短歌時評2022.9

連作にテーマは必要か?

 

 今年の「短歌研究新人賞」が発表された。

 受賞作は、ショージサキ「Lighthouse」30首。  

 

  美しいみずうみは水槽だった気づいた頃には匂いに慣れて

  東京にいるというよりサブスクで日々を レンタルしている気分

  顔も手も胸も知ってる友人が知らない男と生殖してる

 

 選考会では、「『女性の生きづらさ』みたいな言葉でくくれるところから一歩踏み込んで、深いところがうたわれている」(斉藤斎藤)などの評があった。筆者も、本連作はテーマ性を深く詠いこんでいると思うし、これが今年の受賞作であることには、異論はない。

 しかしながら、選考委員の一人である加藤治郎の次のようなコメントには疑問。曰く、この連作は、メタファーとしての旅、現代のアプリケーション群、生々しい実感、という三層構造で作られていて、「こういった連作の作り方は初めて読んだと思います」という。

 普通、30首くらいの連作であれば、3つのテーマというか、構造というかによって連作を構成するのは、わりと普通なことだと思う。加藤ともあろうベテラン歌人が、初めて読んだなんて、ほんかしら、と思うのだが。

 連作に、テーマは必要か。

 というと、この「短歌研究」の新人賞の発表号にも、「連作評価」のポイントについて選考委員に聞いているページがある。

 しかし、そういうことを誌面に載せるのも、どうかとは思う。斉藤斎藤が、「傾向と対策で作った歌でほめられることは、(中略)中長期的に見て、あなたの魂によくないんじゃないですか、(中略)これは自分の作品だと、ほんとうに言える作品を応募してほしい」とわざわざ選考会で言っているのに、別なページでは「傾向と対策」を編集者が斉藤斎藤に聞いていて、こんな編集で大丈夫なんだろうか、と余計な心配をしてしまう。

 それはともかく、連作の話。 作品を連作として10首なり15首を構成するときに、決定的に大切なのは、並べ方である。どうやって並べるかを考えるだけで、おのずとテーマとかストーリーとかは生まれてくるものだ。同じく選考委員の米川千嘉子が「テーマというのは必要です。でも一首一首のそれぞれの場面のリアルさだけで勝負するやり方だってあると思うので、特に仕組む必要はない」といっているが、同感だ。

 例えば、冒頭にあげた、受賞作の一首目。みずうみや水槽は何かの比喩だとは思うが何の比喩かは分からない。しかし、連作を読み進めていくうちに、それらは東京の比喩だということがわかる。すなわち、上京した主人公が、上京したときは美しい湖だったが、住んでみると水槽だったと気がついた、というのだ。これが連作の妙なのだ。これが、一首目にあるからストーリーが生まれるのである。 つまり、連作とは、物語やテーマが先にあるのではなく、あくまでも、作品の並べ方で物語やテーマが浮かんでくるのだ。

 受賞作でいうと、女性性といった生々しい実感をテーマとして、そこに現代的なアイテムを混ぜて、一方で、旅を連想させる比喩を詠いこんでいる、ということだ。なので、はじめから三層構造で構成されているのではなく、批評者とか読者によって、はじめて構造らしきものがみえてくる、というのが、短歌作品の連作なのだ、と思う。

 

(「かぎろひ」2022年9月号所収)

短歌時評2022.7

動画的手法とは何か

 

 短歌ムック「ねむらない樹」Vol.8は、「第四回笹井宏之賞」の発表号。二〇一九年の第一回目から数えて、今年で四回目。応募総数は五八九点。去年の「角川短歌新人賞」の六三三点には及ばないものの、「短歌研究新人賞」の五八三点より多いというのは、大きな注目点といえよう。

 選考委員は、大森静佳、染野太朗、永井祐、野口あや子、神野紗希の各氏。選考委員の顔ぶれからも、本賞が、比較的若年層をターゲットにしていることがわかる。

 今回受賞したのは、椛沢知世「ノウゼンカズラ」五〇首。椛沢は「塔」短歌会所属の三三歳(応募時)。過去、「歌壇賞」次席の実績もあり、実力はすでに認められていたといえよう。

 この連作からは、現代口語短歌の先端部分の技法をきちんと咀嚼したうえで、独特な作品世界をつくりあげていることがわかる。

 

  剥いているバナナに犬がやってきておすわりをする 正面にまわる

  ノースリーブ着てると窓開いてるみたい 近づいてカーテンにくるまる

  夏の大セールで買った妹はセーター厚地のヒツジの柄の

 

 一首目。下句の叙述が、極めて現代的。正面にまわったのは、おそらく〈私〉と思うが、唐突に〈私〉の動作が出てくるところで、おかしな叙述となっている。

 二首目。「~みたい」は、最近の口語短歌で様式化されている言い回し。「~ごとく」「~ように」につづく、第三の言い回しである。この用法に嫌悪するようなら、現代口語短歌は読めない。

