「歌のある生活」33「わからない」歌3

 前回までの議論を、とりあえずまとめる。

 穂村弘の作品には、現代的な素材で抒情させようという作品が一定数あり、読者は、その作品でうまく抒情できれば「わかる」し、抒情できなければ「わかならい」ということになるのではないか、いうことであった。

 この主張を当面の仮説として議論を進めていこう。

 さて、五月に穂村弘の十七年ぶりの新歌集『水中翼船炎上中』が発売されたので、せっかくだから、そこからいくつか拾って、仮説の検証をしてみよう。

 

なんとなく次が最後の一枚のティッシュが箱の口から出てる

 

 一読、だからなんなの、と言いたい感じの作品だけど、詳しくみていこう。

 歌の内容としては、ティッシュ箱からティッシュが出ていて、それが最後の一枚に思える、ということ。「最後の一枚」というところに、はかなさというか、切なさというか、そんな気持ちを託した。もちろん、それは、人間の人生の大きなはかなさや切なさ、というものではなく、変わらない日常のなかの、ホンのちょっとしたはかなさや切なさであり、そんなところの心の揺れを歌にするというのは、いかにも近代短歌の短歌的抒情の延長線上にあると私には思う。

 で、それをしっかりと作品化させるため、詠い方にいくつかの工夫がある。まず、初句の「なんとなく」という緩い入り方。こうした詠い方というのは、現代口語短歌のトレンドと受け取っていいだろう。茫洋とした感じが、文語短歌の締まった律感に対峙する口語短歌の詠い方なのだ。また、結句の「出てる」。「出ている」ではなく、イ抜きである。この、舌足らず感も、当然、はかなさとか切なさとかに対応していると押さえておきたい。

 であるから、歌の内容もさることながら、こうした歌の作り方というのは、現代口語短歌の最前線ととらえていいと思う。

 今回の穂村の歌集は、近代短歌の延長線上にある短歌的抒情を口語短歌の最前線といえる詠い方で作品化している、とおおまかにとらえていいと思うし、読者は、そうやって読めば、わりと「わかる」し抒情できるのではないかと思う。

 

極小のみかんの破片がまざってるパイナップルの缶詰の中

 

 上句の極視的なものの描写は、初期の穂村から続いているもので、細かい描写で抒情を感じさせようとする手法である。また、三句目「まざってる」も、イ抜きである。そして、下句では、パイナップルの缶詰といったノスタルジーを喚起させるアイテムを持ち出して、共感性を高めている、と読める。

 

長靴をなくしてしまった猫ばかりきらっきらっと夜の隙間に

 

 この作品は、現代短歌のオノマトペの試行と読むとわかりやすい。上句で童話「長靴をはいたねこ」をイメージさせて、下句で「きらっきらっ」とやる。この取り合わせで抒情させようとするのだ。同様な構成としては、次の作品もそうだろう。

次々に葉っぱ足されてむんむんとふくれあがった夜の急須は

 ここでは「むんむん」のオノマトペをうまく効かせた歌といえる。なお、先の作品もそうだけど、結句に「夜」が入っていることに注意したい。ここで夜を持ってくるのは、安易といえばそうだが、手っ取り早く抒情するために設定を「夜」にした、といえるのだ。

(「かぎろひ」2018年11月号所収)

「歌のある生活」32「わからない」歌2

 穂村弘の初期の代表的な作品から「わからない」とされる歌を見ていこう。第1歌集『シンジケート』より、この作品。

 

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 

 「嘘つきはどらえもんのはじまり」で、はあ?となるが、そこは後で議論することにして、もう一度、上句から読み直してみよう。初句二句の「ハーブ」の繰り返しは、ごく普通のリフレインだ。調べを良くする意図で並べているのだから、私たちが理解している反復技法の使い方である。そして、よく読むと「ハーブ」「ハーブティー」「春」「はじまり」と、頭韻を押さえていることがわかる。つまり、この作品は下句の単なるナンセンスで即興的な作品、というわけではなく、それなりに作り込んでいる作品ということがわかってくる。さあ、そうなると、この歌は、いったい何を詠いたかったのだろう。

