カバレフスキーのこと
春である。
春にあう音楽はなんだろう。
人によっていろいろだろうが、私の場合は、カバレフスキーだ。彼の音楽は、雪解けの春先にぴったり合うと思うのだが、今のところ賛同する人に出会ったことはない。
数年前、春にカバレフスキーを聴く、という内容の短歌を詠んだことがあるけど、共感性は低いだろうと思って、ストラビンスキーに代えたことがある。
それはともかくドミトリー・カバレフスキー。20世紀ソビエトの作曲家だ。ショスタコービッチとは大体同年代だけど、カバレフスキーは彼よりもずっと陽性の印象があるかもしれない。
それは組曲「道化師」によるところが大きいだろう。あの単純明快な音楽が、第二次世界大戦時の1939年の作品というのも意外な感じだ。ストラビンスキーの「春の祭典」よりもずっと後のことだ。
カバレフスキーは、そんな単純明快な子供向けのわかりやすい音楽の作曲家と思われがちだけど、それだけではない。
交響曲も4つつくっていて、なかなかの完成度だと思う。
交響曲第1番は、1932年、カバレフスキー28歳のとき。けれど、なかなか堂々として、オーケストレーションもしっかりしている。2楽章で20分程度でおわる。
第一楽章は、かなり自由なソナタ形式。というか、狂詩曲に近い。私が聴いたところでは、第3主題まである。おおきな展開はせず、再現もない。バーっと鳴らしておわる。旋律は明快ながら、和声がプロコフィエフばりの不協和で実に面白い。わかりやすい旋律ゆえに、革命歌か何かからの引用なのかも知れないが、残念ながら、いかんせん資料がないので、私にはわからない。
第2楽章が終楽章。ロンド形式。行進曲のAテーマがぐいぐいいく。Bテーマも勇ましい。これが、後半、長調に転調して、ほかのテーマとまじりあってハナバナしく曲をおえる。革命の勝利の進軍なのかもしれないが、私にはわからない。
とにかく、コンパクトなシンフォニーで聴けばすっきりする。ああ、春だなあと思う。
続いて第2番。こちらは3楽章形式で30分くらい。
第一楽章は、短めの楽章ながら、きっちりとしたソナタ形式。旋律も明快。2つの主題を提示したあと、すぐに展開部に入る。アレグロでぐいぐいおす。ちゃんとコーダまであって、コンパクトな楽章。カバレフスキー全開、アレグロとフォルテでオケをがんがん鳴らすのであった。
第二楽章はラルゴ。じわじわと盛り上げていって、ショスタコービッチばりの慟哭となる。
第3楽章が終楽章。ロンド形式。8分の6拍子と思われる、軽快な行進曲から、だんだんと盛り上がって、最後は恐らくプレストで終わる。と、いってもいかんせんスコアがないし、資料もないから違うかもしれん。
旋律は軽快なんだけど、オーケストレーションが厚塗りでゴテゴテしていて、そこが実に面白い。そんなに複雑なことはやっていないとは思うけど、とにかく和声がヘンテコで速いテンポで低音が疾走したり、スネアがフォルテで小刻みにリズムを刻んだりするので、おかしな効果をあげている。洗練されたオーケストレーションの対極みたいな感じ。
第1第2交響曲とも、なかなかの作品だと思うし、特に、第2交響曲なんて、そこそこ構成もしっかりしているし、聴き応えもあるはずだけど、なにぶんディスクがないし、実演にも触れたことがない。
とにかく旋律が骨太でわかりやすいから、単純に聴いて楽しめると思うのだけど、残念である。
そういうわけで、カバレフスキーは、20世紀現代音楽とソビエト社会主義リアリズムのいちばんいい形での融合、みたいな感じで、ここのところずっと聴いている。
私が持っているのは、チェグナヴァリアン指揮アルメニアフィル。これしかない。
しかし、これが実に鳴りの悪い録音。アルメニアフィルって、こんなに鳴らんかったっけ、って思うくらい。
もっともっと演奏されて録音されてほしい作品だ。
現役盤は、これか。
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リスペクト・ブックス
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『NHK短歌』2016年12月号所収
