短歌の<私性>と<リアル>⑤

 短歌の<私性>と<リアル>について、思い出したことがある。

 小池光『思川の岸辺』(2015年)にある「砂糖パン」という一連である。

 4首掲出する。

 

一枚の食パンに白い砂糖のせ食べたことあり志野二歳夏五歳のころ

自転車の前後に乗せて遠出して砂糖パン食べきかはゆかりにき

砂糖パンほんとおいしいと川のほとり草の上こゑを揃えて言ひき

おもひたちけふの昼餉に砂糖パンわれひとり食ひてなみだをこぼす

 

 一首目にある、二人の娘の名は、小池の実の娘の名である。もう、とっくに成人して、結婚、出産をされていることが歌集からわかる。と、いうように、この歌集は「作者」イコール「主体」という、「近代短歌」のフォーマットで編まれており、読者は、そのように読むことを暗黙のうちに強いられている状態にある。つまり、「作者」だの「主体」だの「話者」だの、小難しいこと考えずに、ここにあるのは、小池光の歌だ、そうやって読んで味わえ、と読者に迫っている、ということだ。

 そんな前提で、掲出した四首読んでみよう。

 主体である小池は、娘たちが小さかった頃に砂糖パンなるものを食べたことがあったなあと思い出す。自転車の前後に小さい娘を乗せて、川のほとりにいって、砂糖パンを食べたとき、二人の娘が声をそろえて「砂糖パンほんとおいしい」と言ったなあ、と。そして、そんなことがあった数十年後の今日、小池は、思いたって昼にひとりで砂糖パンを食べたら、涙がこぼれたのであった。

 という、一首単位でも連作としても非常に分かり易い内容となっていよう。

 そして、こうした歌の数々によって、この歌集は多くの読者の涙を誘ったらしい。当時の小池のインタビュー記事には、そんなことが書いてあるし、私の身近な妙齢の女性も、あの砂糖パンには泣けたわあ、と言っていた。

 もう少し、この歌集の背景を述べるならば、歌集には、妻に先立たれて(この妻の実名も、ちゃんと歌に詠んでいる)、独り身になった60代の小池の寂しさが切々と詠われている。そういうなかに、この連作がある。ついでにいえば、この歌集は、2016年2月に読売文学賞の詩歌俳句賞を受賞している。

 

 2016年当時、私は、この連作を読んで、あまりのベタな内容に呆れてしまった。

 自転車、川のほとり、そして砂糖パン。あまりにシチュエーションがベタなのだ。

 例えば、これが、小説世界だったらどうだろう。このエピソードだけを掌編にするなら、あまりにつくり事めいて白けてしまうんじゃないかしら。あるいは、映像作品だったらどうか。やはり、悲しみの戯画にしかならないと思う。砂糖パンなんて、いかにも貧乏ったらしくて、これでは泣けないし、逆に、白けた笑いを生み出すかもしれない。

 つまり、ベタすぎ、作り事すぎるのだ。今どきこんな話、小説なら即ボツ、映像でも画にはならないと思う。

 けど、短歌なら成立する。

 小説や映像だったらベタすぎて白けても、短歌なら「泣ける」のだ。

 これが、短歌の「私性」の揺るぎなさなのだ。

 この「私性」というのは、「作者」イコール「主体」という「私性」であり、この歌の主人公は作者の小池光で、その実体験が詠まれているんですよ、という「近代短歌」のお約束がそうさせている。登場人物が実名で出てくるし、そのうえ、妻の死というゆるぎない厳然たる事実があるから、これは、ホントのことだ、と読者は信じる。フィクションならヘタくそな舞台装置でも、短歌の世界ならホントのことだと信じちゃうから、しみじみと思うのである。装置としての歌集の作用である。

 けど、「泣ける」理由がそうした<リアリティ>にあることは分かったが、なぜ短歌は、安易に「近代短歌」のフォーマットである「作者=主体」という<私性>にこだわるのだろう。

 この疑問、2016年当時の私は分からなかった。どうしてだろう、と宙ぶらりんのままでそれ以上は分からなかった。

 けど、5年たって、ようやく分かった。疑問は氷解した。

 それは、短歌の読者が<リアリティ>を欲しているからなのだ。つまり、読者の側が、これは、「ホント」のことであって欲しいと願っているのだ。

 つまり、読者が、ああ、この歌の内容は「ホント」のことに違いないと確信しているから、存分に心が揺さぶられるのだと思う。これが、何かウソっぽいとほんの少しでも疑念を抱いたら、それはもう、歌の内容を信用しなくなる。

 こうした心象は、小説世界や映像世界を連想すればいいだろう。小説や映像は、いかにしてリアルに表現するかが至上といってもいいのではないか。そうすることによって、読者や観客がその世界に没入して心が揺さぶられるというわけだ。あるいは、映画や演劇の俳優の演技を例にあげてもいいだろう。巧い役者、下手な役者の違いは何か。といえば、いかに、その役をリアルに演じれるかどうかというのが、演技の旨い下手ということなんだろう。

 短歌では、そうした<リアリティ>が、すでに装置として出来上がっている。すなわち、先に述べた「近代短歌」のフォーマットがそれだ。その装置に読者は乗っかって、「ホント」のことに違いない、と確信しているのだ。

 けど、その確信はどこからくるのだろうか。あの砂糖パンのエピソードが、ホントかどうかなんて、結局、証明しようがないではないか。であれば、読者は、「近代短歌」のフォーマットに乗っかって、作者の人生の「ホント」のことだと、信じるしかないのだ。そういうわけで、この「近代短歌」に基づいた<私性>というのは、なんというか、<「ホント」信仰>みたいな感じが私にはする。