 私は、この作品は「春の夜」を詠いたかったんだろうと思う。で、春の夜とウソを接続しようとして、上句に春の夜のイメージを、下句に、ウソの具体としてナンセンス(「嘘つきはどらえもんのはじまり」自体がウソことわざ、だ)を持っきてた、というように読む。であるから、いわゆる「二物衝突」的な読みで読むと、わりと「わかる」かもしれない。そして、そういう歌のつくりになっていることを理解したうえで、その「春の夜」のイメージと「ウソことわざ」の具体のぶつかりあいを鑑賞すればいいのである。

 

卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け          『同』

 

 こちらも、「海亀」や「手榴弾」という、突飛な単語が並んでいて、さっぱり「わからない」作品となりがちだが、まあまあ、落ち着いて読んでいこう。

 この作品の主題は結句「朝焼け」。こいつをいかに詠うかが作歌の動機だ、ととらえると「わかる」。「朝焼け」のイメージは、爽快さとか、新鮮さとか、とにかく明るいイメージだろう。だから、あまり複雑な心情を詠っているわけではない。心情はわりと単純。その単純な心情に、どうやって現代的な描写を施せば抒情できるか、というのが作歌の動機なのだ。そこで、持って来たのが産卵期の「海亀」や爆発直前の「手榴弾」なのだ。これらの素材と「朝焼け」のイメージが作者の意図どおりに読者へ伝われば、この作品は「わかる」だろう。

 すなわち、作歌の動機は、昔も今も同じ。抒情的に情景を描写したい、ということ。その描写の素材として、旧来とは違う現代的な素材を使っているのだ。この素材の描写で抒情できるかどうかが、読者の「わかる」と「わからない」の分かれ目なのではないかと思う。

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け  『ドライ ドライ アイス』

 

 さっきのが朝焼けで、こちらは夕焼け。これも、さっきと同様な読み方で鑑賞しよう。「夕焼け」をいかに抒情的に詠うかが、が作歌の動機。そこで持って来たのが「校庭の地ならし用のローラー」だ。説明的だけど、前回の「冷蔵庫の卵置き場」のように、細かい描写が抒情の発露になるというのは、近代短歌が育てた果実だから、この作品もその果実を頂いている。あとは、私たちが、ローラーに座って夕焼けを見ている情景に抒情できるかどうか、ということになる。抒情できれば「わかる」歌だといえるし、私にはじゅうぶんに抒情的と思うが、さあ、どうだろう。

(「かぎろひ」2018年9月号所収)

「歌のある生活」31「わからない」歌1

 

 私たちは、しばしば「わからない」歌に出会う。そんな「わからない」歌を「わかる」歌にしよう、そして、できるなら「いい歌だな」と思ってもらえるようにしよう、というのが、ここからしばらくの話題である。

 ここで取り上げていく「わからない」歌というのは、例えば、こういう歌である。

 

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 

                   穂村弘『シンジケート』

 

「わからない」歌というのは、いわゆる難解な歌とは違う。難しい言葉や表現を使っているわけではない。あるいは、日本語の文法がおかしくて意味が通らない、といったこととも違う。日本語がおかしくて「わからない」わけではない。

 平易な表現で、言葉の連なりも正しいけれど、どうにも「わからない」。この歌の何がいいの?と、一般的に言われがちな、そんな歌を取り上げていくつもりである。

 ところで、短歌の世界で、この歌の何がいいの?って感じに言われはじめたのは、恐らく、穂村弘に代表されるいわゆる「ニューウェーブ短歌」からだろうと思う。面白いことに、時をまったく同じくしてデビューした俵万智を穂村のように「わからない」という人はいない。

 つまり、俵については、それまでの短歌の「わかる」系譜に位置づけられるが、穂村をはじめとする「ニューウェーブ短歌」以降に連なる作品群は、それまでの短歌の系譜とは何かが違うということなのだろう。じゃあ、いったい、何が違うのだろうか。

 掲出歌を読んでみよう。これは、穂村の初期の代表歌といっていいだろう。一読、われの独白、ということはわかるだろう。日本語の連なりでいえば、初句二句とそれ以降が倒置になっている。冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は、ほんとうにおれのもんかよ、とモノローグしているのだ。

 で、「わからない」のは、卵置き場に落ちる涙、のところだろう。卵置き場というのは、どの冷蔵庫にも必ずある、卵を冷やすために空いている、円形のあれ、である。その卵置き場(の穴に)涙がポタリと落ちているのをみて、ほんとうにおれのもんかよ、とわれは嘆いているのだ。

