短歌の<私性>とは何か②

 前回からの続きである。

 この作品の分析を通して、短歌形式の<私性>ということについて議論をしているのだった。

 

 日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる

                      永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 この歌は、リアルタイムで中継をする「話し言葉/実況タイプ」ととらえてよいが、では、実況をしているのは誰だろうか。

 まず、日本の中でたのしく暮らしていたり、雪の中に手をさしいれたりしているのは、この作品の主人公だ。これを、短歌の批評用語では「作中主体」あるいは「主体」という。

 本Blogでも、「主体」という用語で、説明してきている。ようは、作品に登場する「わたし」ということになる。

 そうなると、その「主体」の心象や行為を実況しているのは誰だろう。というと、これは、新しい批評用語をださないといけない。けど、短歌の世界で、この実況者に対する用語は、共通認識として流通していないようだ。そこで、本稿では「話者」と名付けよう。

 この実況者は誰かという話題は、短歌の世界ではこれまで注目されていなかったが、小説の世界を連想すれば、古くからの話題といえる。いわゆる「地の文」で表されている「語り手」のことだ。小説世界では、一人称にしろ三人称にしろ、この「語り手」は分析対象あるいは研究対象となっていようが、短歌の世界では、どうも最近までは議論の対象にあがることはなかった。というか、必要とされていなかったのだ。

 なぜかといえば、近代短歌の世界では、「わたし」といえば、作者そのものだったから、いちいち用語を使って議論する必要がそもそもなかったのだ。

 

 例えば、<はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る>

の、わが生活というのは、石川啄木の生活であり、手を見ているのも啄木自身だ。それは、いちいち確認する余地はない。

 <瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>

だったら、藤の花をみているのは、正岡子規なんだから、わざわざ「主体」なんていう用語は必要なかった。

 これが近代短歌の読みの作法だった。

 こうした読みの作法をはっきりと転換させたのが、塚本邦雄に代表される前衛短歌だった。

 

雪の夜の浴室で愛されてゐた黑いたまごがゆくへふめいに

割禮の前夜、霧ふる無花果樹の杜で少年同士ほほよせ

銃身のやうな女に夜の明けるまで液狀の火藥塡めゐき

乾葡萄のむせるにほひにいらいらと少年は背より抱きしめられぬ

                   塚本邦雄『水葬物語』

 

 一首目。 菱川善夫『塚本邦雄の生誕』(沖積舎 二〇〇六)によれば、「黑いたまご」は女性器の喩、であるという。そして、それが「ゆくへふめいに」なったという結句より、この作品は、人間の深部にひそむ欲望の物語化、であるという。いずれにせよ、この作品が、塚本が浴室で女性器を愛している、その性愛場面を詠った、というようなエロスの歌ではないことは理解できよう。

 二首目も同様に、きらびやかな喩と強い物語性によって一首が構成されている。菱川は「無花果樹」が少年の聖なるペニスの映像を引き出している、ととらえ、旧約聖書のアダムとイブによる知恵の実の物語が喚起されるという。つまり、「無花果樹」は、ペニスの喩であり、また、旧約聖書へ喚起する物語性を備えたものでもある、というのだ。

 三首目、四首目も菱川は同様に読み解く。「液狀の火藥」は精液の喩であるとし、「背より抱きしめられぬ」からはホモセクシュアルへの物語性が導き出される、としている

 こうした、短歌作品の虚構性によって、「作品のわたし=作者」という構図は崩壊し、小説世界のような、作品の登場人物(「主体」)と「話者」による作品、という読みのモードが成立したのである。

 前衛短歌をくぐり抜けた今日では、短歌作品を読む場合、とりあえず、「主体」と「作者」はイコールではない、というのが、読みの作法となっている。

 すなわち、

<会うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月>と俵万智が『チョコレート革命』で詠っているとしても、俵万智本人が不倫しているかどうかについては、さしあたって読みの範疇にはいれない、というのが今日の読みの作法ということになる。

(そして、それは「一首は形式主義的に批評せよ」と主張する筆者にとっては、至極まっとうな作法といえるが、それは、また別の話題である)。

 さて、そういう読みの作法が前衛短歌運動以降、短歌の世界で浸透していくなかで、ようやっと最近「話者」という観点が批評のなかで話題にあがってきた、ということだ。

 冒頭に提出した永井の作品では、日本の中でたのしく暮らしていて、雪に手をさしれようとしている、または、さしいれているのは、この作品の主人公の「主体」ということになり、その状況を、実況しているのは「話者」ということになる。

