「歌のある生活」18「音楽」の歌その5

 前回、小池光を悪く言いましたので、今回は、こんな素敵な作品を紹介しましょう。

 

 サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージォ」七分の間(ま)の虹きえるまで

                          小池光『時のめぐりに』

 

 アメリカの作曲家バーバーの代表作「弦楽のためのアダージォ」の切ない響きと、雨上がりの空にかかる虹の色彩が頭のなかでシンクロして、なんとも美しい作品となっています。

 けど、どうでしょう。やはり「弦楽のためのアダージォ」を知らない人にとっては、この作品の美しさを十全に感じることはできないのではないでしょうか。私は、この曲を知っていますので、頭の中で弦楽の響きと虹の輝きがシンクロします。なんて素敵な歌なんだろうと、深く鑑賞することができます。しかし、バーバーのこの曲を知らない人にとっては、そもそも頭のなかで鳴らすことはできないわけで、虹とのシンクロも起きることはないわけです。そのように考えると、この作品は読者を限定してしまうものとなります。つまり、バーバーのこの曲を知らなければ、この歌は味わいようがない、ということになってしまうのではないでしょうか。

 次の歌もそうです。

 

 厳寒にはく息おもうショスタコービッチ「パービ・ヤール」は夜すすりなく

                           小高賢『太郎坂』

 

 もう、バーバーの名曲どころではありません。ショスタコービッチ交響曲のなかでもとびきりマイナーな曲が題材となっています。この曲、コアなクラシックファンじゃないと、聴いたことがないでしょう。だいたい、曲のタイトルだって知らない人が大多数でしょう。

 ここまでマイナーな曲になると、もうショスタコービッチからの連想で、ソビエトの風土だから厳寒、とか、ソビエトの体制批判だから夜すすりなく、とか、音楽から離れて解釈するしかなくなるわけです。

なお、細かいことを言えば、「パービ・ヤール」は誤植です。ロシア語の発音からして「パ」と表記することはできません。カタカナ表記するなら「バ」が一般的です。すなわち「バービ・ヤール」です。

 今回は、音楽を題材にした二つの作品を取り上げましたが、実際のところ、短歌作品の題材になっている多くは、このような構成の作品といえます。すなわち、短歌作品に取り上げられた曲を知らないと、その作品の味わいが半減する、もしくは、味わうことができない、というものです。音楽が読者の頭の中で鳴らなければ、鑑賞のしようがない、というわけです。こうした作品群、私はやっぱり問題アリだなあ、と思います。

 しかし…。音楽を題材にしたすべての短歌作品で、その題材にした音楽が鳴っていなくてはいけないかというと、実はそんなこともないのです。音楽が鳴っていてもいいけど、鳴らなくても鑑賞ができる歌、というのもあるのです。

 つまり、今回取り上げた二つの作品のように「弦楽のためのアダージォ」や「バービ・ヤール」を知らないと味わえない、のではなく、知っているにこしたことはないが、知らなくても味わうことができる歌というのがあるのです。

 私は、こうした歌は、歌として成立していると考えます。次回からは、題材の曲を知らなくても、短歌作品として成立している作品群、というものをみていきましょう。

 

「かぎろひ」2016年5月号所収

 

歌のある生活17 音楽の歌その4

 

 今回は、音楽を題材にした短歌作品のなかで、私が問題アリと思う歌を取り上げます。

 

 中国の不死の男が街娼を愛する話 夏の楽譜に   「本郷短歌」第四号 服部恵典

 一読、何のこっちゃ、という感想の人が大半じゃないでしょうか。

 これはバルトークバレエ音楽中国の不思議な役人」を題材にしています。このバレエの筋書きを一言でいえば、「中国の不死の男が街娼を愛する話」なわけです。ですから、このバレエ音楽について知らないと、この歌の味わいは半減してしまうと思います。ただし、これは知識の範疇、つまり、この曲を知識として知っているかどうか、ということになります。ですので、問題アリの歌のなかでも、まだ軽微なほうでしょう。

では、次はどうでしょう。

 

シューベルト最晩年の波際をひたひたとゆくピアニストの手は 

紺野裕子『マドリガーレ』

 