 歌集の「あとがき」読みも、結局はそういうことなのだろう。「あとがき」を読んで、作者の「ホント」を知って、一首を読みなおすというのは、一首の内容が作者の心のうちのどこら辺にあるのかを確認したいからなんだと思う。そういう作業をすることで、読者は安心したいんだろう。この歌の、「ホント」はどの程度なんだろう、みたいな感じか。けど、そんなこと、小説世界では考えにくい。そもそも小説はフィクションなんだから。いちいち、これは「ホント」かどうかなんて確認しながら読むことはない。けど、短歌は、完全なフィクションとして、つまり小説を読むように短歌が読まれないのは、この「近代短歌」のフォーマットが読者にとってものすごく強固なものだからなのだろう。

 それはともかく、今回の砂糖パンの一連のような、ばりばりの「作者」イコール「主体」といった「近代短歌」フォーマットで詠まれている作品群について、読者が、これは「ホント」のことに違いないと確信したいのは、結局のところ、<リアリティ>を欲しているからだということに尽きよう。で、「ホント」だから、安心して、その世界に没入して心を揺さぶってもらうのだ。

 だから、繰り返しになるが、「砂糖パン」のような、ベタな内容でさえ、それが「ホント」のことだ、と確信するから、「泣ける」のである。

 ただ、そうした「作者」イコール「主体」という「近代短歌」のフォーマットが、短歌という文芸ジャンルにとって、果たして良いことなのかどうかは、今の私には残念ながら分からない。あと、5年たったら分かるかもしれないが。

 

 

短歌の<私性>と<リアル>④

 前回、「作者」と「主体」の距離を近づけることによって、作品に<リアリティ>が生まれるのではないか、という論点を提出した。

 それは「主体」の行為というのは、「作者」の実体験、実録、ナマの記録、ホントの話、ノンフィクションに違いない、という読者側による錯覚によるものだろうとも主張した。

 読者が、そんな錯覚をするから、作品に<リアリティ>が生まれる、のだと。

 他方、作者からすると、読者がそんな錯覚をするように<リアリティ>のある作品を作るべく、「モノローグ体」といったような表現様式を試行しているわけだ。

 そして、短歌文芸がどうしてそこまでして<リアリティ>にこだわるのか、というと、それは「近代短歌」の写実の系譜によるものである、という主張をしたのだった。

 なので、短歌作品が<リアリティ>を追求するのは、仕方がないというか、短歌の伝統として、<リアリティ>にこだわるのが短歌文芸なのだ、としか現在のところは、いいようがない。もし、この追求をやめたら、それはもう短歌じゃなくて、別のジャンルの一行詩になる、ということも前回述べた。

 

 「作者」イコール「主体」として作品を読んでしまうこと、これは、読者側の錯覚だというのが、ここでの議論だ。

 ただし、このことに関して付け加えれば、短歌は一首単位ではなく、連作、歌集単位での読みというものもある。

 これが、短歌批評をややこしくしている。

 そのうえ、最近では、歌集の「あとがき」読みというのもあるようだ。

 歌集の最後の「あとがき」に書かれた、作者のプロフィールや作者の<想い>を読んで、再び作品へフィードバックして作品を捉えなおすという試みだ。

 けど、私にいわせれば、それもまた読者側の錯覚だと思う。「あとがき」のプロフィールや<想い>が本当だと、どうして言えようか。ウソかもしれないではないか。

 これも前に言ったことだけど、俵万智が不倫してようとしていまいと、その事実性によって俵万智の不倫をテーマにした短歌作品を評価するのは、おかしいではないか。それが、たとえ「あとがき」に<私は不倫をしています>と書こうが書かまいが、それによって作品の良し悪し、あるいは鑑賞の質が変わるのは、どうしたっておかしいだろう。

 それと同様に、「あとがき」に何が書かれてあろうとも、その書かれたことに触発されて、作品の読みが変化するのは、おかしなことだと私は思う。

 やはり、一首評は「作者」のプロフィールや「主体」の行為を批評の俎上に乗せないで、形式主義的に批評するべきだと思うし、他方、連作や歌集というのは、エッセイの一編として、あるいは、エッセイ集として読むべきだろうと思う。そして、これも繰り返しになるが、世の中で出版されているエッセイ集がすべて作者の身の回りの本当の出来事だなんて、ゆめゆめ思わない方がいい。エッセイ集に書かれてある内容なんて、作者が面白おかしく、本が売れるために創作したフィクションに違いないし、そもそも、売れっ子作家のエッセイ集自体ゴーストライター(もう少し良心的な書き方をすれば、その作家のアシスタント)が書いたものに違いないと私は勝手に思っている。なので、短歌の連作や歌集というのも、アシスタントが詠んだというつもりはないが、詠われている内容は、というとエッセイのように面白おかしく書かれていると思った方がいいだろう、というのが繰り返し言っている私の主張だ。

 

 さて、<リアリティ>について、話を進めよう。

 「作者」と「主体」の距離が近く、「話者」の存在がみえない方が、より<リアル>な作品になるのではないか、という議論をしていた。

 例えば、正岡子規の<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>に、私はリアリティを感じる。つまり、ホントっぽく感じる。

 それは、なぜか。というと、これまでの議論を踏まえるなら、「話者」の存在を出さなくても論理的に説明がつくからだ。「作者」は布団のなかで、この歌を記述している最中には、藤の花を見ていないかもしれないが、「主体」は、この歌の叙述どおりの状況を見ている。そのうえで、「話者」の存在をしいてあげるなら、「主体」と同じ視点で藤の花を見ている、ということになるが、とにかく、そんな「話者」の存在を出さなくても、この歌についての説明は論理的に可能だ。

 つまり、「話者」の存在が無くなった分だけ、「作者」と「主体」の距離が近づいているのだ。それは、ホントに正岡子規が病床で詠んだという情報がなくても、表現様式から<リアリティ>を感じるのだ。