「歌のある生活」22「音楽」の歌その9
前回の続きです。塚本の歌をもう一首とりあげましょう。
春雪にこごえし鳥らこゑあはす逝ける皇女のためのパヴァーヌ
塚本邦雄『水葬物語』
フランスの作曲家ラヴェルの小品が詠われています。下句の「逝ける皇女のためのパヴァーヌ」です。ただし、邦題は「逝ける王女のためのパヴァーヌ」が一般的です。「皇女」という邦訳は、塚本のオリジナルな表現です。
けど、もともと曲名からして詩的ですね。王女って誰のことだろう、誰の死ためのパヴァーヌ(古い宮廷舞曲の一種です)なのだろう、なんていろいろ空想がふくらみますが、一応、架空の王女という設定になっています。つまり「逝ける王女」という詩的な言葉で音楽のイメージをふくらませてね、というわけです。そして、塚本はそれを更に一ひねりして、「逝ける皇女」としたわけです。
で、歌の鑑賞なのですが、私は、上句に引っかかる。「春雪にこごえし鳥らこゑあはす」様子(あるいは、さえずりの声)と、ラヴェルのパヴァーヌが、まったく合わないのです。おたがい邪魔しあっているという感じです。凍えて鳴いている鳥のさえずりが何でゆったりとした舞曲になるのか、あるいは、亡き王女をしのぶ優雅な曲を導くのか、これはどう考えてもヘンなわけです。
そこで、これはラヴェルの音楽とはまったく関係のないところで一首が構成されている、と考えます。つまり、この歌を読んでラヴェルが聴こえてくるとおかしなことになる、もっといえば、鑑賞の妨げになる。
だから塚本はあえて「王女」を「皇女」に変えることで、音楽を鳴らすんじゃなくて、純粋にテキストとして解釈してね、としたんじゃないか、というのが私の読みです。
純粋にテキストの解釈、すなわち、ここでは上句と下句の意味の取り合わせを鑑賞するというのが、この歌の解釈なのだと思います。
森うごく予兆すらなく冬空へ少女が弾けるショパン〈革命〉
西勝洋一『未完の葡萄』
これは一首すべてが隠喩のような作品です。「森」は何かの隠喩でしょう。「冬空」「少女」も何かの喩として読めるでしょう。そして、結句に「ショパン〈革命〉」。ここで、ああ、これは革命を求める歌だったのか、と謎解き風な読み方もできなくはありませんが、私には、そうした読みはやや直截と思います。「革命」もまた何かの隠喩として読むほうが、一首に広がりが生まれるでしょう。
それはともかく、結句の「革命」。ショパンのピアノ曲ですが、読者は、どんな曲か知らなくてもいい。音楽じゃなくて、「革命」という題名の意味がこの歌では決定的に重要になるわけです。
例えば、結句が「革命」ではなく「雨だれ」や「仔犬のワルツ」ならどうでしょう。当然ながら、おかしなことになるわけです。
あるいは、結句が「ショパン〈革命〉」ではなく、「ショスタコービッチ〈革命〉」でも一首は成立するでしょう(字余りですが)。
つまり、この歌は「革命」(的なもの)が主題なのだけど、直截に歌っても理屈にしかならないので、森や冬空や少女やショパンなんかを配置して短歌的叙情性を醸し出したというわけです。
いかがでしょう。読者の私たちは、たとえショパン「革命」というピアノ曲を頭のなかで鳴らすことができなくても、この歌の主題を理解し、短歌的叙情性を十分に味わえるのではないかと思います。
「かぎろひ」1月号所収
「歌のある生活」21「音楽」の歌その8
前々回、前回と「その音楽を知っていてもいいけれど、知らなくても鑑賞できる作品」を皆さんと鑑賞していますが、今回からは、そのなかから「意味」を楽しむ歌を取り上げます。「意味」を楽しむとはどういうことか。理屈はあとにして、まずは作品を鑑賞することにしましょう。渡辺松男の作品です。
ジョン・ケージ「四分三十三秒」のすずしさよ茸すぱすぱと伸ぶ 『泡宇宙の蛙』
ジョン・ケージはアメリカの現代作曲家。「四分三十三秒」というのは、そのケージによる実験音楽の題名です。ずいぶんとヘンテコな題名ですが、それはさておき、この実験音楽は、これまでの音楽芸術をひっくり返すような、まさしくパラダイム転換をなす作品であり、そもそも音楽とは何か、音とは何か、を問う哲学的な作品でもありました。