 これは、謎解きのような作品です。

 まず、いくつかあるシューベルトの最晩年のピアノ曲を知識として知らないといけない。そして、それらの曲のなかで、波際をイメージさせる曲を思い浮かべなくてはならないのです。そうなると、クラシック音楽にそこそこ詳しい人じゃないと、この歌への共感はできなくなります。これ、「即興曲D899」の第三楽章かなと思うのですが、違うかもしれません。はじめ右手が波のように和音を分散し、その伴奏の上に、死を間際にした、この世のものとは思えない(と、多くの人が賞賛する)名旋律が奏でられます。自分の愛する曲を詩情ゆたかに詠おうとすれば、こうやって詠うしかないよなあ、と歌人として気持ちはわからなくはないのですが、読者からすると、この曲を導きだせるかどうかで、歌の味わいは大きく損なわれてしまうでしょう。

 最後に、大いに問題アリをあげます。

 

 街宣車フィンランディア」を鳴らし去るカラヤン指揮のベルリン響(フィル)か

 小池光「滴滴集」

 

 紺野のシューベルトには、まだ作者の曲への愛情が感じられますが、小池の歌はいけません。これ、フィンランド人が読んだら、不快になるのではないでしょうか。

フィンランディアは、フィンランドの作曲家シベリウスの代表曲です。作曲当時、フィンランド帝政ロシアの圧政を受けていました。シベリウスは祖国民を鼓舞するため、愛国歌として、この曲をつくったのでした。

と、まず読者には、そういうことが知識として知らなくてはなりません。ただし、それは軽微です。私が大いに問題だと思うのは、フィンランディアとわが国の右翼の街宣車を結び付けているところです。これじゃあ、まるでフィンランド第二の国歌と呼ばれるこの曲が、日本の右翼の街宣と同様のものということにもなります。無論、作者は、そんなことは言いません。「カラヤン指揮のベルリン響(フィル)か」とつぶやくだけです。このおさめ方も、何と言うか、クラシック音楽といえばカラヤン、みたいなスノッブ感が醸し出されていて、私には嫌な感じです。

なお、この「ベルリン響(フィル)」の「響」の当て方は誤りです。なぜなら、ベルリンフィルといえば、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団をさし、ベルリン響といえば、ベルリン交響楽団をさすからです。この二つのオーケストラは別の団体です。ですからフィルに「響」の漢字を当てることはできないのです。

 

「かぎろひ」2016年3月号所収

 

芥川也寸志の音楽

 芥川也寸志は、作家芥川龍之介の三男坊。

 といっても也寸志が2歳のときに、龍之介は自殺したから、父親のことは覚えていないだろう。

 のちに也寸志は、父親の「蜘蛛の糸」を舞踊組曲として作曲して、それは現在録音されてCDになって聴くことができるけれど、私は、あまりいいとは思わなかった。芥川也寸志の音楽は、何と言っても、20代の初期の頃がいい。

 

 代表作は、「交響管弦楽のための音楽」。1950年の作。

 彼が24歳のときの作品。2楽章形式の10分程度の作品であるが、第2楽章の乱暴なアレグロが素敵だ。

 私が初めに聞いたのは、高校時代のときだったが、なんだハチャトリアンじゃねえか、と思った。金管の咆哮、ぐいぐいおしてくるアレグロのリズム。まさしく、ハチャトリアンからロシア臭を抜いたような音楽である。

 よく聴くと、随所にカバレフスキーの響きもある。芥川は、当時のソビエト音楽に影響を受けていて、のちに自らもソビエトに行ったから、聴けばその影響はすぐにうかがえる。そもそも、3歳の時に家にあったレコードプレーヤーでストラビンスキーの「火の鳥」を聴いたのが、最初の音楽体験だったというから、ソビエト音楽が出発なのだ。

 1楽章は、スネアのブラシ奏法が印象的なアンダンティーノ。この1楽章の音楽より、芥川を「都会的」といったりしたのを読んだことがあるが、当時であればいざ知らず、平成の今日では、そうした形容は当てはまらないだろう。それよりも、この「交響管弦楽のための音楽」は、土俗的といったほうがしっくりくる。それは、ソビエト音楽の土着的影響にくわえて、師である伊福部音楽の影響だ。