 三首目。散文にすると、「妹は、ヒツジの柄の厚地のセーターを夏の大セールで買った」となるのだが、これを、わざとぐにゃぐにゃな文章にして叙述する。こうすることで、口語韻文として特色を出そうとしている。

 こうした叙述が、現代口語短歌の先端部分といえるが、現代口語短歌の叙述の別な特質として、一首のなかでダラダラと時間の経過を詠う、というのがある。これは、瞬間を切り取る、とか、写真のように場面を写生する、といったこれまでの歌作の発想の対極といっていい。また、〈主体〉の見たままを詠う嘱目とも違う。いうなれば、スマホで撮った数秒の動画をそのまま叙述している感じだ。「動画的手法」といっていいだろう。そんな、ダラダラとしたとりとめのない動画の様子を、そのまま叙述しようとして、結果、おかしな日本語のまま作品として提出している、という体裁になっている。

 

  手に引かれなくても犬はついてきて走って追い越して振り返る

  冷水で顔を洗えば両開きの扉が開く 顔が濡れてる

 

 一首目。三句目以降、犬の一連の動作をただ叙述している。そのため内容が実にとりとめのないものとなっている。

 二首目。二句目の接続がおかしい。また、結句の叙述がとつぜん客観的になっていて、日本語としておかしくなっている。

 こうした、「動画的手法」というのは、私見では、「現在形終止」を多用する口語文体が原因、と考える。この仮説を検証する紙幅はないが、ただ、こうした「動画的手法」というのは、現代の口語短歌のトレンドであり、現在、どんどん様式化されている、ということは指摘しておきたい。

 

(「かぎろひ」2022年7月号所収)

 

短歌時評2022.5

三つの短歌賞について

 

 去年(二〇二一年)発表された短歌賞から話題を三つ。

 一つ目は、「短歌研究新人賞」。受賞作は、塚田千束「窓も天命」三十首。塚田は「まひる野」「ヘペレの会」所属、旭川市在住の三十四歳の医師(受賞時)。作品の主人公は医療従事者。その視線でコロナ禍の状況をスケッチしつつ、乾いた抒情による〈私性〉の発露が清冽な連作だ。現代口語短歌の様式化されている部分をうまく咀嚼し、自分のものにしている。

  先生と呼ばれるたびにさび付いた胸に一枚白衣を羽織る

  目を狙う ボールペンでも鍵でもよい夜道を歩きながら反芻

 二つ目は、「角川短歌賞」。こちらは四十六年ぶりの該当作なし。選考座談会(角川「短歌」2021.11)を読むと、四人の委員が、受賞作を一つにまとめきれなかったことがわかる。この賞に限ったことではないが、受賞作を決めるのに、ある委員では○な作品が、別の委員では×になっている、というのはよくあること。そのうえで、委員間で意見をすり合わせて、受賞作を決めるのだが、今回はそれがうまくいかず、結果、該当作なし、となった。これは、文芸に限らず、広く芸術一般に関する「いい作品」の何をもって「いい」とするかの基準が明確でないことゆえの結果といえた。各選考委員のいう「いい作品」の基準はそれぞれなんだから、あとは自分が「いい作品」だと主張する、その明確な基準を、言葉を尽くして他の委員に語って説得するしかない。今回は、各委員が、他の委員を説得できるほどの基準を明確に語れなかったことと、そもそも、言葉を尽くすほどの「いい作品」が無かった、ということなんだろう。

 短歌賞というのは、選考委員が違えば、選ばれる作品も違ってくる。およそ文芸や芸術とはそういうものだ。そんなものに、何か賞を与えて権威付けをしようとするのが「○○賞」というものだ、ということを今回のこの一件は改めて示していよう。

 三つ目は、「北海道新聞短歌賞」。こちらは、北海道在住者か三年以上在住した者の歌集を選考対象とする。なので、新人賞ではない。つまり実績のあるベテラン歌人の歌集も新人歌人の第一歌集も横一線で選ばれる異色の短歌賞だ。

 普通に考えれば、実績のある歌人の作品の方が、新人のそれより、「いい作品」のはずなのだが、昨年の受賞作は、北山あさひ第一歌集『崖にて』。ただ、北山は、この歌集で、「日本歌人クラブ新人賞」や新人を対象とした「現代歌人協会賞」を受賞しているので、第一歌集としてのある程度の基準はクリアしていよう。しかし、筆者は、この歌集より、他にエントリーしていた中堅歌人の歌集のほうが、「いい作品」だと考える。ただし、その中堅歌人の歌集には、北海道がテーマの作品はほぼなかった。一方、北山の歌集は、北海道に在住していた頃の〈主体〉の在り様を描いており、北海道の名を冠する短歌賞として、まことにふさわしい内容となっている。