 では、石川啄木は、どうだろう。

 

 東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる 

                           石川啄木『一握の砂』

 

 私は、この歌に次の2つの点から、<リアリティ>を感じない。どうにもウソくさいと思う。

 1つ目は、歌の内容から。悲しみを描写するのに、蟹と戯れている画はないよなあ、と思う。ずいぶんと大げさというか、蟹と遊ぶイジけた描写で同情を誘うなんてなあ、とも思う。悲しみのデフォルメといおうか、あまりに戯画化されているのだ。そこに、どうにもウソっぽさを感じてしまう。

 2つ目は、表現様式から。上句に注目したい。<東海の小島の磯の白砂に>の部分だ。ここは、<東海>という大きな構図から<白砂>のところへグーンとクローズアップしていく表現技法とされている。

 では、そのクローズアップの視点は、いったいどこにあるか。というと、これは、東海の空の上からの視点といえるだろう。イマドキのイメージなら、グーグルアースで、東海を映して、そのあとにグーンと画面がクローズアップして<われ>が蟹と遊んでいる姿が映し出されるというイメージだ。これを、100年も前にすでに、短歌で表現していた、ともいえそうである。

 では、その視点はだれの視点か。というと、これは「話者」の視点に他ならない。「作者」は机の上で記述している最中なので、グーグルアースのような東海上空には行けない。「主体」も、白浜で蟹と遊んでいる最中なので、ムリだ。そうなると、「話者」の視点を持ち出さないと論理的に説明ができない。

 そういうわけで、この歌は「作者」「話者」「主体」の3者が登場している分、「作者」と「主体」に距離が生まれているので、<リアリティ>を感じない、という主張は成り立ちそうである。

 啄木をもう一首。

 

 たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず

                           石川啄木『一握の砂』

 

 やはり、これも、歌の内容がウソくさい。いかにも、という画ではないか。啄木が母親を背負ったという事実はない、ということは研究によって実証されているようだが、そうした事実があろうとなからろうと、この歌からは<リアリティ>を感じない。

 ところで、この歌について、永田和宏は『近代秀歌』(岩波新書)で、次のように言う。

 

 あまりにも出来すぎた光景ゆえに、鼻白む向きも多いかもしれない。また、この歌では啄木の言いたいことがすべて詠われてしまっており、同業者としては、本当はこの一歩手前で表現を制御して欲しかったという気もする。(中略)

 しかし、現実になかったからといって、それが詩として欠陥になるかと言えば、それはまったくない。詩の真実は、現実にあったかどうかとは一対一で結びつけられるべきではない。あくまで読者が、そこに現実であっても、虚構であっても、作者の真なる思いを感じとれるかどうか、それが作品評価のすべてあると言いきってもいいだろう。

 遠く離れ、呼び寄せることもできないままに、母を思い、妻子を思う。(中略)その母を背負ったならば、年老いた母は、まことに存在感の希薄な軽さのなかにあるだろう。思うだけでも泣けてくる。そのような啄木の心情が、読者の心にすっと流れこんでくるならば、あるいは啄木のそこときの心情をそのままに受け入れるならば、この歌は虚構であってもリアリティという面では本物なのである。

(永田、前掲書)

 

 この文章、ずーっと読んでいって、私は、まったく永田と同意見で、うんうんと頷きながら読めるのだけど、終結部分「この歌は虚構であってもリアリティという面では本物なのである」という箇所だけは、どうにも分からない。そもそも歌なんて、虚構かホントかなんていう議論は、本Blogではとっくに解決した問題なので今さら蒸し返さないが、啄木のこの歌が<リアリティという面では本物なのである>というのは、ここまでの永田の論述から、どうしたらそういう結語になるのだろうか。

 どう考えたって、永田の言う<出来すぎた光景>なんてのは、「近代短歌」の<リアリティ>からは、ほど遠いものだと思うのだが。

短歌の<私性>と<リアル>③

 

 前回取り上げた作品は、これだ。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

                        田口綾子『かざぐるま』

 

 この作品は、現在口語短歌のモノローグで詠われている短歌の到達点であることは、前回、少し述べた。すなわち、口語で散文的な心のなかのつぶやきにもかかわらず、定型におさめてあり、屈折した調べながらも、<そうだね><くづだね>と対句的なリズムによって脚韻が整うことで歌としてまとまっている。他にも、一字空けと読点の違いや、旧かなによる「くづ」表記の効果など、この作品は、いろいろな分析が可能であろう。そうした形式主義的な批評が可能であるという点でも、この作品の短詩型文芸の批評に耐えうる完成度の高さがうかがえる。

 さて、このような<わたしの想い>のつぶやきで一首まるまる詠まれている叙述様式を「モノローグ体」と呼ぼう。前回取り上げた、今橋や脇川の作品は、「モノローグ体」の短歌の初期のものととらえていい。また、一首まるまるではなく、一首のなかで主体が「モノローグ」している作品というのも、現代口語短歌では、そこそこの割合で詠われていよう。

 では、作者側からみて、こうした「モノローグ体」の短歌で詠うメリットを考えてみたい。

 この田口の作品に顕著なように、こうした「モノローグ体」で短歌定型におさめるのは、今や、かなりの技術が必要になる。もう、「武装解除」した「棒立ち」の時代ではなくなった。<非常勤講師の~>の作品のような完成度が求められる。にもかかわらず、こうした「モノローグ体」で詠うメリットはどんなことがあるだろう。

 大きな理由としては、<わたしの想い>がダイレクトに叙述できるという点があるだろう。伝えたいことをそのまま伝えることができるというか、直球でずばり言いたいことを言い放つ、みたいな潔さというのを感じさせられよう。

 