 

 このほかにも、「交響三章」や「弦楽のためのトリプティーク」といった芥川の初期代表作には、やはり伊福部ゆずりの土俗性が感じられる。これは、メロディーラインもそうだけど、アレグロのオスティナートによるものであろう。

 かように芥川の音楽の特徴は、耳に残る線の太いメロディーライン、気持ちの高揚する野蛮なアレグロオスティナート、ということがいえるだろう。

 20世紀の現代音楽のなかで、芥川のメロディの主張の強さといったらない。

 そして、アレグロ楽章では、じつに音符の数が多い。「交響三章」の第1楽章の第1主題を聴くとそれが顕著である。そして、それをスケールで流すのではなく、メロディーラインとしておさえるので、押しの強いメロディとなるのである。この押しの強さでいえば、ソビエトを代表する作曲家ショスタコービッチのメロディも想起できる。

 また、線の太さでいれば、アレグロ楽章だけではなく、レントの楽章でもそうで、芥川の初期の曲で、ふわっととか、もわもわといった旋律線というものはない。

 

 初期の管弦楽はとても若々しい青春の音楽だ。

そのうち、芥川も現代音楽に影響を受けて、作風を違えていくのだけど、そうなると、私にはつまらなくなる。

 中期にはエローラ交響曲とか大作もあるが、私には、しっくりこない。

 それよりも、映画やドラマの音楽のほうがいい。

 そこには、芥川のやはり線の太い旋律が息づいている。

 この分野での代表作は「赤穂浪士のテーマ」だ。ボレロちっくな、ぬたぬたとした音楽は、多くの人の指摘どおり、早坂文雄の「羅生門ボレロ」を連想させる。

 ほかにも、「八ツ墓村」「鬼畜」「八甲田山」の映画音楽あたりが、わかりやすくて楽しい。どれもCDになっているから、手軽に聴くことができる。

 とくに「八ツ墓村」のワルツはお薦めの小品である。

 

 芥川はフォルテで金管を鳴らすことに躊躇がなかったから、吹奏楽作品も普通に書いた。マーチもいくつか作曲しているだが、残念なことにこれが私には、まったくいただけない作品なのだ。

 とにかく、ものすごくクドイのである。マーチでこのシツコサといったら他にはない。芥川のぬたぬたとした旋律は、アレグロやボレロちっくなテンポには、はまるのだけど、マーチとなると、まったくいただけない。聞いているだけで、クドイと感じてしまうのだから、演奏している側からすれば、まったく疲れてしまう作品だろう。

 ライナーノートには、芥川夫人が主人は楽しそうに作曲していたとあるが、作品はまったく楽しくない。

 奇曲の部類にはいるのではないか。

 

 そういうわけで、私のおすすめは、初期管弦楽。

 なかでも青春音楽として「交響三章」をおすすめしたいのだが、残念ながら良盤がない。現役では、ナクソス盤しかないと思うが、名盤とはいえない。

 もうひとつの代表作「交響管弦楽のための音楽」は、いい盤がたくさんある。ここでは録音も演奏も良好な「蜘蛛の糸 芥川也寸志の芸術1」(本名徹次/日フィル)1999年盤を推薦盤とする。

「歌のある生活」16「音楽」の歌その3

 前回は、問いを投げたところで終わりました。「音楽」が鳴る歌は、バッハやモーツァルトでは作りやすいけれども、他の作曲家では難しい。それはなぜでしょう、という問いでした。

 さて、なぜでしょう。

 まず、単純な理由として、字数の問題があります。バッハは三音ですので、短歌に突っ込みやすいのです。これがチャイコフスキーならどうでしょう。こいつ、日本人にやたらと人気のある作曲家なのですが、こいつを詠んだ短歌作品は、バッハにくらべたら格段に少ないと思います。で、なぜかといえば、字数が多いから。歌にハマってくれないし調べもものすごく悪くなる。同じ理由でメンデルスゾーンも歌には向かない。それにくらべたら、モーツァルトは字数がいい。六音ですので助詞をつければ、二句や下句にはめやすい。そのうえ、音の響きもいい。同じ六音のベートーヴェンとくらべても、濁音のない分、響きが柔らかい。いきおい歌にしやすいということがいえます。これが第一の理由です。

