衛短歌をくぐり抜けた今日では、短歌作品を読む場合、とりあえず、「主体」と「作者」はイコールではない、というのが、読みの作法となっている。

 すなわち、

<会うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月>と俵万智が『チョコレート革命』で詠っているとしても、俵万智本人が不倫しているかどうかについては、さしあたって読みの範疇にはいれない、というのが今日の読みの作法ということになる。

(そして、それは「一首は形式主義的に批評せよ」と主張する筆者にとっては、至極まっとうな作法といえるが、それは、また別の話題である)。

 さて、そういう読みの作法が前衛短歌運動以降、短歌の世界で浸透していくなかで、ようやっと最近「話者」という観点が批評のなかで話題にあがってきた、ということだ。

 冒頭に提出した永井の作品では、日本の中でたのしく暮らしていて、雪に手をさしれようとしている、または、さしいれているのは、この作品の主人公の「主体」ということになり、その状況を、実況しているのは「話者」ということになる。

 同様に、前回提出した堂園の作品、<震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる>で、繰り返しダンスをしたり、繰り返し君と煮豆を食べているのは「主体」であり、その「主体」の行為を実況しているのは「話者」だ。

 同様に前回提出した初谷の作品、<イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く>で、きみと一緒にイルカショーを見ているのは「主体」であり、イルカショーやきみの動作をリアルタイムで実況しているのは「話者」である。

 

 と、ここまで話を進めたところで、次にこの問題を提出しよう。

 じゃあ、「作者」はいったい誰なのだろう?

 と、いえば、この「話者」の実況を<叙述>している人物ということだ。

 小説の「地の文」の「語り手」が「作者」とイコールではないのと同様、短歌作品の「話者」が「作者」とイコールではないのである。

 「作者」はあくまで、作品を<叙述>している人間だ。

 歌は<詠う>ものではない。<叙述>するものなのだ。

 さあ、ここの理解ができれば、話はさらに進めることができるのだが、今回は、かなり沼に潜った感じがするので、この先は次回にしよう。

 

短歌の<私性>とは何か①

 前回までは、<リアルの構造>について、議論を進めてきた。

 今回からは、テーマを変えて、短歌の<私性>について議論したい。

 こちらもまた、短歌にとっては重要な論点なのだが、なぜ、重要なのかというと、やはり「近代短歌」の本質にかかわるからだ。であるから、これから議論することは、前回までにあれこれ議論した短歌形式の「リアリティ」についての内容とかかわってくるはずなのだけど、うまくリンクできるかどうかは、まだわからない。

 とりあえず、現代口語短歌を分析しながら、なんとか<私性>の深いところ、できれば「近代短歌」の本質のあたりまでたどりつけるように頑張りたい。

 

 はじめに分析する作品は、これだ。

 

 日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる

                      永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 内容は難しくないだろう。解説も不要だろう。

 注目したいのは、<暮らす>と<さしいれる>の2つの述語だ。どちらも「現在形」で記述されている。けど、よくみてほしい。これ、<暮らす><さしいれる>とも、日本語の「時制」として、おかしくないだろうか。

 <たのしく暮らす>、これ、正しくは「たのしく暮らしている」であろうし、<さしいれる>も、正しくは「さしいれてみる」「さしいれている」「さしいれた」あたりになるだろう。いずれにせよ、<暮らす><さしいれる>の動詞の「現在形」終止は話し言葉の日本語としておかしい。

 こうした、現代口語短歌の「現在形」終止のある口語短歌作品について、斉藤斎藤は次のような提案をする。

 

 (前略)しかしそろそろ「口語短歌」を、二つに分けて論ずる時期ではないか。二つとは、目の前の出来事をリアルタイムで中継する、話し言葉/実況タイプと、過去の出来事を書く私の現在から振り返る、書き言葉/追憶タイプである。

(「短歌人」時評、2016.5)

 

 斉藤は、口語短歌を2つにカテゴライズすることを提案しているわけだが、その1つを「話し言葉/実況タイプ」と名付ける。なるほど、目の前の出来事をリアルタイムで中継しているということにすれば、「現在形」終止で記述しても、日本語としておかしい、ということにはならない。

 つまり、掲出している永井の作品でいうと、今、主体が日本のなかでたのしく暮らしている、という状態をリアルタイムで実況しているととらえるとよい、ということだ。ただし、それでも、<たのしく暮らす>は、やっぱりヘンで、実況するという設定でも「たのしく暮らしている」という、<~ている>形であらわさないと話し言葉の日本語としてはおかしいとは思う。

 そうした粗さはあるものの、口語短歌作品のいくつかは、話し言葉で実況している、ということにすれば、日本語のおかしさはある程度解消されるので、この提案はなかなかいい線といっていると思う。主体が、ぐちゃぐちゃの雪に手を差し入れる状況を、リアルタイムで実況している、とらえると、この「現在形」終止は、これでいい、となる。