 では、その<わたしの想い>とは、いったい誰の<わたし>の<想い>か。

 以前に本Blogで議論した<私性>についての議論を想起してほしい。

 短歌作品には3者の<わたし>がいたのであった。

 すなわち、

 作者の<わたし>

 話者の<わたし>

 主体の<わたし>の3者である。

 なので、<私性>を議論するときには、常に、この3者のなかの誰の<わたし>について議論しているのかを確認しなくてはいけない。

 じゃあ、取り上げた<非常勤講師~>の作品にある、<わたしの想い>というのは、誰の<わたし>の想いか。というと、それは「主体」の<わたし>ということになる。

 「主体」がモノローグしているのだ。

 そのモノローグを「作者」が叙述している、という体裁をとっている。と、ここまではいいだろう。

 では、「話者」の<わたし>はどこにいるだろうか。

 と、いうと、実はこの作品には「話者」は存在しないのである。つまり、「モノローグ体」で叙述された短歌作品は「話者」がいない。「作者」と「主体」しか存在しない様式といえる。

 多分、こういう様式は、散文ではありえないと思う。モノローグだけで小説世界を展開するのは無理じゃないか。星新一に代表されるショートショート程度のものならあるかもしれないが、それも、ちょっと自信がない。

 それはともかく、短歌の世界では、「話者」の存在しない様式がこの「モノローグ体」では確認できる。これについて、例えば、次のように改作してみると、わかりやすい。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね   原作

非常勤講師のままで結婚もせずに 私はくづだと思ふ       改作1

 

 改作になると、「話者」の存在が生まれてきているのがわかるだろうか。

 いまひとつ分からない、というのなら、いっそのこと散文にしてしまおう。これなら、イヤでもわかるだろう。こんな感じだ。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね。と、私は思った。

                                改作2 

 

 この改作2で言えば、はじめのセンテンスが、主人公のモノローグ。そして、次のセンテンスが「話者」の語り、ということになる。

 同様に、改作1の短歌作品でいえば、<私はくづだと思ふ>の部分が「話者」の語りということだ。すくなくとも、<私はくづだと思ふ>とモノローグする人はいない。そうなると、ここの叙述は「主体」以外の語り、すなわち「話者」の登場ということになる。

 この「主体」「話者」「作者」の3者の区別の理解ができたであろうか。「モノローグ体」の短歌では、「話者」が存在しない。すなわち「主体」と「作者」の2者しかいない様式なのだ。では、そうした様式にすることで、作品にどんなメリットが生まれるか。

 と、いうと、それは、先に言ったように、<わたしの想い>すなわち「主体」の想いがダイレクトに伝わるという効果があろう。ダイレクトに伝わるから、一首としての衝撃というか、言葉に強度が生まれよう。掲出歌でいえば、「くづ」という言葉から読者はかなりの衝撃を受けるはずだ。それは、モノローグで詠われているというだけではなく、一首まるまる「モノローグ体」で詠われているという、作品の構成によるところが大きい。

 「話者」を介在させないことで、<わたしの想い>すなわち「主体」の想いがダイレクトに伝わる。そうした<わたしの想い>をダイレクトに伝えるために、すなわち「話者」を介在させないためには、どのような様式にすればいいか、といろいろと試行した帰結が「モノローグ体」の発見、ということもいえるのではないか。これが、今橋や脇川の「棒立ち」から数十年の間、試行されてきた現代口語短歌のひとつの到達である、という議論も成り立つのではないかと思われる。

 もう一つ。

 このような、「話者」が存在しない「作者」と「主体」だけの短歌作品というのは、「作者」と「主体」の距離が近くなる、ということも論点としてあげておこう。距離が近づくということは、「作者」と「主体」がイコールである、同一人物である、と読者が錯覚してしまいがちになるということだ。

 掲出歌でいえば、「主体」のモノローグは、「作者」の肉声ではないか、と読者に錯覚をさせるという効果が生まれるのである。作者である田口綾子という女性が、非常勤講師で、独身で、自分のことを「くず」だと卑下している、と読者に錯覚させてしまうのである。

 この点については、本Blogによる議論で、「作者」「話者」「主体」の3者の存在を提出した時点で、「作者」と「主体」が別人であることは確認されているから、今さら議論を蒸し返すつもりはないが、この一首だけを取り上げて批評するのに、「作者」が本当に、非常勤講師で、独身であるかどうかについて議論の俎上にあげる必要のないことは、改めて指摘しておこう。

 ここで議論するべき論点は、「作者」イコール「主体」であると、読者に錯覚させるという様式上の効果についてだ。

 つまり、そのように読者に錯覚させるメリットはあるのか、ということだ。

 と、いうと、やはり作品の<リアリティ>ということに落ち着くのではないか。

 <リアリティ>というのは、要は、本当っぽい、ということだ。この本当っぽい、というのは読者からのリアクションだ。作品を読んで、ああ、これは本当のことに違いない、と思うことが作品の<リアリティ>であり、作者からすれば、いかに読者に、本当っぽく思わせるように叙述するか、ということが歌作の技量ということになろう。

 そうした、<リアリティ>の追求の試行のなかで、現代口語短歌は、ひとつの技法として「モノローグ体」という表現様式を生み出したのではないか。

 じゃあ、どうして、「作者」と「主体」の距離が近づくと、あるいは、「作者」イコール「主体」に違いないと読者が錯覚すると、その作品に<リアリティ>が生まれるのだろう。

 と、いうと、一つには、それは「近代短歌」が脈々と受け継いできた、アララギ系の写生の系譜のせいなんだろうと思う。

 乱暴にいえば、子規の<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>に代表される、作者の見たまま、想ったままを歌に詠むのがいい短歌だ、という「近代短歌」の呪縛が、現代口語短歌でも受け継がれているからなんだと思う。