 二つ目の理由。こっちのほうが、ずっと重要ですが、それは、バッハとかモーツアルトといえば、どんなイメージなのか、読者に察しがつく、ということです。

 どういうことかというと、バッハの曲というのは、バロック調の荘厳で杓子定規な音楽というイメージであるということ。いやー、そんなことはないと思うかもしれませんが、皆さんが思い浮かべるバッハの曲というのは、そうじゃないですか? そういうわけでバッハは共通のイメージを結びやすいのです。

 ですから、こんな歌まであります。

確定申告、バッハのように整然とレシート貼りて提出をせり

                  花山周子『屋上の人屋上の鳥』

 もう、バッハが比喩になってしまいました。「バッハの曲のように」ではなく、「バッハのように」で、じゅうぶん通じてしまうのですね。それくらいバッハは、共通のイメージがあるということなのでしょう。

 同じように、モーツァルトも曲に共通のイメージがある。それは、若々しく、明るく軽快なイメージです。レクイエムや交響曲四〇番冒頭のもの悲しい短調の旋律も印象深いのですが、どういうわけか、モーツァルトといえば、からっとした陽性の響きを誰もが思い浮かべるのです。ですから、こういう歌になります。

梅雨晴れのふとまばゆさを増す空にモーツァルトの靴音がする

                     永井陽子『ふしぎな楽器』

 じめじめした梅雨時期にふとみせる、晴れた空にふさわしい音楽として、アイネ・クライネあたりが靴音とともに鳴るわけです。もう、ぴったりじゃありませんか。

 では、ベートーヴェンはどうなのか。というと、皆さん、イメージそれぞれになってしまう。「運命」のジャジャジャジャーンもあれば、「第九」の大合唱もある。ピアノ曲なら「悲愴」もあれば「月光」もある。もう、曲のイメージがバラバラなわけです。ですから、バッハやモーツァルトのようにはいかない。他の作曲家も同様です。固定されたイメージがないから、歌にはしづらいのです。

 しかし…。固定されたイメージがないのにもかかわらず、音楽家や音楽を題材にしている短歌がまわりにはたくさんあります。それは、私からすると、非常に問題アリの歌です。次回はそんな問題アリの歌を取り上げます。

 

「かぎろひ」2016年1月号所収

「歌のある生活」15「音楽」の歌その2

「音楽」を題材にした歌についてのおしゃべりの二回目です。

「音楽」を題材にして作歌する以上、その作品には「音楽」が鳴っているべきである、というのが、私の主張です。

 前回は、近藤芳美の作品をあげました。「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」です。この歌について、前回、あれこれ理屈をこねてみたわけですが、とはいえ、この歌はちゃんと「音楽」が鳴るのです。「或る楽章」の部分で、読者はそれぞれ思う「或る楽章」の音楽を頭の中で響かせるわけです。もちろん、それはベートーヴェンだろうが、シューマンだろうが、何でもいいのです。その響きは読者にゆだねられています。ですので、この作品は、さーっと「音楽」が鳴る一首といえます。私の主張にかなう作品です。

 こうした歌をほかにもあげてみましょう。たとえば、こんな作品はどうでしょう。

ヘッドフォンのバッハの曲をたましひの一(ひとつ)窓(まど)とし車中に眠る  

                              高野公彦『水苑』

 列車に揺られている。耳にはヘッドフォン。そこから流れているのはバッハの曲。それを聴きながら「たましひの一窓」として眠る、というのです。「たましひの一窓」の隠喩がこの作品の核であり、表現のオリジナリティなわけですが、この隠喩が列車に揺られながらヘッドフォンで音楽を聴いているという状況にぴったり合っています。そしてバッハ。「たましひ」なんていう巨大な言葉に対峙できるのは、音楽の父バッハしかいないでしょう。ですから、「たましひ」と「バッハ」もまた、ぴったり合っています。では、ヘッドフォンから聴こえているバッハの曲は何か。

