口語短歌とは何か④

4 口語短歌と〈私〉

 前回までで、明治期の口語短歌のはじまりから、昭和の初期までやっとたどり着いたのだけど、せっかく言文一致運動や自然主義文学にふれたのだから、もう少し、口語短歌の当時の革新性について述べたいと思う。

 すなわち、口語短歌というのは、単に「話しているような書き言葉による短歌」ではなくて、わが国の韻詩文芸の叙述について、重要なエポックになったのだ、ということを述べていこうと思う。

 

・短歌の読みの作法とは

 前回、正岡子規の次の作品を掲出した。

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                        正岡子規『竹乃里歌』

 この作品は、近代短歌の黎明期の名歌であり、いろんな論点で分析ができようが、今回は、「視点」について考えてみよう。

 藤の花ぶさを見ているのは誰か。つまり、誰の「視点」で藤の花ぶさをみているのか。

 というと、正岡子規、といいたいところだが、それは違う。恐らく、子規は病床で花ぶさを見ていたとは思うが、この作品で見ているのは、〈主体〉である。

 この〈主体〉、小説の世界なら、〈作中人物〉とか〈主人公〉とかいう呼び名で呼ばれたりするが、短歌の世界では慣例的に〈主体〉という用語が使われている。

 では、子規は何なのか。というと、子規は、この作品を叙述している〈作者〉だ。なので、〈作者〉と〈主体〉は別人なのだ。

 ここの部分、小説の世界だった、わりとすんなり理解できるのだが、短歌の世界だと、いまひとつストンとおちない。それは、どうしてかというと、やはり自然主義文学の影響が現代でも色濃く残っているからだろうと思う。

 つまり、田山花袋の『布団』では、田山花袋自身のことを赤裸々に叙述している、というような自然主義文学の影響を、近代短歌はいまだに引きずっているからだ。この影響による読み方が、令和の世の中になっても、基本的には変わらない短歌の世界のスタンダードとなっている。

 小説世界ならば、例えば、太宰治の『人間失格』の〈主人公〉を、太宰治そのものとして読むことは、昭和の時代ならともかく、今の時代は、もうないだろう。だから、現代は、〈私小説〉といえども自然主義文学から脱却しているといっていいのだろうけど、どういうわけか短歌の世界はそうなっていない。花ぶさを見ているのは子規という前提で、作品を読んで鑑賞している。つまり、短歌の世界は、いまだに、近代を脱却していないのだ。というのが、筆者の主張だ。

 と、こうやって主張してみたけど、多分、まだストンとおちていないんじゃないかなと思う。つまり、そんなこといわれたって、藤の花を見ているのは、子規に違いないでしょ、というわけだ。なんでそう、かたくなまでに思ってしまうのか、というと、これがまさしく近代短歌の〈私性〉と呼ばれているもので、短歌の登場人物の〈私〉というのは、とりもなおさず〈作者〉である、という了解ごとのせいなのだ。

 いま、了解ごと、と、いったけど、読みの作法、といってもいいだろう。つまり、作品のなかの〈主体〉と〈作者〉を同一視して読むのが、短歌の世界の了解事項、ようは、作法なのである。

 さて、ここまでの議論を、今度は、叙述をしている者に注目して考えてみよう。

 この子規の作品を叙述しているのは誰か。というと、これは、先ほど述べたように、〈作者〉だ。つまり、この作品でいえば、正岡子規ということだ。

 しかしながら、この叙述をしている者、これは〈作者〉なのだけど、作品のなかで、藤の花ぶさが畳の上にとどいていない、と語っている者は誰か。というと、これは、小説の世界でいうところの、〈語り手〉となる。

 

・〈語り手〉とは何か

 小説の世界では、叙述している〈作者〉が、その小説の中では、〈語り手〉となってストーリーを展開している、という体裁をとる。

 たとえば、「メロスは激怒した」という一文であれば、〈主人公〉はメロスだが、その一文は〈語り手〉が語っている、というように解釈する。なんでわざわざ、〈作者〉ではなく、〈語り手〉なんていう新しい呼称を出しているのかというと、小説の世界というのは、あくまでも、現実世界ではなくフィクションの世界なんだから、そんな現実世界ではないところに、現実世界にいる〈作者〉という呼称を使うと、議論がややこしくなる、という理由からだ。

 そこで、小説の世界では〈作者〉ではなく、〈語り手〉が話をすすめていく、という体裁をとる。

 ただし、この〈語り手〉というのは、小説の世界が出現する前から既に存在していたといえる。たとえば、「むかし、むかし、あるところに~」ではじまる昔話やおとぎ話の類は、まさしく〈語り手〉がいてはじめて成り立つ物語だったろう。

 あるいは、もっとさかのぼれば、太古の昔に成立した、神話の類も〈語り手〉が語って生まれたものだったろう。そして、神話の〈語り手〉というのは、まさしく神の「視点」で語るというものだった。それは、日本神話に限ったことではなくて、そもそも物語のはじまりというのは、そういうものだったろう。例えば、ギリシャ神話でもローマ神話でも日本神話でも何でもいいけど、そのはじめは、誰かが神の「視点」で語ったことが伝承されて、そのうちにそれぞれの文字で表して、石だったり紙だったり木簡だったりにのこした、ということだったろう。

 そんな〈語り手〉だったのだが、小説の世界で注目されはじめたのが、明治期の言文一致運動であった。そこでは、西洋小説を翻訳する時に、いったい、この小説を誰に語らせたらいいのかが大問題となった。

 もし、従来の文語体でいいのなら、これまで同様に、神の「視点」による〈語り手〉で語らせればよかった。「むかし、むかし、あるところに~」の世界である。しかし、話し言葉のような書き言葉で書こうとするなら、この〈語り手〉は、一体、誰なのか、という問題が浮上したわけである。

 そして、前回までに議論してきたように、〈語り手〉をどういう人物にするかで、文末表現が大きく変わっていったりもしたのだった。

 ここまでの議論で〈語り手〉の存在について分かったところで、議論を「視点」にもどそう。

 一人称小説なら、登場人物の〈私〉が小説のなかで語るというのが前提だから、〈語り手〉は、〈主人公〉ということになる。ここでは、〈主人公〉の「視点」でストーリーは展開するということになる。〈主人公〉が見えていないものは、語られない、というのが叙述のルールということになろう。

 一方、三人称小説となると、〈語り手〉は、〈語り手〉の「視点」で小説のなかで語る、ということになる。この〈語り手〉の「視点」であるが、ある時は、物語の世界のことはなんでも分かっている神の「視点」だったり、あるいは、〈主人公〉と同じ「視点」だったり、あるいは、〈主人公〉と同じものを見ているのだけど、少し「視点」がずれていたり、とさまざまだ。

 そうやって、小説の世界は、明治期以降、進展していったのだ。

 

・短歌の世界の〈私〉

 では、この〈語り手〉の「視点」を短歌作品になぞらえてみよう。

 先ほどの、子規の作品ではどうなるだろう。

 花ぶさを見ているのは、病床にいる〈主体〉となる。そして、その「視点」は、〈主体〉のそれだ。なので、〈語り手〉も〈主体〉ということでいいのか。

 というと、これは「わからない」というのが、解答になるだろう。つまり、〈語り手〉は〈主体〉なのか、それとも、別に存在するのか、どちらともいえるのだ。別の言い方をすれば、この作品は、一人称作品でもあるし三人称作品でもある、ということである。

 これは、どういうことかというと、短歌作品というのは、文字通り短い作品だから、人称がわからないことがある、ということなのだ。

 だから、〈主体〉が〈語り手〉となって語っているといえるし、あるいは、そうじゃなくて、〈語り手〉が〈主体〉と同じ「視点」で語っている、ということもいえるのだ。

 ただし、短歌の世界は、〈私〉の「視点」で詠う、というのが慣例となっているから、この子規の作品も、〈私〉が語っている、と言われることが多い。というか、それが当然として鑑賞されていた。そして、そこでの〈私〉というのは、とりもなおさず〈作者〉のことである、と了解される。というのも、それやって了解して読むのが、短歌の読みの作法だからだ。