 この「近代短歌」の系譜に現代口語短歌も存在している、ということが、まさしく文芸ジャンルとしての短歌の伝統とでもいうものであり、文芸ジャンルとしての短歌の歴史、すなわち短歌史というものである。なので、こうした伝統や歴史を無かったことにして、全然違う短歌を作る、というのは相当難しい作業になる。それは、もう短歌ではなく、短歌によく似た別の一行詩といったようなものになってしまうかもしれない。短歌史のなかでは、前衛短歌運動がそうだったといえなくもないが、これはまだまだ議論が必要なところだろう。短歌史の議論で、前衛短歌の位置づけは、まだ定まっていないだろうというのが私の現時点での認識だ。

 それはともかく、現代口語短歌も「近代短歌」の写実の系譜に乗っかって、短歌の新しい表現様式を更新しようとしている、というのが実情だ。その更新のひとつとして、<リアリティ>を追求する様式の試行というのがあり、その実例として、今回議論している「モノローグ体」の様式化というのをあげることができるだろう。

 

 

短歌の<私性>と<リアル>②

 前回とりあげた作品はこれだ。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                        今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                        脇川飛鳥

 

 これら作品について、次のような論点を提出した。

 すなわち、

 なぜ、作者は、こうしたモノローグである<わたしの想い>を、あえて原初的なままで作品として提出しているのか。

 と、いう点だ。

 

 短歌作品である以上、いかに韻律を整えるかは重要である。定型を目指すことは当然として、定型におさまらなくとも、定型意識というか、定型におさめられるようにする努力の痕跡が作品にあることが定型詩には必要だ。短歌と一行詩の違いは、当然ながら、定型意識と、そこから必然的に沸き立つ韻律感である。これが感じられれば、短歌として完成度は高まるし、韻律に乏しい歌は、どうしたって評価はされない。

 もう一つ、短歌作品である以上、いかに統辞や修辞を施すかという点も重要だ。短詩型であればこそ、その少ない言葉に張り付いているコノテーションから詩情を感じ取り、言葉と言葉をつなげる統辞の妙や多種多様な修辞技法から、歌の情感を味わい尽くすというのが、短詩型文芸である短歌鑑賞の醍醐味であろう。

 と、短歌作品の歌作についての重要点を2点あげたが、提出した今橋と脇川の短歌作品からは、残念ながら、韻詩文芸である短歌が短歌として拠って立つ必然性が感じられない。

 と、いうより、あえてこの2つを捨て去っているかのようである。韻律も修辞も意識せず、ただ<わたしの想い>をそのまま書き連ねたような体裁をとっている。定型と格闘した痕跡はない。というより、あえてそこの痕跡を消しているかのようだ。

 つまり、あえて定型への格闘の痕跡をこのさず、また、あえて統辞や修辞を施さず、そのまま即詠のような体裁をとっているのだ。

 では、なぜ、そうした原初的というか短歌の原型のようなものをあえて完成品として提出しているのだろうか。

 

 この問題を考えるときに、<リアリティ>というキーワードで考えてみたい。

 歌人にとって<リアリティ>とは何だろう。つまり、リアルな<わたしの想い>を表現するには、どうやって歌を詠ったらいいのだろう。

 おそらく、パッと心に浮かぶ<わたしの想い>というのは、普段使っている日常の言葉だろう。掲出歌でいえば、<わたしをみつけてくれてありがとう>とか<嫁に行きたくてたまらん>とかといったものだけど、普通は、そうした普段使う言葉で<わたしの想い>を言葉にするだろう。日常的に文語を使った言語生活をしていない以上、文語体ということにはならないだろう。そして、そうした日常の言葉、すなわち口語というのは、どう考えたって定型にはなっていないはずである。自由な散文型の<わたしの想い>のはずだ。

 つまり、リアルな<わたしの想い>を言葉にするのなら、それは口語で自由に呟かれているものになる。であるならば、そもそもそれは、定型あろうはずがないし、統辞や修辞といった詩的な修飾も施されているわけがない。

 そして、そうした<わたしの想い>をそのまま作品とした、という体裁ととっているのが、今橋や脇川の作品、といえるのではないか。

 

 であるから、提出した問題、すなわち、作者は、こうしたモノローグである<わたしの想い>を、なぜ、あえて原初的なままで作品として提出しているのか、の答えとしては、

 

 <わたしの想い>をリアルに表現しようとしたら、必然的に短歌的な韻律や修辞を捨て去ることになった、と、いうような体裁の作品にしたため

 

 ということになるだろう。

 

 では、このような作品は、短歌作品としてどのように評価できるであろう。つまり、短歌作品として良いか良くないか。

 と、いうと、私は否定的である。

 やはり、こうした作品は短歌というには私は手放しでみとめられない。

 韻詩文芸である以上、定型意識のないものは韻詩とはいえないのではないか、というのが、私の意見である。

 じゃあ、短歌に定型がある以上、リアルな<わたしの想い>というのを、短歌で詠うことは無理なのだろうか。

 と、いうと、最近はそんなこともないだろうとは思っている。

 そういうわけで、最近の作品をみてみよう。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

                        田口綾子『かざぐるま』

 

 この作品も、今橋や脇川と同様に、一首まるまるモノローグで作られている。すなわち<わたしの想い>のつぶやきをそのまま歌にした、という体裁をとっている。

 けれども、この韻律の深化はどうだろう。しっかり定型におさめようとする痕跡がはっきりと認められよう。ぴったり定型の音数を句またがりでつなげて、結句七音できちんとおさめている。下句の句またがりの屈折した調べが歌と共鳴しており、修辞への配慮も感じられよう。「棒立ち短歌」からの決別といえると思う。

 リアルな<わたしの想い>をこのように表現することができるところまで、現代口語短歌は成熟してきていることを、ここで確認したうえで、次に進むことにしたい。

 