 バッハで「たましひ」といえば、「マタイ受難曲」かなあ、なんて私は想像してしまうのですが、この歌のすぐれているところは、曲名を明示していないことです。このことで、読者の想像がぐーんと広がるのです。

バッハの曲なら一曲くらい読者は知っているだろう、という高野なりの計算がはたらいているともいえるのですが、とにかく、バッハなら何でもいい。この歌を読むと読者の頭の中に、バッハの曲が響くわけです。

 このような構成の歌をもう一首あげます。今度は、モーツァルト

やはらかな血管のやうにうねりくるモーツァルトをねんねんころり

                      松川洋子『月とマザーグース

 これも、高野のバッハと同様、読むと読者の頭にはモーツァルトが響いてきます。モーツァルトの音楽を、「やわらかな血管のやう」とたとえたのは見事というしかありません。どんな曲でもいいです、頭の中で鳴っているモーツァルトは「やわらかな血管」というにふさわしい音楽じゃあありませんか。これが、ベートーヴェンじゃだめですね。たとえば「運命」冒頭のジャジャジャジャーンは、血管の生命力とは呼応しますが、やわらかくはないですね。まさにモーツァルトがどんぴしゃなのです。なお、結句の「ねんねんころり」は解釈してはいけません。ここは、松川ならではのユニークな言語感覚を楽しむところでしょう。

 今回は、バッハとモーツァルトを題材にした作品を紹介しましたが、実は、作曲家を短歌の題材にするとき、バッハとモーツァルト以外で作歌するのは、とっても難しいのです。

さあ、なぜだかわかりますか?

次回は、そのあたりのことについておしゃべりします。

 

「かぎろひ」2015年11月号所収

「歌のある生活」14ある状況を歌にする

 今回は、いきなりクイズからはじめましょう。次にあげる二首は、どちらも同じ「ある状況」を歌にしています。さて、どのような状況を詠んだものでしょうか。

電車ならまだあるだろう特製のベーコンエッグ食べに来ないか     新名リオ

痛みあれ 右手のひらが持つ熱を真つ直ぐあなたに伝へるために     門脇篤史

 さあ、わかりましたか?

 正解は「壁ドンして一首」でした。

 ええと、まず「壁ドン」を説明します。昨年あたりから、主に少女マンガの世界で流行ったシチュエーションです。男性が女性を壁際まで追い詰め、壁を背にした女性の脇に手をつき「ドン」と音を発生させ、腕で覆われるように顔が接近すること、…なんていうのが一般的な説明のようです。これが、テレビのバラエティ番組などで取り上げられて、シチュエーションとともに「壁ドン」というコトバ自体も流行しました。

 で、この「壁ドン」ですが、これを短歌にしてしまおうという歌会が、インターネットの世界で催されました。題詠ならぬ、壁ドン詠というわけです。中牧正太の運営する「むちゃぶり短歌」というネット配信形式の投稿テーマの一つでした。

 先にあげた二首は、その「むちゃぶり短歌」の投稿作品からのものです。

 この「壁ドン」短歌、私が面白いなあと思ったのは、「ある状況」で一首、という発想です。これは、題詠とはちがいます。今回でいうと、「壁ドン」というコトバを詠むのではなく、「壁ドン」という状況を歌にするのです。ですので、先の新名リオの歌は、「壁ドン」のあと、男子が女子に向かって言っているセリフを歌にした、ということです。また、門脇篤史の歌は、「壁ドン」直後の男子の心情を歌にした、といえるでしょう。

 この「ある状況」を歌にする、という発想は、わたしたちが作歌するうえで実に有効なことと考えます。よく、短歌の入門書などに、短歌は一瞬を切り取るとよい、なんて書いてあったりしますが、この「壁ドン」は、まさしく一瞬を切り取ることで、歌になるシチュエーションなわけです。

それから、この「壁ドン」短歌が秀逸なのは、サブカル的な要素をてらいなく短歌に持ってきている、ということもあります。ただ、これはネットの世界ならでは、ということがいえるでしょう。こうした遊びを含んだ歌会が気軽にできるのは、ネット短歌の大きな利点でありましょう。