 そういうわけで、この作品は、病床にあった正岡子規が、その病床から見た「視点」によって詠っていると解釈される。だからこそ、この作品は、病床から見上げた「視点」で、しかも、寝ているのだからじっと「視点」が動かないことによる描写、つまりは写実性の強い作品であると評され、はれて名歌の仲間入りとなっているのである。

 

・短歌の「視点」とは

 短歌作品の〈主体〉とは、〈私〉のことであり、その〈私〉とは、とりもなおさず〈作者〉のことである、というのが、近代短歌の読みの作法、であった。ということは、先に述べた。

 けれど、作品の叙述は〈私〉の「視点」なのか、〈語り手〉の「視点」なのか、という問いをたてて短歌作品を読むと、とたんに、あやしげな作品になる、というのがある。

  東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる

                        石川啄木『一握の砂』

 啄木の名歌である。砂浜で、〈主人公〉である〈私〉が、蟹とたわむれているのだが、ここで問題にしたいのは、上句だ。「東海の小島の磯の白砂に」というのは、誰の「視点」か。というと、そのすぐ次に「われ」があるんだから、〈私〉すなわち〈主体〉の「視点」に決まっているじゃないか、と言われそうだけど、〈主体〉は泣きながら蟹を見ているのだ。これはどうもあやしくないか。

 先ほどの子規の作品であれば、初句から最後まで、「視点」は動かなかったが、啄木の歌は、蟹とたわむれている〈われ〉の「視点」の他に、別の「視点」がありそうな感じがしないだろうか。

 この作品の上句は、一般的には、東海の小島の磯の白砂、と「の」で繋げながら、「視点」がどんどん焦点化していく、という解釈がなされている。カメラのズームアップみたいなものだ。最近では、グーグルアースで、グーンとズームアップして啄木が蟹とたわむれている姿をとらえるみたいなイメージではないか。しかし、そうなると、その「視点」は、ますます〈私〉の「視点」じゃなくなってくるのだ。

 どうだろう、誰の「視点」か、という問いをたてると、名歌もなんだかおかしな作品に思えてこないだろうか。

 もう一つ示そう。

 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

                          佐佐木信綱新月

 こちらも名歌である。この歌もまた、「の」でつながっている。

 この作品の〈主体〉は、薬師寺の前で、薬師寺を見ているのだろう。その薬師寺の塔の上に雲を見つけた、というわけである。こちらもまた、カメラのズームがイメージできそうである。薬師寺を遠景で撮りながら、塔の上の方にカメラがよっていて、最後に、ひとひらの雲を撮った、というわけだ。さて、この「視点」であるが、こうした「視点」の焦点化というのは、普通の人間の「視点」の移動を考えても、不自然であるということがいえるであろう。あまりに、作為的ではないか。では、この作為的な「視点」の移動というのは、一体、誰の仕業なのか、というと、やはりこれは、〈私〉ではない人物、すなわち〈語り手〉の存在で考えるのがいいのではないか、と思われるのだがどうだろう。

 最後の例として、グッと現代的な作品から〈語り手〉を考えよう。

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

                        斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 ここまでくると〈語り手〉が語っているのが明らかである。

 この作品、例えるなら、ハンドカメラが、雨の県道を映しながら移動して、のり弁を発見してズームで静止した感じである。では、こうしたカメラの動き、すなわち〈主体〉の視点を操作しているのは誰か。というと、それは〈作者〉といいたいところだが、違う。〈語り手〉である。作品のなかの時間を操るのは〈語り手〉の役割である。繰り返しになるが、〈作者〉は、それを叙述する役割だ。〈語り手〉は、ある時点は詳しく語り、ある時点は端折って語る。たまに、読者に話しかけたりもする。こうした作品のなかの時間の操作や自在な語りは、〈主体〉にはできないことであり、〈語り手〉の特権といえる。

 

口語短歌とは何か③

3 明治期の口語短歌

・明治期の口語短歌

 これから、明治期の口語短歌作品を取り上げていこうと思うけど、その前に、これまでの議論を振り返っておこう。

 これまでは、もっぱら「口語」とは何か、ということを議論した。

 そして、結論として「口語」というのは、明治期に生まれた新しい書き言葉、という意味でひとまず決着した。だから、「口語」というのは、あくまでも書き言葉であり、話し言葉の意味として用いてはいない、ということをかなりしつこく確認した。その一方で、日本語の話し言葉というのは、書き言葉では表すことはできない、ということも例示しながら説明した。

 そういうわけで、ここで議論している「口語」というのは、明治期になって、おもに散文の分野で発達した、それまでの書き言葉の文法形態とは異なる、新しい書き言葉のことを指す、ということになるのだ。

 そして、そんな「口語」を用いた短歌作品が、「口語短歌」ということになる、というところまでが、前回までに議論した内容だ。

 さて、話題を明治期の文学状況に戻そう。

当時のわが国の文学の世界に、新しい文学思想がやってきた。それは何かというと、「自然主義文学」と呼ばれている思想である。

 「自然主義」とは何か。というと、そのままナチュラリズムの直訳語で、字面だけみても、どのような主義主張かはわからない。別に、神羅万象の自然物を取り扱う文学というわけじゃない。「自然主義」について知りたいのなら、これはもう、「自然主義文学」と言われている小説なりを手にとって、これが「自然主義」か、と各々が実感してもらうしかないのだけど、とりあえず、ここで乱暴にいうならば、世の中を客観的にありのままにとらえるようとする主義、が「自然主義」であり、それを描写した文学が「自然主義文学」いうことになる。

 わが国では、少し屈折してしまって、私の身の回りを客観的にありのままに描くという「私小説」が「自然主義文学」の代表格みたくなった。なんでそうなったかというと、恐らく、人間の心に宿している光も影も、すべて隠さずにさらけ出すようなのが「自然主義」だ、みたいな議論になったのだろう。

 さて、そうした「自然主義」が当時の新潮流みたいなものだったから、明治期の短歌の世界もまた、「自然主義」の影響を受けるというのも、まったくもって自然の流れだった。

 そして、結果的に、近代短歌というのは、この「自然主義」の影響下で進展をしていくことになる。どうやら、近代短歌と「自然主義」は、相性が良かったのだ。なぜそう言えるのか、というと、いわゆる写実や写生といった、事象を見たままに描写することで美質を見出そうする短歌技法、これが「自然主義」の思想とうまく合致したからだろう。だから、近代短歌は、「自然主義」の主義主張といったものを受け入れながら、写生や写実といった短歌特有の表現方法が大きく進展していったのだ。この写実や写生といった表現技法は、「自然主義」と関係があったなんていう時代背景を知らずとも、現在では、すっかり様式化されて、短歌表現のひとつの技法として定着していよう。

 「自然主義文学」は、現在では、かえりみられることも少ないのだろうけど、こと短歌の世界では、まだまだ主流といえるだろう。わが国の文芸のなかで、もっとも「自然主義」文学が発展したのは短歌文芸であった、ともいえるのではないだろうか。

 さて、話を明治期の短歌の世界に戻そう。明治期の短歌は、そんな「自然主義」文学の影響を受けたわけだけど、じゃあ「口語」の短歌は、一体どのようなものだったか。

 というと、最初の口語短歌の歌集は、青山霞村(あおやまかそん)の『池塘集』(ちとうしゅう)ということになっている。時代は、明治39年、日露戦争の頃だ。

 君が恋は地層に深い水脈(みづすぢ)や吾手にほられて泉と湧いた

 この恋もなにかが遂に消すまいが二人のあとを浪がけすやう

 秋が来た葡萄はうまい酒に熟め遊子の学びは知慧と情けに

 淫れ驕り国の大臣といふものに一匹二匹と呼れるがある

 頸円い希蠟姿と恋をして机の美術史みな活きてきた

 こうした作品が発表された時代というのは、さっきから述べているように、「自然主義」の文学の影響下にあって、特に小説の世界では、島崎藤村やら田山花袋やらといった、文学史に残る「自然主義」の作家の作品が発表されたころと同じ時代だ。