 では、「北海道新聞短歌賞」の選考基準というのは、一体何だろう。まさか、「いい作品」でなくとも選ばれるというわけではなかろう。つまり、新人と中堅とベテランを横一線で評価対象にしている以上、その評価基準を明確しないと、北海道を冠したこの賞の権威も揺らぐのではないか、というのが筆者の主張だ。

(「かぎろひ」2022年5月号所収)

口語短歌の最前線⑤

 前回からの続きである。前回より、〈主体〉の認識の流れ、というのをキーワードとして提出している。

 そもそも短歌作品というのは、〈作者〉の「感動」を詠む、というのが常道であった。ここでの「感動」というのは、深く心が震えるような「感動」ではなく、ちょっとした心の動き、といった程度のものだ。私たちは、そんな「感動」を、あれこれと言葉を入れ替えたり、比喩表現や駆使したりして定型にして作品化する。これがごく普通の歌作といえる。

 短歌の入門書には、一枚の写真を撮るように、なんて書かれていたりするが、見たモノやコトをそのまま詠むのが歌作のセオリーだ。短歌は短い詩型であるから、あれこれ詰め込むことはできない。ある一つの「感動」を一枚の写真のように一首に閉じ込めるというわけである。

 

 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                        正岡子規『竹乃里歌』

 階くだり来る人ありてひとところ踊場にさす月に顕はる  

                        佐藤佐太郎『地表』

 電車から駅へとわたる一瞬にうすきひかりとして雨は降る

                        藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

 

 一方で、二つの出来事を一首にまとめるという作品もあって、こちらは、写真の喩えでいえば、二枚で一組の写真といえようか。

たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花赤く散りゐたりけり 

                          斎藤茂吉『赤光』

  灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ    

                          岡井隆『斉唱』

  ゆうぐれの前方後円墳に風 あのひとはなぜ泣いたのでしょう

                          田口綾子『かざぐるま』

 

 やや乱暴であるが、短歌作品というのは、こうやって作者の「感動」を一首に詰めている、ということができよう。

 しかし、〈主体〉の認識が流れている作品というのは、こうした作品群とは歌の構成が異なっている。写真のように一瞬を切り取るのではなく、いわば動画のようにダラダラと時間が流れているのである。そんな動画のようなダラダラしているのが、現代口語短歌のトレンドだ。

  真夜中はゆっくり歩く人たちの後ろから行く広い道の上

                     永井祐『広い世界と2や8や7』

  イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

               初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

  寝ぐせをとても気に入って新聞の写真には船、それに乗りたい

                    平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 

 前回とは別の作品を掲出した。どの作品も、〈主体〉の認識が流れているのが分かるかと思う。

 ただし、認識の流れをただ叙述しても、短歌にはならない。短歌には「定型」という枷がある。これを崩したら「韻文」ではなく、「散文」になってしまう。そこで、「定型」を意識しながら、〈主体〉の認識の流れを、動画のように時間の経過が分かるよう叙述しているのが、こうした作品といえる。なので、これら作品群を、単におかしな日本語のよくわからないもの、と片付けてしまうのではなく、新たな表現技法を産み出そうと悪戦苦闘している作品、として鑑賞するのがいいと思う。

(「かぎろひ」2022年3月号 所収)

口語短歌の最前線④

 前回からの続きである。

 前回、〈主体〉の認識が流れている、という「読み方」を提示した。

 

 横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋でたばこ吸いたい

                   永井祐『広い世界と2や8や7』

 〈主体〉がエレベーターで秋だなあと、状況を認識して、直後にたばこが吸いたくなった、ということ。それを一首に表している。読者は、そうした〈主体〉の認識の流れを鑑賞し、味わう、ということになる。もしかしたら、人によっては、ああ、そういうことってあるよねえ、わかるなあ、なんて共感するかもしれない。そんな読者がいれば、この作品はいい作品といえる。

 しかしながら、〈主体〉の認識の流れが叙述されている、ということは分かったとして、なぜこんなおかしな接続をしているのだろう。

 というと、そもそも私たちの認識というのは、言葉になる以前に、いろんなことをとりとめもなく認識しているといえないだろうか。作品に即していうなら、エレベーターに乗っているときに、秋だなと認識して、しかし、さほど深い感慨にひたることもなく、唐突にたばこが吸いたいな、と思うこともあるということだ。そして、エレベーターが目的の階に到着したら、秋だなと思ったことも、たばこが吸いたかったことも、認識の埒外になって、これから会う人のことを考えたり、あるいは、ずいぶん暗い廊下だなあ、とかまた別の認識をする、と、いえないだろうか。  