しかし、渡辺の歌は、そんな深遠なことを知る必要はありません。ずーっと浅いところで「へえ、こんな題名の曲があるんだ、変わってるねー」程度でじゅうぶんに鑑賞ができます。ですので「茸すぱすぱと伸ぶ」という、すっとぼけたのが下句についているのです。(ただし、ケージと茸は深い関係があるのですが、そんなこと知らなくてもこの歌の鑑賞は可能です)。つまり、この歌は「四分三十三秒」というヘンテコな題名があって、それに呼応するかのようなヘンテコな下句をくっつけた面白さを鑑賞するわけです。ヘタにこの音楽は哲学的である、なんていう知識があると、逆にこの歌の鑑賞の妨げになる感じもします。
これが私のいう「意味」を楽しむ歌というものです。「四分三十三秒」という音楽は知らないけど、そのヘンテコな題名から楽しめる、というわけです。こうした「意味」を楽しむ歌は、塚本邦雄の作品に多くあります。
「火の鳥」 終る頃に入り来て北狄のごとし雪まみれの青年は 『日本人靈歌』
塚本なので、解説がめんどくさいのですが、まず「火の鳥」。これは、手塚治虫のアニメではなくて、ソビエトの作曲家ストラヴィンスキーの近代バレエ。内容は、ロシア民話に拠っている、という程度のことを知っておくと鑑賞の助けになるでしょう。その演目の終わる頃に「北狄のごとし雪まみれの青年」が会場に入ってきたというわけです。ここで「火の鳥」と「北狄」が対応します。ロシア民話と異民族、火と雪、鳥とケモノ偏、というあたりでしょうか。
あるいは、「火の鳥」をソビエト国家の換喩として読んで(火から共産党の赤を連想できなくもない)、「火の鳥」 終る頃をロシア革命の成就と解釈し、その後に、共産主義思想とは異なる政治思想が雪まみれでやってきたと読むこともできるでしょう(そうやって読んでいる人が他にいるのかは知りませんが)。
そういうわけで、この歌、「火の鳥」というバレエ音楽について、知識としてある程度のことは知らないと解釈は難しいのですが、ただし、音楽自体は知らなくてもいい。つまり、どんな曲か聴いたことがなくても、作品の鑑賞ができるのです。
もちろん、「火の鳥」を聴いたことのある人なら、終曲のフィナーレの響きを頭のなかで鳴らしてもいいでしょう。しかし、この作品は「火の鳥」の音楽と作品のシンクロを狙っているわけではない。そうではなく、「火の鳥」の終る頃という意味解釈、すなわち、先ほど述べたロシア革命の終わり、といったような喩的な意味解釈が、非常に重要なわけです。
「かぎろひ」11月号所収
「歌のある生活」20「音楽」の歌その7
前回の続きです。「音(おん)を楽しむ歌」の二回目です。音楽を題材にした作品のなかで、「その音楽を知っていてもいいけれど、知らなくても鑑賞できる作品」というのがありますよ、という話でした。
プロコフィエフの音符を咽喉につまらせた感じだらうか三十歳は
荻原裕幸『世紀末くん!』
この歌、私は秀歌だと思います。
プロコフィエフは、二十世紀を代表するソビエトの作曲家。ただ、代表曲は、となると、ちょっと答えが難しい。「ピーターと狼」あたりが、もっとも有名でしょうか。実は、テレビ番組やCMのBGMでプロコフィエフの音楽はよく流れています。けど、ああ、このBGMはプロコフィエフの曲だ、とわかる人は少ないんじゃないかと思います。
彼の音楽の特徴は、というと、ゲンダイオンガク特有の、不協和音がガンガン鳴る曲だったり、打楽器がドカンドカン響く曲だったりという感じです。また、ピアノ曲はというと、叙情的というよりは、超絶技巧のオンパレードみたいな感じで、ピアニストはまるで曲芸のように弾くのを競っているかのようです。ですので、音符の数は多い。楽譜を見ると、音符が五線譜にうじゃうじゃ這い回っている感じです。
そうすると「プロコフィエフの音符を咽喉につまらせた感じ」というのは、ピアノ曲を連想すると、ピンとくる表現といえます。