 けれど、そんな時代なのだけど、青山霞村の作品からは「自然主義」の影響なんてこれっぽっちも感じない。まったく新しくない。やはり、当時としても、こうした作品は、ずいぶんと古めかしい感じがしたことだろう。

 これはどうしたことか。というと、口語短歌がそういう古めかしいものを歌うために創出された、というのではなく、単に作者の青山霞村が近代短歌の歌人なのではなく、江戸後期の和歌の流派の流れをくんだいわゆる旧派和歌の歌人だった、ということだ。

 そういわれると、なんとなく旧和歌の調べを彷彿とさせるし、今日からすると狂歌を読んでいる感じもしよう。

 だから、これが口語短歌の始まりといっても、当時の文学思想の影響を受けたとか、あるいは文学的な主義思想を土壌とした本邦初の口語短歌、というわけでは全然なく、霞村がこれまで詠ってきていた旧和歌派の作風で、試しに新しい書き言葉で詠ってみた、という趣のもの、といっていいだろうと思う。現に、この歌集には、こうした口語短歌は三割くらいで、残りは文語で詠われていた、ということだ。

 

・短歌滅亡論

 そういうわけで、短歌史として「口語短歌」を議論するのであれば、やはり「自然主義」文学とのかかわりを議論したほうがいいだろう。

 じゃあ、何を論点にするか。というと、尾上柴舟の「短歌滅亡論」をあげることにしたい。

「短歌滅亡論」、これ、ごく簡単にいえば、「自然主義」文学が我が国に浸透していくなかで、では短歌はいったいどうすべきか、という問題を提起したもの。

 で、いっていることは何かというと、ここでも乱暴にいえば、短歌は、「自然主義」が主張するような、ありのままの自己表現をすることはできない、ということ。

 柴舟の文章自体は、そんなに長いものではないけど、とりあえず、「口語短歌」に関連するところを引くならば、こんな感じだ。

 

 (前略)私の議論は、また短歌の形式が、今日の吾人を十分に写し出だす力があるものであるかを疑ふのに続く。(中略)ことに、五音の句と、七音の句と重畳せしめてゆくのは、日本語が、おのづから五音七音といふ傾を有つた当時ならば、自然に出来る方式であつたであらうが、これを脱した、自由な語を用ゐる吾々には、これに従ふべくあまりに苦痛である。(中略)世はいよいよ散文的に走つて行く。韻文時代は、すでに過去の一夢と過ぎ去つた。(中略)

 私の議論は、また短歌の、主として言語を駆使することがまた、自分らを十分に写しえないと思ふのにも連なる。(中略)吾々は「である」また「だ」と感ずる。決して「なり」また「なりけり」とは感じない。(中略)吾々は、十分正直に、吾々を現はすべき語を用ゐねばならぬ。(後略)

 

 かなりはしょって引用したけれど、そんなに読みにくくはないかと思う。

ここでの論点は次の二点だ。

 一つは、五音七音の定型に現代の日本語をあてはめるのは苦痛である、ということ。

もう一つは、私たちは「なり」や「なりけり」ではなく、「である」や「だ」と感じるということ。

 この二点である。これが「短歌滅亡論」の「口語」にかかわる論点だ。

 この二つの論点、これ、現代でも短歌を論じる際の論点となっていよう。そして、「自然主義」文学を短歌の世界で論ずるときの問題点を見事にとりあげたものだともいえよう。

 すなわち、自分のありのままの感情なり、ありのままの自然を描写するのに、なんでまたわざわざ定型に嵌め込まなくてはならないのか、まったく自然じゃないじゃないか、ということ。これが一つ目。

 それに、自分のありのままの感情は決して「なり」とか「なりけり」なんて感じるわけがないじゃないか、ということ。これが二つ目。

 で、そんなことをやっている短歌は滅亡してしまえ、というわけだ。

 いうなれば「自然主義」文学からの近代短歌へケンカを売ったという感じの文章なのだ。

 

・口語短歌の立ち位置

 この問題提起に直接的に呼応したわけではないが、「口語短歌」は、そんな時代の潮流として、口語的な発想、つまりは、率直な自己表現を求める立場として、そして、「たり」、「なり」ではない発想の作品として、試行されるようになったのである。

 そう考えると、「自然主義」にふさわしい形態として、「口語」が試行された、ということもいえるだろう。違う言い方をするなら、「口語」で歌を作るのに、「自然主義」の思想はまことに都合がよかった、ということだ。

 

さらさらと雨戸にあたる雪の音はある日の二人を思ひ出させた 徳山暁風

酔覚めにさうだとうんと手を伸して大気を吸つてみろ宇宙は広い 池田茂馬

門をくぐるとポッカリ馬糞の暖かい三月花壇のオランダイチゴ 後藤史郎

何とはなしに不平が徐々につのつてくる日理科実験のフラスコが冷たい 秋田としみつ

 こちらは、『現代口語歌選』というアンソロジーからの掲出。これは、大正期の207人による1305首が載っている。207人とは実に多い数ではないか。

つまり、「口語」で短歌を作る、というのが、大正期に入ってひとつの潮流となってきているといっていいだろう。

 一首目。これは、まだ定型に嵌め込んでいるが、短歌といわなければ、散文ともいえる。言葉の使い方も、現代と変わらない。定型への嵌め込み方もこなれてきていよう。

 二首目。こちらは四句目の破調が大胆で、この先の口語短歌のひとつの特徴を示していよう。定型に嵌められている感じはさほど感じられず、かなり自由になっている。

 三首目。馬糞を歌の題材にするなど、実生活に根ざしているし、写実性もみられている。

 四首目。作者は学校の教員だ。令和の時代のブラック教員の哀歌といっても通用するくらいの「口語」のこなれ方ではないか。

 続いて、大正末期から昭和に入ると次のような作品も生まれてくる。

 よせられたカーテンは皺にひつそりと光と影をためて息づく 清水信

 疲れたと言ふ事も/出来ぬ馬なれば/その長い顔を/抱き撫でてやる 中村孝介

 何といふ深い空だろ、/指頭に/空の重みを感じる、今日も。 花岡謙二

 

 一首目。カーテンが息づいているのだ。なかなか新鮮な比喩ではないか。韻律も現代からみて洗練されていよう。

 二首目。四行歌の体裁。句跨りによる韻律の屈折が巧みだ。また、結句の叙述など、口語ならではの歌いぶりが印象的だ。

 三首目。分かち書き、句読点の使用に、定型を忌避しながら短歌文芸の新しい技法を模索していよう。しかしながら、指さきに空の重みを感じる、なんていうのも、なかなか詩的ではないか。

 さて、このような作品が昭和初期に頃には提出されたわけだが、これらの「口語」短歌、作品の質も高く、もしこのまま「口語」短歌が洗練していけば、近代短歌史もまた違ったものとなっていたと思う。けれど、残念ながら、そうはならなかった。

 ここから先、「口語短歌」は、定型を脱して、自由律のほうへ向かっていってしまう。

 なぜか。

 先ほどの、短歌滅亡論の論点を想い出して欲しい。

 一つは、五音七音の定型に現代の日本語をあてはめるのは苦痛である、ということがあった。

 つまり、自分の感情をありのままに詠うには、定型は邪魔なのだ。嵌まるわけがないのだ。そうなると、定型からはみ出すことになる。

 そうして、「口語短歌」は定型から自由律へと大きく舵をきっていくのだった。

 もし、さっきの大正期の207人ではないけれど、この時期に一定数、定型のなかで調べを整えながら短歌作品をつくる「口語」歌人が存在したならば、近代短歌史も違った道筋になっていったろうと思わずにいられない。

 そういうわけで「口語」短歌の進展は、これから先、戦後になるまで待たなくてはいけないのである。

 

・文言一致のもうひとつの問題

 

 さて、もう少し、「口語短歌」が生まれた頃の明治期の文学状況について議論しよう。

 明治期の言文一致運動によって、小説の世界では、「新しい書き言葉」というか「話しているような書き言葉」というか、そんな「口語文」が生まれた、という話はすでにしたわけだが、その「口語文」に、新たな問題が生まれていた。