 同様に、前回提出した堂園の作品、<震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる>で、繰り返しダンスをしたり、繰り返し君と煮豆を食べているのは「主体」であり、その「主体」の行為を実況しているのは「話者」だ。

 同様に前回提出した初谷の作品、<イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く>で、きみと一緒にイルカショーを見ているのは「主体」であり、イルカショーやきみの動作をリアルタイムで実況しているのは「話者」である。

 

 と、ここまで話を進めたところで、次にこの問題を提出しよう。

 じゃあ、「作者」はいったい誰なのだろう?

 と、いえば、この「話者」の実況を<叙述>している人物ということだ。

 小説の「地の文」の「語り手」が「作者」とイコールではないのと同様、短歌作品の「話者」が「作者」とイコールではないのである。

 「作者」はあくまで、作品を<叙述>している人間だ。

 歌は<詠う>ものではない。<叙述>するものなのだ。

 さあ、ここの理解ができれば、話はさらに進めることができるのだが、今回は、かなり沼に潜った感じがするので、この先は次回にしよう。

 

短歌の<私性>とは何か①

 前回までは、<リアルの構造>について、議論を進めてきた。

 今回からは、テーマを変えて、短歌の<私性>について議論したい。

 こちらもまた、短歌にとっては重要な論点なのだが、なぜ、重要なのかというと、やはり「近代短歌」の本質にかかわるからだ。であるから、これから議論することは、前回までにあれこれ議論した短歌形式の「リアリティ」についての内容とかかわってくるはずなのだけど、うまくリンクできるかどうかは、まだわからない。

 とりあえず、現代口語短歌を分析しながら、なんとか<私性>の深いところ、できれば「近代短歌」の本質のあたりまでたどりつけるように頑張りたい。

 

 はじめに分析する作品は、これだ。

 

 日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる

                      永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 内容は難しくないだろう。解説も不要だろう。

 注目したいのは、<暮らす>と<さしいれる>の2つの述語だ。どちらも「現在形」で記述されている。けど、よくみてほしい。これ、<暮らす><さしいれる>とも、日本語の「時制」として、おかしくないだろうか。

 <たのしく暮らす>、これ、正しくは「たのしく暮らしている」であろうし、<さしいれる>も、正しくは「さしいれてみる」「さしいれている」「さしいれた」あたりになるだろう。いずれにせよ、<暮らす><さしいれる>の動詞の「現在形」終止は話し言葉の日本語としておかしい。

 こうした、現代口語短歌の「現在形」終止のある口語短歌作品について、斉藤斎藤は次のような提案をする。

 

 (前略)しかしそろそろ「口語短歌」を、二つに分けて論ずる時期ではないか。二つとは、目の前の出来事をリアルタイムで中継する、話し言葉/実況タイプと、過去の出来事を書く私の現在から振り返る、書き言葉/追憶タイプである。

(「短歌人」時評、2016.5)

 

 斉藤は、口語短歌を2つにカテゴライズすることを提案しているわけだが、その1つを「話し言葉/実況タイプ」と名付ける。なるほど、目の前の出来事をリアルタイムで中継しているということにすれば、「現在形」終止で記述しても、日本語としておかしい、ということにはならない。

 つまり、掲出している永井の作品でいうと、今、主体が日本のなかでたのしく暮らしている、という状態をリアルタイムで実況しているととらえるとよい、ということだ。ただし、それでも、<たのしく暮らす>は、やっぱりヘンで、実況するという設定でも「たのしく暮らしている」という、<~ている>形であらわさないと話し言葉の日本語としてはおかしいとは思う。

 そうした粗さはあるものの、口語短歌作品のいくつかは、話し言葉で実況している、ということにすれば、日本語のおかしさはある程度解消されるので、この提案はなかなかいい線といっていると思う。主体が、ぐちゃぐちゃの雪に手を差し入れる状況を、リアルタイムで実況している、とらえると、この「現在形」終止は、これでいい、となる。