 そんな「壁ドン」短歌。おしまいに、女性の側からの歌を紹介します。「壁ドンして一首」ならぬ「壁ドンされて一首」ということです。こういう現代的なテーマで女性の恋心を歌わせると実に巧いのは、嶋田さくらこです。彼女もネット歌人の一人で、ネット投稿による歌誌「うたつかい」の発行人として活躍しています。また、書肆侃侃房より第一歌集「やさしいぴあの」を刊行している気鋭の本格派歌人でもあります。そんな彼女の「壁ドンされて一首」は、これ。

うつむいて上手くかわしたはずなのにつむじにキスをしてくるなんて 嶋田さくらこ

 ちなみに、去年の流行が「壁ドン」なら、今年の流行は「顎クイ」らしいです。どんな状況なのかは、もうどうでもいいことなので説明しません。もちろん「顎クイ」の短歌も紹介しません。

 次回は、また違うおしゃべりをします。

 

「かぎろひ」2015年9月号所収

 

2014.05.30札幌交響楽団定期演奏会記 伊福部昭プログラム

2014.05.30札幌交響楽団定期演奏会

 

伊福部昭演奏会。

 

 私がはじめて伊福部を聞いたのは、高校の時だったと思う。

 多分「交響譚詩」だったろう。わかりやすい曲想で、1楽章はアレグロでぐいぐい押すから、高校生の時分には楽しめていただろう。

 そのうち、「日本狂詩曲」がNHK-FMでかかったので録音した。カセットテープの時代である。そして、当時のレコード(CD)録音は山田一雄と東響のしかなかった。これを繰り返しきいた。

 1995年からのキングレコードの伊福部シリーズには歓喜した。私は就職して、独身だったから、CDにカネをかけることができた。そして、広上淳一と日本フィルの名演奏名録音で楽しんだ。

 今では、伊福部のCDはやたらと現役版がでていて、もうフォローできなくなってしまったが、00年代前半くらいまでの伊福部の管弦楽の現役版は私はすべて持っていたはずである。

 伊福部の音楽の特徴はアレグロオスティナート。これをフォルテで執拗にやれば、疑似的なトランス状態になる。これが、伊福部音楽の最大の魅力だといえよう。伊福部本人も言っていたが、現在、彼の音楽が再評価されているというのは、ロック音楽のようなサウンドが普通になったことも要因とはいえよう。とにかく、大音響で鳴らす気持ちのよさに人々は魅かれているのは間違いない。

 

 さて、札響定期。

 1曲目はその「日本狂詩曲」。1935年に作曲され、先述のとおり、現役版はしばらく60年代に録音されたヤマカズ盤だけだった。北海道では、やっと2002年に札響が初演した。私は、この演奏会に行きたかったが、当時、教員だった私は、見事に学校行事の体育大会とぶつかっていて、あえなくいけなかったという思い出を持つ。このときは、体育大会の順延を願っていたがかなわなかった。

 札響は今回が2度目の演奏。指揮は高関健。

 1楽章。ゆったりとしたテンポ。ヤマカズはもちろん、広上・日フィル盤よりも、ナクソス都響よりも遅かった。けれど、それが、ピタリとはまっている。私は、高関の指揮はメシアンのトゥーランガリラもそうだったが、基本的に信頼している。実は、飯森泰次郎も、伊福部を取り上げたことがあり、それを札幌定期で聞いたことがあるが、このときは残念な演奏だった。気持ちが入りこんでしまって、どんどん荒くなるのだ。鳴らしすぎてしまう。それではだめなのだ。伊福部音楽は、アレグロオスティナートで突っ走ればいいというものではない。

 実は、相当、精緻な管弦楽法を用いているのである。これは、どうしたって、一面ではゴジラシリーズの映画音楽が伊福部の特徴だったりするから、なかなか気がつかないのだけど、「日本狂詩曲」なんて、本当に、細かくオーケストレーションがなされている。高関は、それをちゃんと聴こえるように整理しているのだ。