 それは〈私〉の問題だ。

 と、いきなり言われても全くピンとこないと思う。何を言いたいのかというと、話しているように書くのはいいけれど、じゃあ、その「話しているのは誰なのか」という問題が生まれたのだ。

 と、述べてみたけど、まだピンとこないかもしれない。

 実際の小説の叙述を例にして考えてみよう。

 例えば、「吾輩は猫である。名前はまだない」と書かれてある小説ならば、話しているのは「猫」になる。では、「メロスは激怒した」と書かれてある小説の話し手は誰なのか。という問題である。一体、誰なんだろう。

 あるいは、「人称」という概念を持ち出してもいいだろう。『吾輩は猫である』は、一人称小説といえるし、『走れメロス』なら三人称小説ということだ。こうした「人称」という概念も、この、文言一致とともに生まれたのだった。つまり、それまでの日本には、「人称」なんて概念は存在しなかった。ようは、そんなこと考えたこともなかったのだ。

 しかし、「話しているような書き言葉」の誕生によって、必然的に、その「話しているのは誰?」という問題が生まれたのだ。

 この問題、短歌の世界ではどうなるだろう。こちらも、実際に短歌作品から考えてみよう。

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                       正岡子規『竹乃里歌』

 この作品、これは、一人称か、三人称か。

 たとえば、藤の花を見ているのは誰かという問いなら、短歌の世界では、そんなに難しくはない。と、いうと、これは〈作者〉である子規だ。病床で見ているからこその描写だ。しかし、この文語短歌が、一人称か三人称か、と問われると、かなりの難問になる。というか、やはり、この場合の人称は答えようがないのだ。

 それは、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という叙述が、一人称なのか、三人称なのか、分からないのと同じだ。この川端康成の『雪国』、冒頭の一文では、人称は分からない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。」と、やっと、ここまで読んで、島村という主人公が叙述されて、はじめて、三人称で書かれた小説、ということがわかるのである。

 しかし、短歌はそうはならない。短歌は文字通り短いから、一人称か三人称かはっきりしないのだ。と、いうか、近代短歌はそもそも人称は議論の対象にはならないのだ。だって、議論したところで、分からないのだから。

 だから、これまで、短歌の世界では、一人称とか三人称とかは、議論の対象にはならなかった。そもそも、そんな概念がなかったのだから、議論しようがないのは、当然のことだった。

 しかし、言文一致運動とともに、〈私〉の問題が生まれてくる。

〈私〉とはなんなのだろう。

 「たゝみの上にとゞかざりけり」と語っている〈私〉は、一体、誰なのか。

 そもそも、その〈私〉の問題と、「口語」短歌とは一体、どうかかわるのか。

 というあたりについて、次回以降、議論していきたいと思う。

 

口語短歌とは何か②

2 口語のはじまり

 

・口語も文語も書き言葉

 ここまでの議論をおさらいしておこう。

 この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」

                       俵万智『サラダ記念日』

 この作品は、口語短歌か、文語短歌か。というと、どちらでもなくて、口語と文語の両方が混在しているから「口語文語ミックス短歌」とでも名付けておこうということだった。

 では、口語と文語の違いとは何か、といえば、それは、叙述されている言葉ではなく、文法体系の違いに拠っている、ということだった。ただし、文法といっても、文法には書き言葉と話し言葉があって、ここで言っている文法というのは、あくまでも書き言葉のそれだ、というところまで話をしたのだった。

 そして、その書き言葉には2種類あって、それは、古典文法による用法と現代語の文法による用法の2種類ということ。

 すなわち、口語とか文語とかの議論というのは、話し言葉とか書き言葉とかの議論ではないということ。つまり、話し言葉が口語で、書き言葉が文語、ととらえてはいけない、ということを、やや遠回りしながら議論をしたのだ。

 口語とか文語とか、この2つは、書き言葉のなかの区別なのだ。

 これが、これまでの議論の重要なところだ。ここをきちんと理解しないと、いつまでたっても、口語や文語についての議論がよく分からないままになってしまう。

 しかし、口語や文語が書き言葉だと繰り返し主張しても、文語が書き言葉なのは分かるけど、口語が書き言葉というのは、どうにもいまひとつ、ピンとこないかもしれない。

 そこで、次に、文語とは何か、ということを議論するなかで、口語や文語がなぜ書き言葉なのか、という点について考えていきたいと思う。

 つまり、ここから先は、文語についての議論なのだが、やろうとしていることは、口語も文語もどちらも書き言葉なのである、という主張の繰り返しになる。

 

・明治期のムーブメント

 普通、一般に文語といえば、これまで議論してきた通り、昔の書き言葉のことを指す、という理解でいいだろうと思う。では、その昔とは、いったい、いつのことなのだろう。

 というと、日本で文字が使われるようになったり、その文字で何らかの内容が書き表されるようになったりした頃、という理解でいいだろう。とにかく、文字の使用によって、書き言葉というのが生まれた、ということについては、さほど難しい話題ではないだろう。であるから、その書き言葉の誕生は、飛鳥時代の頃でいいだろう。そうして、日本では飛鳥時代以降、文字を使って、あれやこれやのことが書き表されたことで、次第次第に書き言葉のあれやこれやの決まり事が定着していったのだった。この決まり事を分解して、規定して、分類して、体系づけたのが文法だ、ということは、これまで述べた通りだ。

 さて、この昔の書き言葉。当時の昔の人々は、この書き言葉を使って、会話をしていたか、というと、当然ながらそんなことはない。それは、現在の私たちが、書き言葉を使って文章を書いて、話し言葉を使って会話をしている、というのと同じことだ。ただ、残念なことに、話し言葉は、文字を使って書き表すことができないから、昔の人がどんな風に話をしていたかはほとんどわからない。

 これも、現代と同じといえば同じで、現代では、録音や映像が残っているから、昔よりは話し言葉について少しは分かるけど、ぜいぜいその程度でしか話し言葉というのは再現不能なのだ、ということもいえる。

 それはともかく、昔も今も、書き言葉と話し言葉は違っているのである。それは、文法体系が違っている、という前回述べたことからも明らかである。

 さて時代を進めていこう。書き言葉と話し言葉、この両者は、時代が進むにつれて、変化の速度が違っていく。話し言葉は時代とともにどんどん変化する。しかし、書き言葉はそんなに変化しない。だから、どんどん書き言葉と話し言葉の文法体系は、ズレていくことになる。

 また、話し言葉は、普段使いの言葉だから誰もが使うことができるけど、書き言葉は、どうしたってある程度の教養が必要だ。まずは、文字が読めないことには、書くことなんてできない。もちろん、読めれば書けるのかというと、そんなことはなく、ある程度の文章を読んで書かれてあることが理解できるようにならなければ、書くことなんてできやしない。

 そんな話し言葉と書き言葉だけど、両者がズレていくことで、何が困るかというと、自分の考えをキチンと伝えようにも、書き言葉では、いまいち伝えられない、ということだ。

 つまり、話し言葉であれば、自分の考えを細かなニュアンスや心の機微みたいなところまでキチンと相手に伝えられるのに、書き言葉だとそれができない、とうことになる。

 そうした困難が、日本人のある程度の教養のある者にとって切実性をもって降りかかってきたのが、近代主義が日本にやってきた明治期だ。この時期、個人主義とか近代的自我とか、とにかく、そうした近代思想が欧米からどっとやってきた。

 そんな明治期の日本で、個人主義だとか近代的自我だとかを書き表そうにも、当時の日本には、それにふさわしい書き言葉がなかった。つまり、書き言葉と話し言葉が別の言語形態のような状態だと、個人主義なり近代的自我なりといった個の思想を伝えられないし、そうした近代主義による文学も翻訳できない。そこで、何とかしようと生まれたのが、かなり乱暴なくくりではあるが、明治期の言文一致運動、ということになる。

 この言文一致運動。これは、民間というか、とにかく官製ではないところで、当時のインテリ層であった二葉亭四迷や山村美妙といった文学者が、話し言葉のような言葉で文章を表そうした試みである。この官製ではない、というところが重要なところで、ようは、いろんな人が同時多発的に手前勝手にやりはじめたということだ。まさに、運動、ムーブメントというにふさわしい。ちなみに、正岡子規もまた、この運動に反応して、あたらしい書き言葉について考えた一人である。子規の場合は、文末表現は「です」「ます」じゃなくて「なり」がいいという論陣を張っていた。