 日本語としておかしな「現在形」終止を、斉藤のいう<話し言葉/実況タイプ>としてとらえたら、そのおかしさが解消されるであろう現代口語短歌は、たくさんあるが、いくつかあげるなら次のような作品群だ。

 

雨の日は身をいじめたい思いもち庚申塚をまわって帰る      沖ななも

宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている     奥田亡羊『亡羊』

降る雨の夜の路面にうつりたる信号の赤を踏みたくて踏む  

                          内山晶太『窓、その他』

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く 

                          花山周子『風とマルス

あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                         山川藍『いらっしゃい』

震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる

                    堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

              初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 いかがであろう。

 どれも、リアルタイムで実況している作品だととらえれば、へんな日本語とはならない。

 さて、提出した堂園と初谷の作品であるが、この2作品については、東郷雄二が『ねむらない樹』5号で<私性>についての小論で言及している。

 東郷は、堂園と初谷の作品と、岡井隆<薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ>ほかの作品とを比較し、<私性>を2元論的に論じる。

 東郷は言う。

 

 この二つ(堂園に代表される歌と岡井に代表される歌の2つ―引用者)の<私>は多数の軸において対立する。まず前者(堂園の作品―引用者)の<私>は瞬間的で奥行きがない(瞬間性)。こうして切り出された<私>は過去と切断された<私>である(非歴史性)。(中略)かたや後者(岡井らの作品―引用者)の<私>は持続的で奥行きがある(持続性)。そのため過去と繋がっており、積み重ねられた記憶を抱えている(歴史性)。岡井の歌も藤原の歌も、自分の今の状況と過去の苦い記憶が重ね合わされていることからもそれは明らかだろう。

(『ねむらない樹』5号、2020.8)

 

 こうして、東郷は岡井や藤原龍一郎の作品(「首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば」)と比較するかたちで、堂園や初谷むいの作品(「イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが『ん?』と振り向く」)には、瞬間性と非歴史性という2点を指摘する。

 そして、次のように小論をしめくくる。

 東郷は言う

 

 現代の若手歌人は歴史性をになう持続的な<私>よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>に惹かれている。

(東郷、前掲書)

 

 堂園と初谷の2作品をして、「現代の若手歌人」とくくってしまうのは乱暴と思うが、とりあえず、この2人について言えば、導かれる結論としては整合していよう。

 そして、この東郷の「瞬間性」と「非歴史性」という指摘は、そっくり斉藤斎藤の言説に重ね合わせることができる。

 すなわち、目の前の出来事をリアルタイムで中継する、「話し言葉/実況タイプ」の作品は、歴史性をになう持続的な<私>よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>に惹かれているがために、そうした「現在形」終止で詠われているのである、と。

 

  斉藤斎藤の提案する「話し言葉/実況タイプ」というのは、いわば作歌のやり方、すなわち方法論からの提案なのだが、要は、かけがえのない今を詠うには、リアルタイムで実況するのが最適なやり方で、それため「現在形」終止で歌を作っている、というわけだ。

 で、問題は、東郷が指摘している堂園と初谷の作品のような現代口語短歌のいくつかは、なぜ、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>を詠うのか。

 つまり、東郷のいう「瞬間性」なり「非歴史性」なりに惹かれるのか。

 

 と、それは、<リアリティ>の追求ということなんだろうと思う。

 つまり、イマココのかけがえのない瞬間、イマココの私のリアルな思いを詠いたい、という追求がそうさせているのだと思う。

 永井の歌であれば、<日本の中でたのしく暮らす>というイマココの実感として、<道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる>という行為があるのだろう。

 そして、この2つの事象は、ともに因果関係がないように詠われている、という点も重要だ。

 つまり、歌からは、日本の中でたのしく暮らしているという具体事例として、道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれている主体、という関係性は読めるのだけど、その2つの事象が、それぞれ独立して詠われているというのがポイントだ。

 この2つの主体の想起と行為は、それぞれ瞬間的なものだ。そして、それぞれに独立しているから、非歴史的なのだ。

 そうした瞬間的で非歴史的であるということを表現するする技法として、リアルタイムで実況するという「話し言葉/実況タイプ」の叙述方法が選ばれているのである。

 これが、永井の作品にみられる<リアリティ>だ。

 もうひとつ。

 では、なぜ、こうした叙述法が選ばれているか。

 というと、これまでの近代短歌的手法に、どうにも<リアリティ>を感じていないのではないか、と思うのだ。だから、実況しているのだろう。

 

 さて、話を進めて、また問題を提出しよう。

 これら、「話し言葉/実況タイプ」の現代口語短歌作品、果たして実況しているのは、いったい誰だろうか?