 日本語としておかしな「現在形」終止を、斉藤のいう<話し言葉/実況タイプ>としてとらえたら、そのおかしさが解消されるであろう現代口語短歌は、たくさんあるが、いくつかあげるなら次のような作品群だ。

 

雨の日は身をいじめたい思いもち庚申塚をまわって帰る      沖ななも

宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている     奥田亡羊『亡羊』

降る雨の夜の路面にうつりたる信号の赤を踏みたくて踏む  

                          内山晶太『窓、その他』

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く 

                          花山周子『風とマルス

あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                         山川藍『いらっしゃい』

震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる

                    堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが「ん?」と振り向く

              初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 いかがであろう。

 どれも、リアルタイムで実況している作品だととらえれば、へんな日本語とはならない。

 さて、提出した堂園と初谷の作品であるが、この2作品については、東郷雄二が『ねむらない樹』5号で<私性>についての小論で言及している。

 東郷は、堂園と初谷の作品と、岡井隆<薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ>ほかの作品とを比較し、<私性>を2元論的に論じる。

 東郷は言う。

 

 この二つ(堂園に代表される歌と岡井に代表される歌の2つ―引用者)の<私>は多数の軸において対立する。まず前者(堂園の作品―引用者)の<私>は瞬間的で奥行きがない(瞬間性)。こうして切り出された<私>は過去と切断された<私>である(非歴史性)。(中略)かたや後者(岡井らの作品―引用者)の<私>は持続的で奥行きがある(持続性)。そのため過去と繋がっており、積み重ねられた記憶を抱えている(歴史性)。岡井の歌も藤原の歌も、自分の今の状況と過去の苦い記憶が重ね合わされていることからもそれは明らかだろう。

(『ねむらない樹』5号、2020.8)

 

 こうして、東郷は岡井や藤原龍一郎の作品(「首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば」)と比較するかたちで、堂園や初谷むいの作品(「イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが『ん?』と振り向く」)には、瞬間性と非歴史性という2点を指摘する。

 そして、次のように小論をしめくくる。

 東郷は言う

 

 現代の若手歌人は歴史性をになう持続的な<私>よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>に惹かれている。

(東郷、前掲書)

 

 堂園と初谷の2作品をして、「現代の若手歌人」とくくってしまうのは乱暴と思うが、とりあえず、この2人について言えば、導かれる結論としては整合していよう。

 そして、この東郷の「瞬間性」と「非歴史性」という指摘は、そっくり斉藤斎藤の言説に重ね合わせることができる。

 すなわち、目の前の出来事をリアルタイムで中継する、「話し言葉/実況タイプ」の作品は、歴史性をになう持続的な<私>よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>に惹かれているがために、そうした「現在形」終止で詠われているのである、と。

 

  斉藤斎藤の提案する「話し言葉/実況タイプ」というのは、いわば作歌のやり方、すなわち方法論からの提案なのだが、要は、かけがえのない今を詠うには、リアルタイムで実況するのが最適なやり方で、それため「現在形」終止で歌を作っている、というわけだ。

 で、問題は、東郷が指摘している堂園と初谷の作品のような現代口語短歌のいくつかは、なぜ、かけがえのない今という瞬間を生きる<私>を詠うのか。

 つまり、東郷のいう「瞬間性」なり「非歴史性」なりに惹かれるのか。

 

 と、それは、<リアリティ>の追求ということなんだろうと思う。

 つまり、イマココのかけがえのない瞬間、イマココの私のリアルな思いを詠いたい、という追求がそうさせているのだと思う。

 永井の歌であれば、<日本の中でたのしく暮らす>というイマココの実感として、<道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれる>という行為があるのだろう。

 そして、この2つの事象は、ともに因果関係がないように詠われている、という点も重要だ。

 つまり、歌からは、日本の中でたのしく暮らしているという具体事例として、道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさしいれている主体、という関係性は読めるのだけど、その2つの事象が、それぞれ独立して詠われているというのがポイントだ。

 この2つの主体の想起と行為は、それぞれ瞬間的なものだ。そして、それぞれに独立しているから、非歴史的なのだ。

 そうした瞬間的で非歴史的であるということを表現するする技法として、リアルタイムで実況するという「話し言葉/実況タイプ」の叙述方法が選ばれているのである。

 これが、永井の作品にみられる<リアリティ>だ。

 もうひとつ。

 では、なぜ、こうした叙述法が選ばれているか。

 というと、これまでの近代短歌的手法に、どうにも<リアリティ>を感じていないのではないか、と思うのだ。だから、実況しているのだろう。

 

 さて、話を進めて、また問題を提出しよう。

 これら、「話し言葉/実況タイプ」の現代口語短歌作品、果たして実況しているのは、いったい誰だろうか?