 

短歌の<私性>と<リアル>①

 さて、「私性」についてのお喋りであるが、今回からは、また違った視点から議論していきたい。

 今回からは、読者側ではなく、もっぱら作品を作る側、つまり作者側からの視点で「私性」を議論してみよう。

 

 なぜ、口語で歌を作る歌人は、文語ではなく、口語で歌を作るのだろうか。

 と、いっても別に口語歌人にインタビューしたわけではないから、憶測であれこれ考えるしかないのだが、口語は文語に比べて圧倒的に詠いにくいことは間違いがない。

 とにかく韻律に乗ってくれない。あの文語の朗々とした詠いぶりをみよ。言葉が伸びやかに韻律に乗る。というか、5音7音に乗ればそれでもう歌となっている。

 それに比べて、口語のだらしなさといったらどうだろう。何とか5音7音の定型にはめたと思ったら、逆にはまりすぎて、安っぽい交通標語みたくなってしまう。そこで、仕方なく、句跨りや字余りで、わざわざ韻律を屈折させてねじれさせたりする。文語の伸びやかさと対極だ。

 それでも、口語で歌を詠うのはなぜだろう。というと、やはり文語ではしっくりこないんだろう。韻律をさっぴいても、口語じゃないと、ダメなんだろうと思う。

 このしっくりこない感じというのは、要は、<わたしの歌>としてしっくりこないんだろうと思う。文語は、借り物の言葉というか、<わたしの想い>を表現する様式と認められないんだろうと思う。<わたしの想い>を<わたしの言葉>で<わたしの歌>にするのは、文語じゃなくて、口語なのだろう。そうじゃないと、なんで、わざわざ口語で詠うのか説明がつかない。

 

 じゃあ、その口語で一体何を詠いたいのだろう。

 歌を詠うというのは、<わたしの想い>を短歌形式にのせたい、というのがプリミティブな作歌の動機だろう。

 そうでないと、こんな情報量の少ない、形式を選択するのが分からない。

 散文や現代詩と比べて、短歌形式は圧倒的に言いたいことが限られている。

 多分、何かを存分に伝えたいことがある人は、散文の世界に行っていよう。そこで、エッセイで存分に語り、あるいは、小説世界で、自分のアタマの中でこしらえた世界のあれこれを語ることだろう。

 短歌で存分に語ることは物理的に無理だ。小さいことを、ちょっとした心の揺れ、そんな日常で感じる揺れを詠うのが、短歌にはちょうどよい。

 で、そんな日常というのは、当然ながら作者本人の日常ということになる。そうした、日常にある題材で<わたしの想い>を詠うのが短歌にはちょうどいい。

 

 と、ここまで話を進めたところで、実際に、作品をみていこう。

 現代口語短歌で<わたしの想い>をストレートに詠う、というなら、こうした作品がある。

 

たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう

                          今橋愛『О脚の膝』

きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん

                           脇川飛鳥

 

 短歌作品といわれなければ、ただのモノローグ、とでもいわれてしまいそうな作品である。

 口語短歌文体で<わたしの想い>を詠う、もっとも原初的な形といえるかもしれない。

 本来であれば、こうした心の中のつぶやき、すなわち、モノローグから、いかにして短歌にしていくか、というのが、歌を詠む、というものだったはずだ。つまり、この<わたしの想い>を、短歌にしていくのが歌作だったろう。5音7音にはめて、韻律に乗せる作業、と、もう一方で統辞や修辞を施して、ただのモノローグを詩的芸術へと高めていくという作業、という2つの作業をやっていくのが歌作、すなわち歌を詠む、というものだったろう。

 しかし、この2つの作品は、そうした作業をすることなく、原初的な<わたしの想い>のまま、短歌として提出している。

 

 穂村弘は、こうした定型から外れた作品を「思いに対して余りにも等身大の文体」として、「棒立ち」と名付けた(「棒立ちの歌」『短歌の友人』河出書房新社)。

 自分の感情をそのままモノローグするのであれば、定型への意識は遠くなり、破調が当たり前となる。そのうえ、これまで短歌が積み上げてきた、短詩型でいかに修辞や統辞を施して詩歌としての芸術性を高めるか、といったベクトルも捨て去ることになる。これを穂村は、「短歌的武装解除」と呼んだ(前掲書)。つまり、ありのままの<わたしの想い>を言葉にしたら短歌になったという風をとるこれらの作品は、これまで短歌が積み上げてきた技法、すなわち、句またがり、対句、反復、体言止め、比喩など、を捨て去ったのだ。

 

 これらの作品を、「短歌以前」として一蹴することは可能であろう。しかし、逆に、こうしたストレートに<わたしの想い>をそのまま歌にしたことで、読者に強烈なインパクトを与えている、ということもいえよう。

 ただ、読者としては、これらの作品にインパクトはあるのは認めるものの、作品の完成度という点でみると、ちょっとなあ・・・、というのが大方の感想ではないかと思う。

 

 では、こうした作品について、作者側の視点で考えてみよう。

 なぜ作者は、こうした原初的な<わたしの想い>を、短歌的な作業を施さずに、完成した作品として提出したのだろう。

 

 つまり、こうした、心のつぶやきというのは、そのままでは作品の完成度しては決して高くないことは、作者も分かっているはずである。普通だったら、この<わたしの想い>を、韻律に乗せて、それから、統辞や修辞を施して、短歌らしくして作品として完成させていく、というのが歌を詠むという作業となる。しかし、そうした、作業をせずに、<わたしの想い>をそのまま作品として提出してしまっているのはなぜか。

 もしかしたら、こうやって提出したほうが、読者にインパクトを与えるに違いない、と作者は思ったのかもしれない。けど、そんなのは歌作の主理由たりえない、というのが、残念ながら、文芸ジャンルとしての短歌形式だ。