 この問題を考えることで、次回、短歌形式の<私性>の沼へと潜っていくことにしよう。

 

短歌の「リアル」⑨

 <リアルの構造>について、かなりダラダラと議論したので、今回で、一旦まとめておきたい。

 短歌を読んで、ああ、これは本当のことを詠っているに違いない、と読み手が実感するためには、その短歌に何らかの<リアリティ>を担保するための仕掛けが必要。では、そんな<リアルの構造>といったものは、何なのだろうか、ということを、これまでいろいろ議論した。

 議論から、どうやら「具体的」で「小さな違和感」といったものが、一首のなかに詠われると、<リアリティ>が担保され、もうひとつ、「時間の経過」が分かると同様に<リアリティ>が担保される、というところまで議論した。

 では、なぜ短歌にはそもそも<リアリティ>が必要なのか。

 この点を議論して、ここまでのまとめとしよう。

 

 そもそも短歌には<リアリティ>が必要なのか。

 別になくたっていいじゃないか、という主張は成り立つだろう。

 だって、古典和歌は<リアリティ>を担保して詠んではいない。というか、<リアリティ>という概念がなかったからそれはそうなんだけど、古典和歌は、いかに巧い修辞を施すか、ということが秀歌の指標だったろう。掛詞、縁語、序詞、枕詞といった修辞技法を駆使して作歌できること、また、本歌取りの手法によって古典和歌や漢籍の部分を一首にとり込めること、なんていう一定以上の階級に属するものの素養として古典和歌があった。

 そうした古典和歌の特質をそのままに近代短歌でも詠えばよいのではないか、という主張は成り立つだろう。

 しかし、「近代短歌」はそうはならなかった。

 そうならなかった理由はいろいろあるけれど、そのひとつとして、正岡子規にはじまるアララギ系が短歌史の本流となったということをあげても、大きな間違いではないはずだ。

 これは、ニワトリと卵になってしまうが、子規によって「近代短歌」という短歌史の本流が成立してしまった以上、短歌は「リアル」を追求したのだし、「リアル」を追求したから「近代短歌」は成立したともいえるのだ。

 もし、正岡子規アララギの系譜じゃなくて、例えば、御歌所派とか、別の耽美的・浪漫的な流派とかが短歌の世界の主流になったのなら、ここまでリアルにこだわることはなかったのではないか、とも思う。あるいは、いわゆる「近代文学」、そのなかでも自然主義文学と距離をおいておいたなら、俳句的なわびさびで短歌形式を愉しめたかもしれないのだ。

 それはともかく、そうした写実的リアリズムが近代の短歌史の本流を牽引したからこそ、現在でもなお、短歌は<リアリティ>を追求するのがごくごく当然の前提として、そして<リアル>が作品の評価軸となっているのだ。それは、今後、口語短歌が全盛になったとしても、おいそれとは変わらないだろう。

 例えば、2年ほど前に、短歌の世界では「基本的歌権」というワードが議論になったことがある。けど、これも、要するに短歌の<リアリティ>についての議論だった、ということが、今にしてわかる。

 すなわち、従来の<リアリティ>という評価軸で作品を批評することへの異議申し立てが、「人権」ならぬ「歌権」という表現で提出されたのだ。

 ことの顛末は、こうだ。

 穂村弘は、佐々木朔の<消えさった予知能力を追いかけて埠頭のさきに鍵をひろった>の一首をパッと見た瞬間、これはレートの設定が高い、すなわち、いいところでいいものを拾っている、と思った、という。

 そこで、「それだと一首の回収が難しくなるよね」みたいなことを言ったら、寺井龍哉に、「そういう批評は今はいかがなものか」というニュアンスで返され、それを受けて、アイロニカルに穂村自身が「そうか、基本的歌権の尊重なんだ」と言ったというのが、ことの顛末だ。(「歌壇」2018.10佐佐木定綱による穂村弘のインタビューを参照)

 で、何を言っているのかというと、あくまでも穂村は<リアリティ>という従来の評価軸で、「レートの設定が高い」とか「一首として回収が難しい」という言い回しで、いいところでいいものを拾っている(「レートの設定を高くする」)と一首にリアリティが担保できない(「回収がむずかしい」)、と言っているのに対し、寺井は、今はそういう批評はどうですかね、と言っているわけである。

 結果、この「基本的歌権」については、多様な論点で議論されたのだが、穂村のはじまりの発言<レート設定>に関する論点について、つまり従来の<リアリティ>という評価軸で作品を批評することの妥当性については、あまり深まらなかったのではないか。

 ただ、今後も、こうした短歌の<リアリティ>についての議論は、言葉のニュアンスを変えながらも論点として提出されていくだろう。そして、議論する中で、「近代短歌」の総括というか、「近代短歌」でくくられる明治から現在までの短歌史がその都度上書きされていくのだろうと思う。