 青年期の孤独感とか寂寥感を歌にした、ということであれば、作歌の動機はいたってありふれたものだ。

 例えば、百年前の青年は、こうやって哀しんでみせた。

 

 東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる 

                       石川啄木『一握の砂』

 

 青年期の哀しみを歌にしたということなら、穂村も啄木も違わない。啄木この歌を「わからない」という人はいないだろう。つまり、ここでの「わかる」のと「わからない」の違いというのは、蟹と遊んでいるのと、冷蔵庫を開けて覗き込んでいる、という違いだ。

 私は、どちらも、オーバーな戯画化された描写だな、と思う。啄木の歌でいうと、哀しみを表現するのに、蟹と遊ぶイジけた描写で同情を誘うなんてなあ、と思う。歌の構図は穂村も同じ。卵置き場に涙を落とすなんて、ずいぶんとまあ、哀しみを大げさに表現したもんだな、と思う。

 あとは私たち読者が卵置き場に涙する青年に抒情できるかということになる。もし、蟹と遊んでいる戯画化された情景に抒情できるのであれば、穂村の戯画化された情景にも抒情できるはずと思うが、さあ、どうだろう。

(「かぎろひ」2018年7月号所収)

ウォルトンの交響曲1番について

 

 

 ここのところ、繰り返し聴いているのは、W.ウォルトン交響曲第1番。

 ウォルトンは20世紀イギリスの作曲家。作曲はほとんど独学だったというが、イギリスのみならず、20世紀を代表する作曲家の一人といってよい。

 映画音楽でも有名。20世紀の作曲家のなかでは、とにかくカッコイイ旋律が書ける。だから、ベースは調性音楽。旋律を生かすためには、和声や拍子を壊しすぎてはいけない。そういうわけで、カッコイイ旋律に華やかなオーケストレーションがついた。

イギリス王室の2度の戴冠式の行進曲をつくってもいる。なかでも、1937年のジョージ6世戴冠式の行進曲は有名。これぞブリティッシュスタイルマーチ、といった感じの華やかで荘厳な行進曲。邦人でいうと、自衛隊儀礼黛敏郎より、皇室ご用達の團伊玖磨に雰囲気が似ている。どちらもカッコイイ旋律を書けるけど、洗練されているといえば、團だろう。

 

 交響曲第1番は、1935年の作品。20世紀の交響曲といえば、ショスタコービッチシベリウスプロコフィエフあたりが、わりと演奏機会やディスクが多いけれど、ウォルトンの1番も、なかなかの力作。20世紀を代表するシンフォニーと言ってもなんら遜色はない。

 古典的な4楽章で、各楽章の形式も私たちが知っているものからの逸脱はない。しかも、葛藤をへて勝利へという馴染みのある構成をとっていて、45分前後におさまる。と、よくあるシンフォニーの形で、旋律線も非常にはっきりしているので安心して聴くことができるし、聴いたあとは非常にすっきりする。

 けれど、スコアは(多分)相当複雑。演奏も相当ハイレベルに違いない。難しいパッセージが多々あることにくわえ、トゥッティでタテセン合わせるのがたいへんそうな箇所がたくさんある。

 曲の特長は、管楽器がとにかく鳴る、ということ。これが、カッコよさの要因。金管では、トランペット、トロンボーンのほか、チューバもかなり鳴るのだけど、なかでもホルンが活躍する。高音域にも低音域にも出てくるホルンの咆哮が印象的だ。

 実は、私は最近まで、このシンフォニーを聴く気にはならなかった。とくに終楽章コーダのくどいフォルテシモは、脂っこくて胃にもたれる感じだった。

 この曲に限らず、とにかく大音量の金管の響きが、きつかった。歳をとると、金管のフォルテシモが体に合わなくなるんだな、シベリウスの弦楽あたりを欲しがるんだな、と思っていた。食傷したという感じだった。

 けれど、今年になって、この交響曲を何度も繰り返し聴けるようになって、体調というか気持ちというかが、回復してきたと感じるのである。また、いろんな楽曲を楽しめるというのは、いいことだ。ただ、ウォルトンは聴けるようになったけど、まだ、ストラヴィンスキーを聴こうという気にはならない。果たして、聴けるようになるのだろうか。

 

 

 ウォルトン交響曲1番のディスクだけど、私が持っているのは、4枚。

 その中で、ベストは、これ。ラトル、バーミンガム市響

 

交響曲第1番

交響曲第1番

 

 