 そんな言文一致運動のなかで、新しい書き言葉が生まれた。そして、新しい書き言葉は、主に小説や翻訳の世界で、実際に試行されるようになった。こうした試行の一例としては、文末をこれまでの「なり」「たり」から、「です」「ます」「だ」「である」といったものに変えてみたのがあげられよう。しかしながら、こうした文末表現もまた、だんだん「た」へと統一されていく。これも、別に行政が決めたわけではなく、いろんな人が手前勝手に文末表現を試行していくうちに、どうやら、それがいちばんしっくりいく、ということで、使われるようになった、という理解でいい。

 ちなみにこの文末表現、最近というか、1970年代あたりから、小説の世界では、「た」を使用した助詞から、「る」の現在形で使用が多用されるようになってきていよう。「た」では、どうにもしっくりしなくなってきて、現在形「る」にしたり、体言止めにしたり、と、小説の世界では、文末表現をあれこれ試行されていよう。こうした試行による「る」の多用が、この先、だんだんと一般的なって、あと100年くらいしたら、この「る」は現在形ではなく、終止の意味あいとして書き言葉の用法が変わっていく、なんていうそういう文法形態になるかもしれない。

 それはともかく、これが言文一致運動という明治期のムーブメント。この運動によって、小説だけではなく、論文や行政文書などでも、新しい書き言葉がだんだんと使用されるようになる。そのはっきりとした転換は、終戦後という理解でいいだろう。

 そして、戦後から始まった新しい国語教育によって、そうした新しい書き言葉を教えるようになって、戦後生まれの日本人は、戦前までの、それまでの書き言葉による文章がいやはやさっぱり読めなくなった、ということになったのだった。

 

・では、文語とは何か

 さて、ここまでが、言文一致運動による書き言葉の転換の流れだ。

 ここまでの理解をふまえて、文語と口語について考えてみよう。

 まずは文語だ。

 文語については、言文一致運動を境にして、それまでの書き言葉を文語と呼ぶ、という理解でいいだろう。つまり、文語は昔の書き言葉、古典文法による書き言葉、という理解でいいだろう。

 じゃあ、それから先の、新しい書き言葉をなんというか、というと、それを文語の対義語として口語と呼んでいる、ということなのだ。

 だって、古典文法だろうが、現代語の文法だろうが、ここで議論していたのは、書き言葉の議論だったからだ。二葉亭四迷やら山村美妙やらが試行したのは、明治期の日本人が使っていた話し言葉のような言葉で文章を表そうとした運動だ。しかし、それは、話し言葉ではなくて、あくまでも書き言葉だ。ここが重要だ。

 いうなれば、当時の話し言葉のような書き言葉を模索したのが言文一致運動なのだ。

 だから、あくまでも口語というのは、話し言葉ではなく、書き言葉の体系を指しているのだ。

 さて、これでやっと口語とは何か、いう議論のゴールの直前まできた。ゴールまでもう少しだ。

 

話し言葉はまどろっこしい

 言文一致運動の目的は、普通に話している言葉で、書き言葉を表したい、ということだった。

 けど、それに挑戦してみたら、それは無理だということがすぐにわかった。なぜなら、日本語の話し言葉というのは、とにかく、まどろっこしくてしようがないのだ。

 それは、端的にいえば、日本語の話し言葉というのは、相手との関係性によって規定されているからだ。ここでの関係性というのは、簡単にいえば近い遠いの(親密か疎遠か)関係、と、上下関係ということになる。この2つの関係性によって、日本語の話し言葉は体系づけられている。このことを逆にいうと、対等な関係性による話し言葉というのは、日本語には存在していない、ということだ。

 これは、今でもそう。だから、こうした関係性をあらゆる話し方で規定するから、話し言葉はとにかく、「ね」「よ」「か」いろんな終助詞がくっついたり、「あの」とか、「えーと」とかのフィラーがやたらとくっついたりしている。最近では、「~じゃないですか」とか「させていただきます」とかのまどろっこしい用法がたまに話題になったりしているが、これも近い遠い関係と上下関係からなる日本語の話し言葉の体系のせいである。

 とにかく、日本語の話し言葉というのは、そういう関係性が前提になって使われるから、書き言葉のような対等なというか、フラットというか、そういう言葉の体系として使うのは、どうしたって無理なのだった。

 で、しかたななく、たとえば文末には「です」「ます」やらを使ってみて、いやしかし、これもまた、フラットではないなあ、と思いいたり、「である」「だ」を使ってみたり、そうこうするうちに、「た」がいちばんしっくりきた、というのが明治期の書き言葉の試行なのだ。

 であるから、言文一致運動によって使われるようになった書き言葉は、話し言葉を書き言葉にしてみようとことで、試行したことには違いないのだけど、決して、話し言葉そのものが書き言葉としてあらわすことができた、というわけではないのだ。

 だから、言文一致運動というのは、字義どおり、話し言葉と書き言葉を一致させようという運動だったかもしれないけど、実際やってみて、日本語では、話し言葉と書き言葉は一致できない、ということが分かったという運動でもあった。

 なので、言文一致運動というのは、それまでの書き言葉から、新しい書き言葉へ変換したという運動というのが正確な理解なのである。

 

・口語とは何か

 そういうわけで、口語というのは、言文一致運動のよって生まれた、新しい書き言葉のことを指す、という理解になる。口語というから、話し言葉のことを指すのではないか、と思われるかもしれないが、それは誤解である。というか、言葉の意味を正確に使おうとすると、誤解になってしまうということだ。そもそもの口語の名づけは、文章語としての文語、の対義語として、話し言葉としての口語、という意味合いだったのだろうが、話し言葉とは何なのか、ということをキッチリ考えていくことによって、口語という言葉の意味付けが違ってきた、ということになんだろうと思う。

 とにかく、話し言葉を書き言葉で書き表すことができない以上、口語は話し言葉のことを指すのではないのだ。

 であるから、口語文というのは、現代の書き言葉で書き表されている文章、というのが正確な理解になる。同様に、口語短歌というのは、現代の書き言葉で書き表されている短歌、という理解になるのだ。

 ここをひとまず、ゴールにしよう。

 

・生き残った文語

 明治期の言文一致運動は、それまでの書き言葉からより話し言葉に近い書き言葉へと転換する、一大ムーブメントだった。そして、その運動を通して、どうしたって話し言葉そのものを、書き表すことが不可能だということを身をもって知った運動でもあった。

 そうして、日本語の書き言葉は、文語から、少しずつ時間をかけて、口語へと移行していくことになる。しかし、いまだに文語が残っている分野がある。

 それは何か。というと、それがいうまでもなく、短歌に代表される、韻文の世界である。

 現在の日本語で文語が生き残っているのは、韻文の世界だ。韻文の世界というのは、短歌を始めとする、俳句、都々逸、連歌、川柳、標語といった、そんなものだ。最近では「推ししか勝たん」なんてフレーズが流行ったが、これも立派な韻文だし、「海賊王に俺はなる」は、意見が分かれる感じがするが、韻文といえば韻文だろう(ただし、文語ではないだろう)。

 そういう韻文の世界で、文語は生き残った。あとは、見事に絶滅した。

 では、まぜ文語は韻文で生き残ったのか。

 というと、ひとつは、やはり言葉のリズムがいいからだ。短歌でいえば、定型にのりやすいのだ。だから、他の書き言葉のジャンルが口語に移行したとしても、短歌は文語が残ったのである。

 しかしながら、こと短歌の世界に限っていえば、これはずいぶんと怠惰な態度とはいえないだろうか。

 だって、文学の世界では個人主義なり近代的自我なりにかぶれちゃって、それを表すための書き言葉を模索して文語から口語へ移行したってのに、こと短歌に限っていえば、相変わらずの昔ながらの文語によって、自我の詩を標榜していたのだから。なぜ、近代文学のように新しい書き言葉を模索しなかったか。あるいは、せめて近代詩のような書き言葉を模索しなかったか。