あるいは、プロコフィエフの音楽は、転調が特徴的でもあります。普通、こんなところで転調しないだろう、というところで、コロッと調が変わる。そんなところも、ノドにつまる感じは出ています。
そういうわけで、この歌のノドにつまるという身体感覚からくる表現は、面白いところを持ってきたなあ、と私は思うわけです。
と、ここまで解説しましたが、恐らくプロコフィエフの曲を知らない人にとっては、まったくピンときていないと思います。やっぱり曲を知らんと、この短歌は鑑賞できないじゃないか、と。
いや、そんなことはない、というのが私の主張です。この歌は、プロコフィエフを知っているにこしたことはないが、知らなくてもじゅうぶん味わえると思います。
すなわち、「プロコフィエフ」という「音(おん)」を楽しむのです。
プロコフィエフという名前は、ちょっと日本人には発音しにくい、日本人の感覚にはない音の名前といえます。このヘンテコリンで言いにくい名前の響きもノドにつまる感じがします。ですので、そういうヘンテコな名前の楽しさ、もし、名前を知らなくても、音符とあるから、外国の音楽家だろうと見当はつく、その名前とノドにつまる感じが、うまく呼応している、というあたりで、この歌の鑑賞はできると思います。
と、ここまで理解を進めたうえで、あとは読者各自が三十歳の感慨を味わえばいいのではないか、というのが、私のこの歌の解釈であります。
繰り返しになりますが、プロコフィエフというヘンテコな音(おん)の作曲家を題材に持ってきたところに、この作品の良さがあるのだと考えます。
今回は、この一首で終わってしまいました。今回で「音(おん)を楽しむ歌」はおしまいにします。次回からは、「意味を楽しむ歌」を見ていきます。
「かぎろひ」9月号所収
「歌のある生活」19「音楽」の歌その6
今回からは、音楽を題材にした歌のなかで、「その音楽を知っていてもいいけれど、知らなくても鑑賞できる歌」と、いう作品群をみていきます。
これらは、二つの種類に分かれます。
「音(おん)を楽しむ歌」と、「意味を楽しむ歌」の二種類です。
と、いってもさっぱりピンとこないと思いますので、実際の作品をみていくことにしましょう。まずは、「音(おん)を楽しむ歌」からです。
バッハに登場してもらいます。
雨に弾く一途なこころ連弾のバッハ爆発寸前の恋
福島泰樹『エチカ・一九六九年以降』
私のいう「音を楽しむ歌」というのが、なんとなくわかるでしょうか。この歌は「バッハ」という音の響きを単純に楽しむ歌といえます。別に、バッハがドイツバロック時代の作曲家である、なんてことを知っている必要はないし、ましてや、バッハの連弾曲を知っている必要もない。学校の音楽室に必ず飾られているであろう、彼の肖像画あたりがイメージできるとより楽しいかもしれませんが、別にイメージできなくてもいい。この歌は、「爆発寸前の恋」に、韻がいいというので、バッハを持ってきたに過ぎないわけです。また、「連弾」は爆弾のダンの字ですので、「連弾のバッハ」の「連弾」と「爆発」は、いわゆる縁語といえるでしょう。ですので、サラッと詠っているようで、なかなか技巧的ともいえます。で、縁語でつながっているということと、韻がいいというので「バッハ」と「爆発」をつなげたわけです。
もう一首、真中朋久の歌を紹介します。
口笛はいつしかワルシャワ労働歌階下の主婦が水を使ひつつ 『エウラキロン』
これは、なかなか面白い歌です。
まず、ワルシャワ労働歌。これ、ある時代の労働運動に関係していた人なら、わりとなじみのある歌なのでしょう。平成の世で聴けば、あの頃の郷愁をさそうというような。しかし、誰もが、ワルシャワ労働歌ときいて、郷愁をさそうわけではありませんね。今では、ピンとこない人の方が大多数でしょう。恐らく作者は、ある程度の郷愁があり、歌に詠むことで、ある程度の効果を期待したとは思われますが、すべての読者にそれを期待させるなんてのは、土台ムリな話です。
そういうわけで、この労働歌、今日の日本で知らなくて当たり前です。また、いま言ったように、ワルシャワ労働歌というのが、日本のある時期、労働運動の歌として流行した、という背景を理解する必要もありません。私達は、この歌が、どういうものかを知らなくてもいいのです。