Walton: Symphony No.1

 

 

 98年発売だから、もう現役盤じゃないんだろうけど、これを聴けばこの曲については、じゅうぶんである。

 ラトルの解釈も的確だけど、なによりオケが素晴らしい。生き生きとしたリズム。複雑なオーケストレーションを難なくこなす。そして、ちゃんと鳴っている。ここまで、立ち上がりがいいというか、機動性にすぐれているというか、分厚い響きをパッパッと鳴らして色彩豊かに曲想を繰り広げていく躍動感がとにかく素晴らしい。

 これで、録音が最上だったら申し分ないけど、少しだけレンジが狭いかな、という感じだ。

 

ラトルの対極にあるのが、ホーレンシュタイン指揮のロイヤルフィル。1971年のライブ録音だから、これは、入手は困難なようだ。

 とにかく、重厚。遅い、遅い、重い、重いの解釈。珍盤の向きもあるが、これはこれで、ひとつの解釈として一聴に値する。演奏はいたって真面目、オケも精度も(1971年のライブ演奏としては)高い。じっくりと聴くのにはいいが、ただし、これがウォルトンのシンフォニーの正統とはいえないだろう。

 

 3枚目は、ブライデン・トムソン指揮のロンドンフィル、は、可もなく不可もない演奏。ときおり、リズムが重くなるところが傷といえば傷だ。

 

 

ウォルトン:交響曲第1番

ウォルトン:交響曲第1番

 

 

Walton;Symphony No. 1,Varii

 

 

 最後の一枚、ポール・ダニエルの指揮するノーザン・シンフォニアナクソス盤、まだ現役で、廉価で販売している。

 

ウォルトン:交響曲第1番/パルティータ(イングリッシュ・ノーザン・フィルハーモニア/ダニエル)

ウォルトン:交響曲第1番/パルティータ(イングリッシュ・ノーザン・フィルハーモニア/ダニエル)

 

 

 これは、一言でいうと、熱い演奏だ。スタイリッシュの対極。かといって、鄙びているというわけでもない。聴いていて、胸の熱くなる、情熱的な演奏なのだ。

 一流のオケとは言い難いが、ちゃんと鳴っているし、ミスタッチもないし、聴いていてはらはらすることもない。ちゃんと安心して聴ける。なので、演奏に心配はない。

 1楽章、入りは非常にハイテンポなのだけど、だんだん重くなっていく。第2主題の提示でルバートをかけているところが、独特。再現部の前が、相当重く熱量を感じる。

 2楽章はやや重いが、なんとかスケルツォになっている。

 3楽章。もう素晴らしい。気持ちが入った、熱い熱い演奏。後半、トゥッティで奏でるオケの慟哭にグッとくる。

 終楽章。やや落ち着いた運びながら、コーダ前で、スネアとドラが入って、ファンファーレの鳴ったところから、グンと熱量を帯びた演奏になる。このシンフォニーを愛してやまない、プレイヤーの熱い感情が伝わってくるそんな演奏。こっから先、情熱は途切れず、感動のフィナーレとなる。ここは、聴くたびにグッとくる。

 

 

「歌のある生活」30「音楽」の歌その17

 音楽の歌、「リズム」「メロディ」ときて、今回は「ハーモニー」です。これは、これまでの「リズム」「メロディ」よりも詠うのが格段に難しい。なぜなら、ミミオクでハーモニーを響かせるのは、読者にも作者にもそれなりの音感が必要とされるからです。ですので、作者もおいそれと題材にはしにくいという事情がうかがえます。

 それでも果敢に挑戦している歌としては、こんなのがあります。

 

 脳天へ叩き込まれる三和音、冬はじめてのオリオン星座 

                          杉﨑恒夫『食卓の音楽』

 

 三和音(さんわおん、と読みます)、まさしくハーモニーです。こういう詠い方なら、なんとか読者も受け取ってくれるだろうということでしょうか。

 冬の夜、オリオン星座を見て、われの脳天にハーモニーが叩き込まれたというわけです。冬の寒さをハーモニーでたとえたのがこの歌のユニークなところなわけですが、どうでしょう、読者である私たちは、果たして共感できるでしょうか。

 三和音(これは、おそらく主和音の響きなのでしょう)が脳天に叩き込まれる感覚というのは、これは巧いところを持って来たなという感じがします。ただし、調性音楽で、主和音が他の和音より強く響くのは、当たり前といえば当たり前なのではありますが。