 というと、実際には、文語にかわる書き言葉で短歌を書き表す運動もないわけではなかったのだ。しかし、主流になるところまでは到底、とどかなかったのである。

 では、次に、そんな近代主義のなかでのあだ花のような、そんな口語短歌をみていきたいと思う。

口語短歌とは何か①

1 口語とは何か

 

 口語短歌とは、何か。例えば、次の作品は、何なのか。

 

 この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」

                        俵万智『サラダ記念日』

 空の青海のあおさのその間(あわい)サーフボードの君を見つめる

 砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている

 捨てるかもしれぬ写真を何枚も撮っている九十九里

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう

 

 一首目。若いカップルのドライブの一コマ。初デートなのかもしれない。助手席の女性の〈われ〉は、相手の男性がカーステレオで流しているイーグルスの「ホテルカリフォルニア」の選曲を冷静に分析している、という場面だ。いかにも短歌らしい切り取りが愉しい作品であるが、そういう鑑賞はともかく、いまは、叙述されている言葉に注目して議論しよう。

 この作品、これは口語短歌か。

 現代的なことを現代的な言葉で叙述しているから、これは口語短歌かな、と判断しがちになるけど、よく見てみよう。4句目がどうにも引っ掛からないだろうか。「とばす君なり」の「君なり」だ。「君なり」なんていう言葉づかい、これは口語とはいえないだろう。すくなくとも、現代語では使わない言葉づかいだ。

 じゃあ、口語ではないとするなら、何だろうか。文語でいいのだろうか。けれど、そもそも文語とはなんだろう。「なり」は、文語ではなく、普通一般には、古語というべきものなのではないか。

 それとも、文語というのは、書き言葉のことなのだろうか。そうだとするなら、この作品、そもそも、すべて書き言葉で叙述されているということになる。つまり、この作品は、文語短歌であると。

 いやいや、書き言葉だったらなんでもかんでも文語、ということにはならないだろう。やはり、現代の言葉で叙述されているのは口語というのではないか。つまり、口語とは現代語というのと同じ意味合いで、この作品は、現代語で叙述されているから口語なんだ、と。

 けれど、そう考えるなら、口語という言葉も、よくわからなくなってくる。現代語で叙述されているのを口語というのなら、口語といわずにはじめから現代語といえばいいことなのだ。わざわざ、現代語と言わずに口語といっているのはなぜか。

 文語の書き言葉での叙述に対応して、口語は、話し言葉の叙述ということなのだろうか。けれど、話し言葉というならば、「この曲と決めて海岸沿いの道とばす」なんていう叙述は、話し言葉とは言い難い。やはり、現代語と言ったほうがいいのではないか…。

 と、いうように、短歌の叙述について、短歌の世界で使われている用語でキチンと議論をしようとすると、途端に、よく分からなくなるのである。

 

 ・短歌用語のいい加減

 ここまで、次の用語がでてきた。すなわち、口語、文語、現代語、古語、話し言葉、書き言葉、の6つだ。どうやら、まずは、この6つの用語についてキチンと議論しない  ことには、口語短歌についての議論も進まないようである。

 だけど、短歌の世界では、口語短歌と文語短歌という用語については、一応、次のような理解が一般的となっていよう。すなわち、現代語の文法で叙述されているのが口語短歌で、古典文法で叙述されているのが文語短歌である、と。

 けど、こうした理解もまた、口語短歌とは何か、文語短歌とは何か、という議論の混乱に大いに拍車をかけていることになるのだけど、ともかく、この程度のいい加減な理解で議論されているというのが、短歌の世界の現状なのである。

 そもそも、現代語の文法で叙述されていれば口語短歌である、という理解がおかしい。それは、口語短歌ではなく現代語短歌、あるいは現代短歌とでもいうべきだろう。そして、現代語短歌の中に、話し言葉のようなものが挿入されている、あるいは、一首まるまる話し言葉のようなもので叙述されている短歌作品についてだけ、はじめて口語短歌というべきだろうと思う。

 文語短歌についても同様だ。古典文法で叙述されているのは、古語短歌とか、あるいは近代短歌とかで呼ぶのが妥当だろう。文語短歌という用法がおかしいのだ。そして、古典文法で叙述されている古語短歌の中にも、話し言葉で叙述されている短歌というものもあろう。それらは、やはり口語短歌と呼ばないと用語の使用が整合的ではないだろう。

 と、いうように、こうした用語のいい加減さが、口語短歌の議論に混乱をもたらしているといえるし、さらに言えば、この程度のいい加減な理解で、これまで口語短歌の議論が普通に成り立っていたということが、口語短歌の議論のいい加減さの何よりの証左といえよう。

 しかしながら、いくらいい加減な用語の使用だとしても、とりあえず、短歌の世界で理解されている使い方で議論をしないと話が先に進まない。とにかく、短歌の世界で理解されている口語短歌とは普通一般に何をいうのか、というところまで、話を進めていくことにしよう。

 

・文法形態の3種類

 俵万智の作品に戻ろう。

 一首目の作品は、はたして口語短歌なのか、という話題であった。

 4句目の「君なり」。これは、現代語の文法でなく、古典の文法での叙述である、というところまではいいだろう。では、4句「なり」をもって、この作品は、文語による短歌、といえるだろうか。

 そこだけ切り取れば、文語による短歌とはいえそうである。しかし、その他については、文語文法で叙述がなされているわけではない。「君なり」のすぐ上にある、「とばす」。これは、文語か口語か。というと、ここでは、道を車で「とばす」といっているから、こうした用法は、古典文法には存在しない。なので、これは現代文法による叙述といえるだろう。

 そうなると、この作品は、古典文法の「なり」と現代語の文法の「とばす」の両方が存在している、ということになる。つまり、口語短歌と文語短歌の両方が混じっている、という解釈になる。

 さて、こうした作品は、何なのだろう。

 こうした、現代語の文法と古典文法の両方が用いられている作品については、とりあえず、「口語文語ミックス短歌」とでも呼んでおこう。犬の種類にミックス犬なんていうのがあるように、短歌にも現代語の文法と古典文法がミックスされた短歌があるということだ。

 いくら現代的なことを題材にしていても、ここでは、とにかく叙述されている文法の扱いで判断する。「なり」なんていう、古典文法による叙述がある以上、それは口語短歌とはいえない、という理解である。 

 とりあえず、これで文法形態による短歌の区別はついた。短歌の叙述には3種類あるのだ。

 すなわち、文語、口語、口語文語ミックスの3種類だ。

 ちなみに、この俵の作品のような、口語文語ミックスによる叙述。これ、短歌以外の文章なら、完全に誤用である。現代語で叙述しているなかに、いきなり古典文法が入ってきたら、どう考えても、その文章はおかしい。文法形態としては整合していないんだから、これは誤用となろう。けれど、短歌の世界では許容されている。古典文法と現代語の文法が入り混じっていても、平気な顔して日本語の文芸として定着している。短歌になじんでいる人なら、別に変とも思わないかもしれないが、こうした叙述は、日本語の叙述としてどうしたって変だ。こうした変な叙述でも、別にひっかかることなく普通に読んで鑑賞して、いい歌だなあなんて思っちゃうのが短歌の世界のユニークなところである。

 それはともかく、冒頭にあげた、俵万智の『サラダ記念日』のほかの掲出作品を見て行こう。かなり、話が横に広がったから、もう一度、掲出しよう。

 

 この曲と決めて海岸沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」

                         俵万智『サラダ記念日』

 空の青海のあおさのその間(あわい)サーフボードの君を見つめる

 砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている

 捨てるかもしれぬ写真を何枚も撮っている九十九里

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう

 