 もし、読者にインパクトを与えたいというのが動機だったとしたら、それは、もっと違う文芸でやったほうが、その望みはかなえられよう。

 そうではなく、短歌形式が積み上げていた、5音7音の美しい調べとか、統辞や修辞を施した短歌技法を捨て去ってまで、あえて原初的なままで作品として提出しているのは、なぜなのか。

 これを、次回、考えてみたい。

 

 

短歌の<私性>とは何か④

 前回からの続きである。

「主体」「話者」「作者」の3者の批評用語で、短歌の読み直しをしていたのだった。

 この3者を出すことで、これまでの現代短歌が、また違った様相を示すようになる。

 

 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて 

                       穂村弘『シンジケート』

 

 穂村の初期の代表歌といえるだろう。この作品は下句の<降りますランプ>に注目が集まってしまっていたが、今回は、上句の<ふたりは眠る>のところを注目しよう。

 この作品は、「話者」の存在を持ち出さないと読めない。

 たとえば、この作品を、次のように変えると、分かりやすいだろう。

 

 終バスにあなたと眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて  改作

 

<ふたりは眠る>を<あなたと眠る>に変えてみた。

 この改作であれば、「話者」の存在がなくても、これまでの「作者」と「主体」の2者でこの作品(改作)の説明ができた。つまり、「主体」は<あなた>と終バスの<降りますランプに取り囲まれて>眠っている。その状況を「作者」は叙述しているのである、といった感じだ。

 しかし、原作のように、<終バスにふたりは眠る>だとそうはいかない。ふたりが眠っている、ことを認識している第三者の存在、すなわち「話者」の存在が必要になってくる。「話者」の視点を「作者」が叙述している、ということにしないと、この作品は説明ができない。

 つまり、この「話者」の存在を認めることで、はじめてこの作品は鑑賞できるのだと思う。

 

 けど、この作品は、1990年の『シンジケート』に入っているものだから、もう30年も前の作品だ(初出は不明)。そして、現在でも穂村の初期の代表歌といわれているのだけど、この「話者」の視点については、これまで突っ込んだ議論はされていなかったんじゃないか、と思う。

 で、それはどうしてなのか、というと、短歌の世界ではこれまで「話者」という概念は存在しなかったからではないか。少なくとも、自明の存在だったとは思えない。存在しなかったのだから、議論されなかったのだと思う。

 

 さて、これまでの4回にわたった「私性」の議論を、ここで一度まとめよう。

 短歌の「私性」とは何か。という問いを立てて、これまで議論してきたけれど、乱暴にいって「近代短歌」の「私性」というのは、「作者」そのものであった。

 たとえば、子規の作品の<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>なら、藤の花をみているのは、子規本人であった。そこには、「主体」なんていう概念は存在しなかった。存在していないのだから、議論しようがない。つまり、「近代短歌」の「私性」というのは「作者」ということで、すべては了解されてきて、批評されてきていた。

 しかし、時代が進むにつれて、どうもこれだけでは、短歌の「私性」が説明できないということになった。そのエポックは、戦後の前衛短歌運動だ。

 塚本の作品にでてくる「われ」(その頃はまだ「主体」という概念は存在していない)を「作者」とすると、どうにも説明できないという事態になった。どうにも説明できなかったので、はじめの頃、塚本は相手にされなかった。けど、時代が進むにつれ、何とか説明しようとあれこれ作品批評が生まれ、塚本自身、評論の場でも短歌の世界を更新しようと試みた。現在、この当時の「私性」を分かりやすく述べたと認められているのが、以前にも引用した、岡井隆の有名なテーゼだ。

 

短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(中略)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。

岡井隆『現代短歌入門』1969年)

 

 このテーゼによって、前衛短歌で拡大された「私性」というのものが、いったい何だったのか、私たちは理解することができるようになった。

 すなわち「作者」ではない、作品の「われ」の存在が可視化されたのだ。その後、80年代後半のニューウェーブでの議論のなかで、「主体」という言葉が使われるようになり、この作品の「われ」というのが、すなわち「主体」という批評用語として定着していった。

 こうして、短歌の「私性」が「作者」だけから、「作者」と「主体」の2つになった。

 しかし、さらに時代を進めて、現代口語短歌となると、「作者」と「主体」の2つでも説明がつかない短歌が出現するようになり、そこで、3つ目の「私性」である、「話者」が、ここ最近、批評用語としてしばしば持ち出されてきたのではないか、というのが私の見立てである。

 この、「作者」と「主体」の2者だけでは説明ができない作品、というのは、今回掲出した穂村の<終バスにふたりは~>がそうだし、これまで議論してきた、いわゆる「話し言葉/実況タイプ」の歌がそうだ。

 これらの歌は、一読、おかしな日本語を使っており、それは結句の「現在形」終止が端的なのだが、そうしたおかしな日本語も「話者」の存在を出すことで説明が可能ということは、これまで議論した通りだ。

 また、なぜ、現代口語短歌は、そんな「話者」の存在が必要となる作品になっているのか、という問いについては、おそらく<リアリティ>を出すためにそうした叙述になっているのだろう、ということを仮説として提出している。

 

 そういうわけで、短歌の「私性」とは何か、という問いについて現時点で回答するならば、

「主体」「話者」「作者」の3者によるものであり、この3者はそれぞれ別物である、ということになるだろう。

 