 次の作品は、こんな響きです。

 

 君が手をあてれば響くオルガンになりたい群青色の一日(ひとひ)を

                          早川志織『種の起源

 

 オルガンです。君に手をあてられると響くオルガンに私はなりたい、というのがなんともチャーミングです。ただし、これ、鳴っているのはハーモニーではなく、単音かもしれない。けど、このオルガンは、倍音が幾重にも響いていて、深い深い音色になって いるに違いありません。

 最後に、この一首を。

 空いちめんEm7のひびきにて桜花咲きそむ満月の下  

                          『墓地裏の花屋』仙波龍英

 

 Em7は、イーマイナーセブンスと読みます。コードネームと呼ばれる和音記号の一種です。

 季節は春、桜が咲いている満月の夜空に、Em7のハーモニーが響いているというわけです。

 こうなると、そのEm7なるハーモニーがミミオクで響かないと、この歌の鑑賞ができないということになりますが、まあ、ここは歌意はさておき、こうしたコードネームを短歌に詠みこんだ、現代的でスタイリッシュな一首としてとらえるのがいいでしょう。

 たぶん、短歌でコードネームが詠われたのも、この作品がはじめてだと思いますし、そのアイデアはじゅうぶん成功しているとも思います。

 ですので、これはこれで秀歌といえるのですが、欲目をいえばマイナーセブンスなのが、ちょいと惜しい。ここは、マイナーセブンスじゃなくて、メジャーセブンスの響きのほうがより大衆的で都会的だったと思います。

 で、ここから先は、私の勝手な推測になるのですが、仙波もメジャーセブンスの響きを詠いたかったんじゃないか。ただそうなると、字面に難がでる。イーメジャーセブンスの表記は、Emaj7となるので、視覚的にうっとうしい。そこで、字面を優先させて、泣く泣くEm7と詠んだのではないか、というのが私の推測です。どうでしょうかね。

 以上、十七回にわたっておしゃべりしてきました音楽の歌の話もこれでお終いです。

 

「かぎろひ」2018年5月号所収

「歌のある生活」29「音楽」の歌その16

 前回の続きです。流行歌の歌詞を一首に挿入した作品を鑑賞します。前回は茂吉を紹介しましたが、今回はグッと最近の作品から。

 懐かしのヒーローアニメ主題歌の「♪だけど」の後が沁みる夜更けぞ

                     笹公人『叙情の奇妙な冒険』

 

 笹公人です。ここでは、「あしたのジョー」の主題歌の歌詞の一部が詠われています。ただし「あしたのジョー」とそのまま詠んだら抒情性が台無しになるので「懐かしのヒーローアニメ」なんていう、持ってまわった詠い方をしています。

 で、「だけど」。ここが歌詞の引用になります。この後は、「ルルルルー」とスキャットになりますので、これが沁みると詠うわけです。ですので、ただ流行歌の歌詞を引用しているわけではなくて、ひとひねりしています。

 今回、歌詞を短歌作品に挿入している歌として、笹公人ならいろいろあるんじゃないかと目星をつけて歌集を読み直してみましたが、意外なことに、この一首しか見つけられませんでした。

 そうして思ったのは、やはり、歌詞を挿入した短歌というのは、ともすると、他人のフンドシで相撲をとっている感が強く、ヘタすると剽窃、せいぜいはパロディということで、なかなかうまくはいかないのではないか、とうことです。

 もともと三十一音という少ない音数の中に、他人の歌詞を挿入しても、なかなか上質な効果を得るのは難しいといえます。なので、どうしても、アイディア勝負の感じで終わってしまうのではないでしょうか。

 ただ、前回取り上げた斎藤茂吉の歌、「鼠の巣片づけながらいふこゑは『ああそれなのにそれなのにねえ』」などは、嘱目詠ならぬ、ショクミミ詠とでもいえるもので、聴こえてきた音楽をそのまま歌にした、といえなくもありません。こうした短歌作品が、もっとあってもいいのではないかと思うのですが、目にしたものを即興的に歌にするのとは違って、聴こえてきた音楽をそのまま詠んで一首として成立させるというのは、なかなか難しいことなのでしょう。そんなことを思うと、音楽の歌というのは、まだまだ開拓の余地のあるテーマといえるのではないでしょうか。