 2首目。この作品は、文語か口語か口語文語ミックスか。

 というと、すべて現代文法で叙述されているから、口語短歌といえそうだ。

 3首目もまた、古典文法が使われていないから、これも口語短歌。

 4首目は、2句目の「しれぬ」は古典文法による叙述で、4句目の「撮っている」は現代語の文法による叙述だから、口語文語ミックス短歌となろう。

 5首目、6首目は、古典文法に叙述が見当たらないので、口語短歌である。

 と、わりとさっくり分類ができた。

 これで、とりあえず、文法だけを見れば、口語短歌と文語短歌とミックス短歌に分類をして、議論を終えることができそうだ。

 と、いえるのだけど、どうにも釈然としない感じが残る。たとえば、2首目。よくみて欲しい。三句目の「その間(あわい)」。これは、果たして、現代語か。「あわい」なんていう言葉、もう現代では使われていないだろう。ルビがなければ、「あいだ」と読むのが一般的で、せいぜい「はざま」だろう。果たして「あわい」は現代語か古語か。

 しかし、こうした議論は、先ほどの口語短歌や文語短歌の分類には必要がない。なぜなら、古典文法か現代語の文法かで、文語短歌と口語短歌を分類するのだったから、ここは、古典文法で叙述されていない以上、口語短歌ということになる。

 けど、なかなかわり切れないのも確かである。「あわい」なんて言葉を使っているのに、口語短歌と分類するのは、やっぱり、どうもしっくりこないのではないか。

 文法形態による分類は先ほどの3種類でいいとして、次に、言葉そのものの分類を議論しておこう。つまり、古語とは何か、という議論である。

 

 ・短歌は全部現代語

 時代を大きくさかのぼろう。

 そもそも短歌の先祖である古典和歌は、現代でいうところの古語で叙述されていた。もちろん、奈良時代にしろ平安時代にしろ、その時代には、古語なんて用語は存在しなかったから、これは、現代の私たちから見ての話。奈良時代にせよ平安時代にせよ、当時の人々にとってみれば、現代語で叙述した現代和歌(そんな用語はもちろん存在しない)だったわけで、時代が下っていくにつれて、現代語で叙述していたはずの和歌も、いつしか古語の叙述としてみなされるようになったのだ。

 では、そんな奈良時代平安時代に叙述された和歌の言葉を古語としてみなす、とキチンと規定したのはいつか。というと、そんなはっきりしたことはいえないけど、正岡子規の次のような宣言が、ひとつの指標にはなるだろう。

「用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用いるつもりに候」(正岡子規「六たび歌読みに与ふる書」)。

 これは、子規が短歌とはこういうものだ、と勝手に宣言したものである。

 勝手に宣言したのだけど、当時から、子規の言ったことはそれなりに説得性があって、まわりが賛同した、ということはいえるだろう。

 ここで言っている、雅語というのが、いま議論している古語に近いだろう。明治時代の頃になると、和歌というのは、非常に形式的になってしまって、使用する言葉も、雅語といわれる用語に限られてしまって、なんでもかんでも詠うことができる、というわけではなかった。

 そんな堅苦しい和歌の形式をやめて、短歌というのは、雅語だけではなく世の中で使われている言葉なら何を使ってもいい、ということにしたのが、この子規の宣言なのだ。

 こうしたこともあって、短歌の世界では、それまでの雅語だけの作品を和歌と呼び、雅語を含めて何でも使っている作品を短歌と呼ぶというのが、慣例の用語の使用、となった。そして、この宣言は今でも通用している。だから、言葉の使用という点でみれば、子規のいた明治時代と現代は地続きなのだ。

 なお、明治時代は、雅語も和歌に限らずごく普通に文章などに使っていたのだから、これは当時として、古語という扱いだったわけではあるまい。つまり、子規のこの宣言というのは、この時代、普通に使われていた言葉をとにかく短歌に持ち込んでもいいじゃないか、ということなのだ。ようするに、この時代の短歌で使用された言葉は、すべて当時の現代語だった、ということだ。

 普通に使われている言葉を短歌でも普通に使う。これは画期的なことだ。

使う言葉に制約はないとするなら、短歌の世界では、古語と現代語の区別もあまり意味をなさなくなってくる。先ほどの「あわい」なんて言葉は、今となっては普通に使われなくなって、もはや現代語とはいえないから、やはり古語と呼ぶにふさわしいだろうけど、だからといって、現代の短歌で使ったらオカシイというわけじゃあない。そして、そんな言葉の扱いをもって、この短歌は口語だとか、文語だとか、ミックスだとか、分類するのもおかしいことになる。なぜなら、使う言葉が雅語だの俗語だの漢語だのに制約せず自由に使用できる以上、それらの言葉の使用をもって短歌をわざわざ分類する必要性がないからだ。

 つまり、現代語だろうが古語だろうがどの言葉を使ったところで、それは現代語短歌だとか古語短歌だとか分類できるものではなく、短歌としかいえないのだ。やはり短歌の言葉の使用は、子規の時代から、今まで地続きなのだ。

 

・文法は2種類ある

 そこで、問題になるのは、文法だ。

 現代語の文法と古典文法は明らかに違う。これは地続きではない。そして、この違いは、短歌にとっては大きい。だからこそ、口語短歌とは何なのかという議論をしているのである。

 現代語の文法は、明治期の終わりくらいから整備されはじめて、戦中戦後にかけて確立した。そして、戦後の学校教育によって体系づけられて、現代にいたる。文法が文法として体系づけられた直接の要因は、やはり教育によるものだったろう。すなわち、日本国民に日本語とはどういうものかとキチンと教えようとしたから、日本語の文法を整備して体系づけたという理解でいいだろう。つまり、先に文法があるのではない。文法というものを教えるために、日本語を分解して、規定して、分類して、体系づけたということだ。

 だから、文法ときいて難しいと思うかもしれないが、そんなことはない。私たちは現代に生きている日本人なんだから、体系づけられた文法形態をいちいち説明はできなくとも、少なくとも文法の間違いは瞬時に指摘できよう。「捨てる」という動詞の否定が「捨たない」となってたら誤り、ということは瞬時にわかるだろう。すなわち、「捨たない」ではなく「捨てない」の誤りだと。同じく「拾う」が「拾いない」となっててもすぐわかる。「拾わない」の誤りだと。じゃあなんで、日本語で「捨てる」の否定形が「捨たない」ではなく「捨てない」と言うのか。というと、それにはちゃんと理由があるわけで、その理由を説明するために、文法についての理解が必要となってくるのだ。文法というのは、そういうものなのだ。

 さらに、ここで重要なのは、ここで言っている日本語の文法というのは、書き言葉の文法である。話し言葉の文法ではない。

 文法に書き言葉と話し言葉があるというのは、初めて聞いたという人もいるかもしれないが、書き言葉と話し言葉と、言葉の使い方が違っている以上、それを体系づける文法体系も違っているのだ。

 ついさっき言ったように、文法は、日本語よりも先にあるのではない。日本語があって、それを分解して文法が体系づけられるのだ。そして、日本語には、書き言葉と話し言葉の2種類がある。であれば、文法も2種類ある、ということなのだ。

 簡単な例をあげると、書き言葉では、文末が「です」「ます」体だったり、「だ」「である」体だったりする。けれど、話し言葉では、そんなものを使って話してはいない。大体は、「ね」「よ」「な」「の」といった終助詞が述語の終わりにつく。そうなれば、おのずと文法体系も違ってくることが何となく予想できるだろう。

 そして、ここで、議論しているのは、書き言葉のほうである。

 書き言葉は、現代語の文法と古典文法では明らかに違っている。

 と、ここまで話を進めて、やっと口語と文語の違いについて整理ができるのだ。

 

短歌時評2023.3

 角川「短歌」の令和5年版「短歌年鑑」と短歌研究社の「短歌研究」12月号「短歌研究年鑑2022」を読む。

 2022年の回顧的記事では、「短歌ブーム」の話題が多かった。

 なんでも、今は「短歌ブーム」なのだという。テレビでも取り上げられ、書店では歌集が売れていて、SNSでは、短歌作品が話題になっているのだという。そう言われると、世の中で、短歌は「ブーム」になっているんだろうけど、だからといって、私たちがそれを実感しているかといえばそんなことはないと思う。だって、身の回りで短歌を始める人が増えたなんて話は聞いたことがないし、職場や友人との会話で、短歌が話題になることなんてあるわけがなかろう。

