「歌のある生活」28「音楽」の歌その15

 

 前回の続きです。前回は、「メロディ」を隠喩とした斬新な歌を三首紹介しました。

 ただし、石田比呂志も杉﨑恒夫も、その曲を知っていれば、その隠喩の効果がわかりますが、曲を知らなければ、さっぱりこの作品を鑑賞できないという残念さがあります。そこが、大きなマイナスといえます。

 杉﨑のモーツァルトなど、私は相当に面白い歌だと思うのですが、モーツァルトの四〇番を知らない人には、どう説明してもその面白さはわかってくれないでしょう。

 じゃあ、ほかに「メロディ」を詠う方法はないだろうか。

 短歌にはまだまだ斬新な詠い方をした作品があります。その一つとして、一首の中に、「メロディ」をそのまま詠むというのがあります。

 さて、「メロディ」をそのまま詠むとは、一体どういうことでしょうか。杉﨑の次の歌をみてみましょう。

 

 街路樹の木の葉ふるときソラシドレ鳥刺の笛がきこえませんか  『食卓の音楽』

 

 そうです、メロディを音階にして歌の中に、入れてしまえばいいのです。ここでは、三句目の「ソラシドレ」の音階がそうです。音階を詠えば、そこにメロディが鳴るわけです。アイディア勝負の一首といえるでしょう。そして、このアイディアのすぐれているのは、音階を三句目にもってきたことで、「ソラシドレ」が八分音符五個のつながりで、そのあとに、一拍半の休符がついている四分の四拍子の一小節である、ということが、読めばわかるという仕組みになっているという点です。(と、ここまで書いてみましたが、多分、チンプンカンプンという人が大多数だと思います。文章で音楽を説明するのが、こんなにもわかりにくいとは残念です)。

 ただ、このままでも十分楽しいのですが、下句にある「鳥刺の笛」から、この「ソラシドレ」の旋律は、モーツァルト魔笛」のパパゲーノのアリアだということがわかります。けど、そんなことわからなくても、この歌のすばらしさは、十分に理解できると私は思います。

 「メロディ」の歌をもう少し。音階を詠ってみたけど、音階が読めない人には、やはり鑑賞できない。じゃあ、いっそのこと、流行歌の歌詞を一首に詠んじゃおう、だったらメロディが鳴り出すだろう、という発想の歌をみていきましょう。

 

鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」 斎藤茂吉『寒雲』

 

 茂吉を出しました。これが、流行歌を詠んだはじめての短歌かもしれません。当時の流行歌を口ずさみながら、ネズミの巣を片付けた、というただそれだけの歌です。『寒雲』は昭和十五年出版。一首にある流行歌「ああそれなのに」は、サトーハチロー作詞で昭和十一年リリース。調べてみると、この曲は大ヒットしたということですので、おそらく茂吉も口ずさんでいたことでしょう。

 この「ああそれなのに」という流行歌、今では、知らない人がほとんどでしょうが、当時は誰もがみんな知っていたのでしょう。ですので、この作品の下句は、誰もがフシをつけて歌ったに違いがありません。そう考えると、何というか、ちょっと微笑ましい感じもします。これもアイディア勝負の一首といってもいいかもしれません。

 次回も、そんな流行歌の歌詞を一首に挿入した作品を鑑賞します。

 

『かぎろひ』2018年1月号所収