 もう一首、歌詞を詠み込んだ作品を鑑賞しましょう。こちらもアイディア勝負の楽しい歌です。

 声だけが通り過ぎゆく雪(ゆーき)のふる街を雪(ゆーき)のふる街を  

                        小島ゆかり『獅子座流星群』

 中田喜直作曲の「雪の降る街を」です。地元旭川の私たちにはなじみある歌ですので、嬉しい気持ちになります。

 初句からの「声だけが通り過ぎゆく」は「想い出だけが通り過ぎてゆく」の歌詞のパロディです。で、三句目から、読者のミミオクにはメロディが歌詞ともに聴こえてくるのです。さあ、聴こえてきたでことでしょう?「ゆーきのふるまちをー」のリフレインが…。

 ここで楽しいのは、ルビです。「ゆき」ではなくて「ゆーき」です。つまり、「雪の降る街を」の部分はちゃんとフシをつけて歌ってねといっているのです。「ゆーきのふるまちをー」と。ですので、この作品は「メロディ」プラス「リズム」を詠った合わせ技の作品といえるかもしれません。

 「メロディ」の歌は、ここまで。

 次回は、いよいよおしまいの「ハーモニー」を詠った作品のいくつかを、皆さんと鑑賞したいと思います。

 

「かぎろひ」(2018年3月号)所収

柊明日香『そして、春』書評

 

 

 温かい歌集である。読むと、胸の深いところからほーっとする気持ちになる。それは、なによりも著者である柊明日香の人柄なのだろうと思う。短歌は、何を題材にしてもどんな風に歌っても許されるけど、やっぱり温かい人柄の歌人が紡ぐ温かい歌は、読者を幸せな気持ちにさせる。

 

 折りにふれ昔を語る母といて納戸の整理とんと進まず

 トーストの匂い満ちたる朝の部屋にとめどなく降る雪を見ており

 

「とんと」に著者の人柄が凝縮された一首目、真冬の歌なのにぬくもりの感じる二首目。歌集は、旭川に住む著者の身近な日常を詠った、いわゆる生活詠が中心といってよい。登場する人物は、父母、夫、舅姑、が主だ。そんな日常に季節や自然の移ろいを絡める。誰だって気持ちの沈むベタベタ、ジメジメの時だってあるだろう。まして、北海道の自然、とくに冬は厳しい。にもかかわらず、歌は前向きだ。実直に生きる生活人のしなやかさがある。

 

 左目の視力亡くしし老犬といつもの道をひとまわりする

 粗大ごみのシール貼られしストーブがしっとり濡れて門前にあり

 駅中の伝言板は外されてわが初恋を思い出づるも

 明日には忘れてしまう舅姑と桜の下に弁当ひらく

 

 抒情性にあふれた歌の数々。一首目、老犬との散歩。「いつもの道」を歩くと詠うだけで、切ない情感のあふれる歌となる。二首目、粗大ゴミのストーブでさえも歌になるという、歌人の技量がうかがえよう。「しっとり濡れて」いた、という著者の発見、あるいは、抒情の発露が歌になった。

 歌集は、著者の十四年間の歌作より三七一編を編んだというから厳選に厳選を重ねたのだろう。年代順に歌が並べられているのだけど、私には初期の頃のほうに瑞々しい抒情あふれる歌が多いように思った。抒情性というのは、身につけていくものなのではなく、その歌人の資質なのだということを改めて思う。柊明日香は、その持って生まれた抒情性をてらうことなく我意のものとして自在に詠っている。

 最後に、是非とも私が言っておきたいのは、多くの歌にみられるすぐれた描写である。さりげないなかに著者ならではの観察眼が光り、そこにリアリティが生まれている。

 

 園児らが反りかえりつつ見る空にディノサウルスが悠然とゆく

 散り積もるさくら花びら押し上げてマルハナバチは飛び立ちゆけり

 風呂の椅子に座りて豆の莢をもぐ米寿の母に秋の陽やさし

 

 一首目の「反りかえり」。ちゃんと見なくちゃ詠えない。振り返っても、仰ぎ見ても、ツマラナイ。リアルな描写によって歌に命が吹き込まれている。二首目の「押し上げて」。短歌は、どれだけ観察できるか、そして、それだけ正確な描写ができるかで決まる。三首目の「風呂の椅子」。何気ない描写だけど、これがあることによって、一首が秋の日和を描いた一幅の絵画となった。

 

『かぎろひ』2018年1月号所収