 つまり、こうしたおかしな日本語の作品というのは、〈主体〉の認識の流れに忠実に詠っているということがいえるのだ。

 このような歌の構成というのは、これまでの短歌にはありえなかった手法といえよう。

 少なくとも、短歌は定型である以上、定型に嵌るように構成する。そのうえで、いわゆるテニヲハをうまく使い統辞を駆使し、さらに、比喩や句切れや倒置や対句表現などの修辞を施し、最近では句切れや気跨りで調べにうねりをつけたりして、とにかく短歌作品として完成させていく、ということになる。

 しかし、この永井の作品みたいに、〈主体〉の認識の流れをそのまま詠んでみました、という体裁をとるなら、これまで培われてきた短歌作品ならではの統辞や修辞や調べの美しさなんかは、すべて捨てることになる。

 これは、相当なリスクである。〈主体〉のリアルさだけで作品世界を構築しようとしているのだから。

 こうした作品世界は、永井の歌集だけではなく、実は、最近の口語短歌にはわりとみられる手法である。現代のトレンドといっていいだろう。

 

 カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる

                       仲田有里『マヨネーズ』

 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 

                       斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                       山川藍『いらっしゃい』

 

 三首ほど掲出したが、どの作品も、難しい修辞や表現を使っているわけではない。表現は平易であり、内容も分かり易いが、これまでの短歌作品とは明らかに違っている。この違いというのは、端的にいえば〈主体〉の認識が流れているかどうか、といえよう。

 

(「かぎろひ」2022年1月号所収)

 

口語短歌の最前線③

 前回、二つの文章の断片が並んでいる作品を提出したが、こうした断片を無理やり一つの文章にするとどうなるか。というと、次のような作品になる。

 

  横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋でたばこ吸いたい

                        永井祐『広い世界と2や8や7』

  秋がきてそのまま秋は長引いて隣りの電車がきれいな夕べ

  プライベートがなくなるくらい忙しく踏切で鳩サブレを食べた

 

 三首ほどあげたが、こうなると、日本語として成り立たなくなる。けど、せっかくだから、このようなおかしな日本語も現代短歌作品として鑑賞の俎上にのせて、あれこれ味わってみたいと思う。

 一首目であれば、「横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋で」と「たばこ吸いたい」の二つの文章の断片に分けることができる。前回まで、短歌作品の「読み方」として二つの方法をあげた。すなわち、「二物衝突」と「短歌的喩」という「読み方」だ。この「読み方」でこの作品は読み解けるだろうか。というと、この文章の断片は、衝突しているのでもなく、互いに喩の関係になっているのでもない。もちろん、無理やり二物衝突として味わう、ということもできなくはないが、あまりいい「読み」にはならないと思う。

 どうしてかというと、二つの断片が接続されて一文になっているからだ。一首目なら、「秋で」の「で」、二首目なら「長引いて」の「て」、三首目は「忙しく」、と、それぞれ助詞や形容詞の連用形で接続されている。これは衝突ではなく接続というにふさわしい。二つの断片が一つに接続されているのであれば、そのような理解で読んだほうがいい。

 一首目。まず、この二つの断片は、別の種類の文章である、という確認から始めよう。「横浜はエレベーターでのぼっていくあいだも秋で」は、これは普通の短歌の叙述ということがいえよう。〈主体〉が横浜でエレベーターに乗っている状況で、ああ、秋だなと、認識したのだ。そんな認識の状況で、唐突に「たばこが吸いたい」と思ったのだ。なので、この「たばこ吸いたい」というのは、〈主体〉の心の中で思ったこと、ということができる。つまり、この作品は、状況を叙述した部分と〈主体〉の心の中で思ったこと、という二つの別の種類の文章を助詞の「で」で、無理やり一つにした、ということだ。この無理やり一つにした、というのが、短歌の技法としてこれまでになった、新しい表現技法ということができる。つまり、二つの異なった文章を衝突させたり、並列にしたり、というやり方はこれまでにもあった。けど、これら作品は、衝突や並列ではなく接続したのだ。

 そうなると、これは新しい「読み方」が必要になる。では、どうするか。というと、一つの方法として、〈主体〉の認識が流れている、ととらえて読むやり方があると思う。〈主体〉が、ああ、秋だな、とエレベーターで認識した、その直後に「たばこが吸いたい」と唐突に思った、という〈主体〉の認識の流れを鑑賞するのである。二首目なら、秋が長引いているなと認識した直後に、隣りの電車がきれいだなと違う認識した、ということ。三首目は、とても忙しかった日々のことを回想していた直後に、公園で鳩サブレを食べたことを唐突に思い出したのだ。そんな、闇雲な〈主体〉の認識の流れを鑑賞するのだ。

 

(「かぎろひ」2021年11月号所収)