 それは私には感激であった。1935年の日本人がつくったまさしく現代音楽なのだ。すなわち、西洋音楽の伝統にのっとっていない、和声も旋律もリズムもすべてが新しい、日本発の現代音楽なのだ。

 2楽章の「祭り」も同様に、高関は冷静である。決して、バランスを崩さない。オケをはしらせず、知的にセーブする音楽づくり。これが伊福部の音楽には必要なのだ。そうすることで、若干25歳の伊福部が書き上げた巨大なオーケストレーションがわかるのだ。

 私は、感激した。この「日本狂詩曲」が聞けて私は思い残すことがない気持ちだった。だって、20年来の夢がかなったのであるから。

 

 2曲目はヴァイオリン協奏曲2番。

 これは札響初演。もしかしたら、献呈者の小林氏以外の演奏は、今回が初めてじゃあないかしら。多分、CDも小林と芥川指揮の新交響楽団の1枚だけだと思われる。

 演奏は、独奏者である加藤知子の音色は実に曲にあっていたと思った。

 私は、ヴァイオリン協奏曲の1番(ヴァイオリンの協奏風管弦楽曲)も、キタラで、徳永二男の演奏で聞いたが、あのときは、緊張感を抑え、開放的なおおらかな演奏で、その解釈も悪くないと思った。今回は、かなりヴァイオリンが主張していた。

 ただ、曲でいうとやはり、1番のほうが、メロディも構成も良いと思う。2番は、1番と比較をするなら、やはり演奏回数が少ないのも仕方がないと思う。

 休憩後、「土俗的三連画」。この曲も、私は札響の放送をエアチェックしてカセットに録音して繰り返し聞いていた。その録音が札響の初演だったのは今回はじめて知った。で、今回が札響2回目の演奏だという。

 これは、アレグロオスティナートではなく、伊福部節を堪能する曲。演奏はバランスもよく、楽しめた。

 メインは、シンフォニアタプカーラ。伊福部の代表曲にして、名演も多い。私は、実演を観るのは初めてだったが、たくさんの演奏をCDで何度も聞いているので、「日本狂詩曲」ほど大きな感激はなかった。

 金管楽器にとっては、難曲の部類に入るのだと思う。それでも、1楽章はいいつくりをしていたし、3楽章も理性的な演奏で楽しめた。けれど、やっぱり、フォルテで鳴らしてほしいところが物足りなかったり、ところどころバランスが崩れたりして、ブラボーというほどでもなかった。

 ただ、録音を聴けばまた違った感想になるかもしれない。

 

 これで、また、私の夢がかなった。

 伊福部の曲では、あとは「ピアノと管弦楽の協奏曲風交響曲」「サロメ」「ラウダコンチェルダータ」を実演で聞きたい。

 とくに、「ピアノ」は第2次世界大戦の最中の作曲で、当時の最先端の演奏技法や作曲法が駆使されている、正真正銘の最先端の現代音楽なのだ。それを、極東の山奥の林務官が作っていたというエピソードだけでも痛快なことだ。

 インターネットがなくても、当時の最先端の情報を集めることができたということでもあり、楽譜さえあれば音楽は研究できるということなのだ。

 

 伊福部のスコアは「交響譚詩」「バイオリン協奏曲1番」「日本組曲」を持っている。どれも、出版譜だから、難なく手に入る。

 私はそのほかのスコア、なかでも「日本狂詩曲」と「シンフォニアタプカーラ」のスコアが欲しくてネットで探しているだが、出版されていないようで、まだ手に入っていない。けれど、そのうちどこかで出版されるのではないかと思ってもいる。

 

 演奏したことがあるのは、「ゴジラ」と「日本組曲」。

 「日本組曲」はアナリーゼして、その独特の和声に感嘆した。これが19歳の処女作というのだから、言葉にならない。

 管弦楽版を吹奏楽にアレンジして演奏してみたけど、思ったほどならなかった。これは、もともと、伊福部のオーケストレーションはアマチュアには鳴らないようにつくられているのか、アレンジがおかしかったのか、演奏が下手だったのか、どれかはわからない。

 ただ、ゴジラマーチは演奏者も楽しく吹いていて、鳴りもよくて、気分はよかった。