 じゃあ、回顧記事にある「ブーム」というのは何か。

 というと、阿木津英が言うように、

「〈ブーム〉は起きるものではなくて起こすもの。「商品としての」短歌雑誌なり、歌集なり、歌人なりを売り出すための戦略であろう」(角川「短歌年鑑」)に尽きよう。

 しかしながら、そうやってブームを起こして、歌集や歌人を売り出しているのだが、だからといって、私やあなたがよく知っている短歌作品が商業ベースにのるようなコンテンツになるかというと、そんなわけがなかろう。つまり、ブームといっても、私やあなたの知っている作品が、それが歌集となって世に出されたとして、どうまかり間違っても売れるわけがないのだ。

 では、今回の短歌が商業ベースでブームになっているというのは、一体、何なのか。というと、これは、作品というよりは、単純に短歌というパッケージとしての役割なのだ。

 黒瀬珂瀾はいう。

「メディアの人々や世間が発見したのは短歌文化の体系ではない。…短歌ブームにおける短歌とはユーザーにとってとびきり新しい、珍しい、新発見された便利アプリである。…短歌というコンテンツは他コンテンツの代替物として発見されてゆく」(「短歌研究」12月号)

 つまり、短歌という「言葉をフレーズ化してエモいコンテンツとして流通させる目新しいツール」(前掲)であり、それは、私たちが認識している短歌というよりは、「現代定型句」(前掲)というにふさわしいものなのだ。

 そういうわけで、昨今の「短歌ブーム」というのは、実のところは、「現代定型句ブーム」というべきもので、エモいコンテンツを創作する作家にとっては、それが売れるかどうかは重要になるだろうが、私やあなた、つまり歌人とっては、実のところは、どうでもいいことなのだ。

(「かぎろひ」2023年3月号所収)

短歌時評2023.1

キマイラと口語は別ものである

 

 口語短歌とは何か。文語短歌とは何か。

 そんな短歌の世界の根本的な問題について、一つの回答を示した論考が出版された。川本千栄『キマイラ文語』(現代短歌社)である。

 本書では、「口語」と「文語」の違いについて、明快に論じる。すなわち、「現代短歌で用いられている文語は、古語と現代語のミックス語であり、キマイラ的な言語だ。文語も口語も基本は現代語で、対立概念ではない」(前掲書)というのだ。

 川本に拠れば、短歌の世界で用いられているいわゆる文語というのは、助詞や助動詞などは古語で、そのほかは現代語と古語のミックスである。だから、文語短歌というのは、言語でみれば、古語と現代語のミックスで、いうなればギリシャ神話にある合体獣のキマイラみたいなものだ、というのである。

 この川本の主張に拠るなら、近代以降の短歌というのは、厳密な意味での文語短歌は存在しない、ということになる。で、そうなると、口語短歌とは何か、文語短歌とは何か、という問題自体が成り立たない無効なものとなる。だって、文語短歌というカテゴリーが消滅するのだから、そうなる。

 というわけで、いわゆる文語短歌、口語短歌というのは区別して議論することは意味がない、と明快に主張する。

 ここまでは、筆者も首肯する。しかし、そう主張するならば、次のような問題が自動的に生まれる。すなわち、完全口語短歌と、キマイラ短歌の区別だ。では、その違いは何か。というと、そこについては、明快ではない。

 川本は「文語口語の線引きをすることはあまり意味を持たないし、元々キマイラなのだから、好きに混ぜて使えばいいことだと私は考える」という。

 この主張については、筆者は、大いに疑問だ。いわゆる文語短歌はキマイラだとしても、完全口語はキマイラではない。いうまでもなく、完全口語は合体獣ではなく、完全に口語一択だ。ならば、完全口語とキマイラの相違は大いに論じるべきものなのだ。だから、今後は、そうした議論が必要になろう。

 いずれにせよ、今後、口語短歌について何らかの主張をする場合には、この川本の論考が議論の前提になるとは言っておきたい。

 続いて、「短歌研究」十一月号、第十回「中城ふみ子賞」発表。

 この賞は、隔年で開催されており、今回で十回を数える。しかも、今年は中城ふみ子の生誕百年だという。そんな節目の受賞者は、大黒千加「境界線」五十首。

  とことこと各停電車で逢ひにゆく何度この川渡つただらう

  君と子の電話の会話聞いてゐる子の傍に元妻の居るらむ

  路地裏を黒猫のあと追ひゆけば小径はスカイツリーを指して

 ストーリーを追うならば、イマドキの中間小説にありがちな中年女性の辛気くさい恋愛の断片にすぎないのであるが、短歌作品でストーリーを追って読んではいけない。詩歌として鑑賞するなら、たいへん完成度の高い作品が並んでいる。

 ところで、これらの作品群、完全口語のなかに、時折、キマイラ作品が加わる。こうした叙述は、どうにも文体不一致のように筆者には思える。口語脈のなかに、語調を整えるためだけに、古語を使った作品がときおり混じる連作というのは、短歌連作そのものが合体獣のようにみえるのだが、どうだろう。

(「かぎろひ」2023年1月号所収)

 

短歌時評2022.11

 角川「短歌」八月号の座談会「流行る歌、残る歌」を読む。内容は、というと、大辻隆弘、俵万智斉藤斎藤、北山あさひの四氏に、今後残るであろう作品をあげてもらい、それぞれ残る理由を述べていく、というもの。

 例えば、俵万智なら、「残る歌」の条件として、「歌そのものの力で、すでに多くの読者を獲得している」「時代の刻印がある」「ツイッターで見た人がいいな思って広がっていく」の3つを挙げて、そうした条件にかなう作品として、十首選んでいる。

 

  告白は二択を迫ることじゃなく我は一択だと告げること

                       関根裕治

 俵万智によると、この作品は、ツイッターでたくさんの「いいね」がついて、拡散していったという。こういう歌が俵の言う「残る歌」というわけだ。

 北山あさひならば、「その人にしか詠めないものが詠まれている歌」を「残る歌」の条件として挙げて、大森静佳の次の作品をあげている。

 

  産めば歌も変わるよと言いしひとびとをわれはゆるさず陶器のごとく

 座談会では、こうして、それぞれの考える「残る歌の条件」と「残る歌」十首をあげて、縦横に議論が展開していくのであった。

 さて、この座談会のテーマである「残る歌の条件」。これ、要するに「いい歌」の基準であることがわかるだろうか。

 つまり、俵万智であれば、俵が考えている「いい歌」というのは、歌そのものの力ですでに多くの読者を獲得していたり、時代の刻印があったり、ツイッターで見た人がいいなと思って広がっていったり、ということになる。北山あさひならば、その人にしか詠めないものが詠まれている歌が、北山の考える「いい歌」といって差し支えないだろう。

 なんなら、皆さんも「残る歌」を自分なりに考えて、選んでみたらよい。その選んだ歌というのは、間違いなく、自分が「いい」と思う歌なのだ。だって、「いい歌」だと思わないものを、残そうなんて思うわけがないのだから。

 さて、そうやって選んだ「いい歌」。これ、各人で選ぶ基準があったはずである。そして、俵だったり北山だったりとは違う基準で、違う歌を選んだはずだ。

 と、ここまで話を進めたところで、要するに短歌の世界というのは、「いい歌」の基準を自由に決めることができる、というのがわかるだろうか。つまり、短歌の世界には「いい歌」の絶対的な基準は存在しないのである。

 「いい歌」の絶対的な基準が存在しないということ。

 実は、これ、ものすごく「いい」ことだ。なぜなら、自分で基準をつくれるということなのだから。つまり、いい歌かそうでないかは他人が決めるものではない。自分で決めるものなのだ。自分で作った「いい歌」の基準で他人の歌を読んで、自分で作った「いい歌」の基準で自分の歌を詠めばいい。

 なんて素敵な文芸ジャンルなのだろうと、思わずにいわれない。

 自分の作品が、いいかどうかは、自分で決めることができるのだ。もちろん、他者の作品の評価についてもそうだ。自分が「いい」歌だと思えば、それでいいのだ。そして、その「いい」理由を存分に語ればいい、というのが短歌の世界なのである。

(「かぎろひ」2022年11月号所収)