 さて、ここから先は蛇足になるが、これまでの短歌批評は、「作者」批評や「主体」批評が中心であった。

「作者」批評というのは、一首とりあげて、この歌はどういう意図で作られているのか、とか、作者の心情はどのように歌に表れているか、といった批評だ。

「主体」批評というのは、歌の内容についての批評であり、主人公の行為や心情について批評するというものだ。

 こうした「作者」中心型、「主体」中心型、あるいは2つ合わせたミックス型、というのがこれまでの批評の中心だった。

 それはそうで、「話者」という概念は、ついこの前まで短歌の世界には存在していなかったのだから。

 けれど、そろそろそうした「作者」型や「主体」型ではなく、「話者」型で批評するべきだというのが私の主張で、それは、これまで私が、ずっと言い続けてきた批評、すなわち「一首評は形式主義的批評であるべき」ということと一致しよう。

 つまり、一首評については、「作者」のプロフィールや心情は取り上げない、「主体」の行為や心情の是非についても批評しない、もっぱら「話者」の語り方についてあれこれ批評する、そうした形式主義的な批評のほうが、短歌の批評は生産的であろうと考えるのだ。

 だって、短歌も詩歌文芸なんだから、統辞や修辞を批評せずしてどうするの?、と思うのだ。

 

短歌の<私性>とは何か③

 前回までに、3つの批評用語がでてきた。「主体」「話者」「作者」の3つだ。これは、今日の短歌批評では別人である。

「主体」は作品の中の<わたし>。小説でいえば「主人公」。

「話者」は作品の中の語り手。小説でいえば「地の文」を語っている人。

「作者」は作品を<叙述>する人。小説も同様。

 

 「近代短歌」はこの3者はイコールだったが、現代口語短歌はこの3者が別人なので、この点を理解しないと現代口語短歌の批評ができない、ということになる。

 と、ここまで進んだところで、次の問題は、これだ。

 

 では、作者は、作品をどこで<叙述>しているか。

 これを考えてみよう。

 前回まで永井の作品をえんえんと分析してきたから、今度は、違う作品にしよう。

 分析して楽しい気持ちになるような瑞々しい相聞がいい。

 

 イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

              初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 そういうわけで、この作品。

 これまでの議論を踏まえて、この作品を分析するなら、この作品は口語短歌の、リアルタイムで中継する、「話し言葉/実況タイプ」だ。

 「主体」は、イルカが飛ぶのを見て、続いて、落ちるのをみる。そんなイルカショーを君と見ているときに、君が何も言っていないのに、主体のほうを「ん?」て振り向いた、という場面だ。これを、「話者」が実況しているということになる。

 では「作者」は何をしているか。と、いうと、作者は、この作品を<叙述>している。では、どこで<叙述>しているか、というと、それはPCの前でキイを叩いてるんだろう。いまどき、書斎で万年筆を握って原稿用紙の前、ということではないだろう。

 少なくとも、イルカショーの席で君の隣に座っていないことは、明白である。

 いいだろうか。イルカショーの現場に「作者」はいない。いるのは「主体」だ。

ちなみに「話者」は、というと、「主体」とほぼ同じ位置にいると思われる。

 提出した作品は「話し言葉/実況タイプ」の作品だから、「主体」のすぐ近くに「話者」はいるし、「主体」が動けば、「話者」が追いかける、ということになる。そうしないと実況ができない。

 では、この「主体」「話者」「作者」の3者の関係、これ、「近代短歌」だったら、くっきりと分けることができるだろうか。

 正岡子規ならどうだろう。

<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>

 藤の花を見ているのは「主体」。その藤の花について語っているのは「話者」。それを叙述しているのは「作者」。ということになるのだが、どうも、「主体」の「話者」の区別が、イルカの歌ほどはっきりしない。藤の花を見て写生しているのは、「話者」だけど、その藤の花を見ている視線は、「主体」と「話者」で一致しているといえるかもしれない。

 あるいは、「話者」と「作者」の区別がつかない、という意見も成立しそうである。<叙述>しているのは「作者」に違いないが、その叙述内容は、「話者」の写生と寸分違わない、といえそうだ。

 なぜ、イルカの歌と比べて、藤の花の歌は、「主体」「話者」「作者」の区別がはっきりしないのか。

 と、いえば、時間の経過が見えないせいだろう。つまり、イルカの歌には、イルカがとんだりおちたり、君が振り向いたりと、時間の経過がわかる。時間にすれば十数秒かもしれないが、一首に時間がながれている。まさしく、実況ができる。

 けど、子規の藤の花の歌は、時間の経過はさしあたってない。だから、実況ができないので、三者の区別がつきにくいのだろうと思う。

 このことは、小説世界をイメージするとわかる。小説世界は、ストーリーを展開させていく以上、時間の経過について叙述するのが当たり前だから、「主人公」「語り手」「作者」の区別はつくだろう。

 しかしながら、小説の世界にも、情景描写のようなストーリーが前に進まない場面がある。こういう部分では3者の区別が曖昧になろう。というか、そでの「主人公」の動作は叙述していないだろう。そうした叙述と、藤の花のような写生の作品とは似ているだろう。

 

 ところで、時間の経過といえば、以前に、次の2作品を比較したことがあった。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり

                  斎藤茂吉『つゆじも』

 永井の作品は、典型的な実況型だ。「主体」はたばこの灰で字を書こうとしたり、おもいつかなかったり、こすりつけようとしたりしている。その「主体」の心の動きを、「話者」はその場面場面について実況している。そして、「作者」は自宅のPCの前で、打ち込んでいる、ということになる。

 一方、茂吉の作品もまた、「主体」は、海の向こうを思ったり、暮れた道に佇んでいたりしている。その様子を「話者」が語り、その語りを「作者」が叙述している、ということになる。

 やはり、時間の経過が感じられる作品は、3者の区別はつきやすいように思われる。

 つまり、こうした時間の経過型は3者の区別は容易だが、一瞬の切り取り型になると、3者の区別はつきにくい、といえるのではないか。

 とりあえず、そうした仮説を提出して、次回、また話を進めていこう。