じゃあ、どう鑑賞するか。と、いうと、「ワルシャワロードーカ」という音の響きが面白いなあ、と鑑賞すればいいのです。あるいは、「口笛はいつしかワルシャワ労働歌階下(かいか)の主婦が」までの、文節単位での後韻を中心としたA音のしつこさを楽しむ歌なのです。あるいは、ワルシャワのシャワという音が水を使うシャワシャワの擬音と呼応しているので、「ワルシャワ」と「水」が縁語になっているととらえてもいいでしょう。あるいは、「ワルシャワ」から「シャワー」を連想し、「シャワー」から「水」を連想するというのもアリだと思います。
つまり、この歌は、いろんな角度から音(おん)を楽しむことのできる歌といえるのです。
『かぎろひ』2016年7月号 所収
「歌のある生活」18「音楽」の歌その5
前回、小池光を悪く言いましたので、今回は、こんな素敵な作品を紹介しましょう。
サミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージォ」七分の間(ま)の虹きえるまで
小池光『時のめぐりに』
アメリカの作曲家バーバーの代表作「弦楽のためのアダージォ」の切ない響きと、雨上がりの空にかかる虹の色彩が頭のなかでシンクロして、なんとも美しい作品となっています。
けど、どうでしょう。やはり「弦楽のためのアダージォ」を知らない人にとっては、この作品の美しさを十全に感じることはできないのではないでしょうか。私は、この曲を知っていますので、頭の中で弦楽の響きと虹の輝きがシンクロします。なんて素敵な歌なんだろうと、深く鑑賞することができます。しかし、バーバーのこの曲を知らない人にとっては、そもそも頭のなかで鳴らすことはできないわけで、虹とのシンクロも起きることはないわけです。そのように考えると、この作品は読者を限定してしまうものとなります。つまり、バーバーのこの曲を知らなければ、この歌は味わいようがない、ということになってしまうのではないでしょうか。
次の歌もそうです。
厳寒にはく息おもうショスタコービッチ「パービ・ヤール」は夜すすりなく
小高賢『太郎坂』
もう、バーバーの名曲どころではありません。ショスタコービッチの交響曲のなかでもとびきりマイナーな曲が題材となっています。この曲、コアなクラシックファンじゃないと、聴いたことがないでしょう。だいたい、曲のタイトルだって知らない人が大多数でしょう。
ここまでマイナーな曲になると、もうショスタコービッチからの連想で、ソビエトの風土だから厳寒、とか、ソビエトの体制批判だから夜すすりなく、とか、音楽から離れて解釈するしかなくなるわけです。
なお、細かいことを言えば、「パービ・ヤール」は誤植です。ロシア語の発音からして「パ」と表記することはできません。カタカナ表記するなら「バ」が一般的です。すなわち「バービ・ヤール」です。
今回は、音楽を題材にした二つの作品を取り上げましたが、実際のところ、短歌作品の題材になっている多くは、このような構成の作品といえます。すなわち、短歌作品に取り上げられた曲を知らないと、その作品の味わいが半減する、もしくは、味わうことができない、というものです。音楽が読者の頭の中で鳴らなければ、鑑賞のしようがない、というわけです。こうした作品群、私はやっぱり問題アリだなあ、と思います。
しかし…。音楽を題材にしたすべての短歌作品で、その題材にした音楽が鳴っていなくてはいけないかというと、実はそんなこともないのです。音楽が鳴っていてもいいけど、鳴らなくても鑑賞ができる歌、というのもあるのです。
つまり、今回取り上げた二つの作品のように「弦楽のためのアダージォ」や「バービ・ヤール」を知らないと味わえない、のではなく、知っているにこしたことはないが、知らなくても味わうことができる歌というのがあるのです。
私は、こうした歌は、歌として成立していると考えます。次回からは、題材の曲を知らなくても、短歌作品として成立している作品群、というものをみていきましょう。
「かぎろひ」2016年5月号所収