 この問題を考えることで、次回、短歌形式の<私性>の沼へと潜っていくことにしよう。

 

短歌の「リアル」⑨

 <リアルの構造>について、かなりダラダラと議論したので、今回で、一旦まとめておきたい。

 短歌を読んで、ああ、これは本当のことを詠っているに違いない、と読み手が実感するためには、その短歌に何らかの<リアリティ>を担保するための仕掛けが必要。では、そんな<リアルの構造>といったものは、何なのだろうか、ということを、これまでいろいろ議論した。

 議論から、どうやら「具体的」で「小さな違和感」といったものが、一首のなかに詠われると、<リアリティ>が担保され、もうひとつ、「時間の経過」が分かると同様に<リアリティ>が担保される、というところまで議論した。

 では、なぜ短歌にはそもそも<リアリティ>が必要なのか。

 この点を議論して、ここまでのまとめとしよう。

 

 そもそも短歌には<リアリティ>が必要なのか。

 別になくたっていいじゃないか、という主張は成り立つだろう。

 だって、古典和歌は<リアリティ>を担保して詠んではいない。というか、<リアリティ>という概念がなかったからそれはそうなんだけど、古典和歌は、いかに巧い修辞を施すか、ということが秀歌の指標だったろう。掛詞、縁語、序詞、枕詞といった修辞技法を駆使して作歌できること、また、本歌取りの手法によって古典和歌や漢籍の部分を一首にとり込めること、なんていう一定以上の階級に属するものの素養として古典和歌があった。

 そうした古典和歌の特質をそのままに近代短歌でも詠えばよいのではないか、という主張は成り立つだろう。

 しかし、「近代短歌」はそうはならなかった。

 そうならなかった理由はいろいろあるけれど、そのひとつとして、正岡子規にはじまるアララギ系が短歌史の本流となったということをあげても、大きな間違いではないはずだ。

 これは、ニワトリと卵になってしまうが、子規によって「近代短歌」という短歌史の本流が成立してしまった以上、短歌は「リアル」を追求したのだし、「リアル」を追求したから「近代短歌」は成立したともいえるのだ。

 もし、正岡子規アララギの系譜じゃなくて、例えば、御歌所派とか、別の耽美的・浪漫的な流派とかが短歌の世界の主流になったのなら、ここまでリアルにこだわることはなかったのではないか、とも思う。あるいは、いわゆる「近代文学」、そのなかでも自然主義文学と距離をおいておいたなら、俳句的なわびさびで短歌形式を愉しめたかもしれないのだ。

 それはともかく、そうした写実的リアリズムが近代の短歌史の本流を牽引したからこそ、現在でもなお、短歌は<リアリティ>を追求するのがごくごく当然の前提として、そして<リアル>が作品の評価軸となっているのだ。それは、今後、口語短歌が全盛になったとしても、おいそれとは変わらないだろう。

 例えば、2年ほど前に、短歌の世界では「基本的歌権」というワードが議論になったことがある。けど、これも、要するに短歌の<リアリティ>についての議論だった、ということが、今にしてわかる。

 すなわち、従来の<リアリティ>という評価軸で作品を批評することへの異議申し立てが、「人権」ならぬ「歌権」という表現で提出されたのだ。

 ことの顛末は、こうだ。

 穂村弘は、佐々木朔の<消えさった予知能力を追いかけて埠頭のさきに鍵をひろった>の一首をパッと見た瞬間、これはレートの設定が高い、すなわち、いいところでいいものを拾っている、と思った、という。

 そこで、「それだと一首の回収が難しくなるよね」みたいなことを言ったら、寺井龍哉に、「そういう批評は今はいかがなものか」というニュアンスで返され、それを受けて、アイロニカルに穂村自身が「そうか、基本的歌権の尊重なんだ」と言ったというのが、ことの顛末だ。(「歌壇」2018.10佐佐木定綱による穂村弘のインタビューを参照)

 で、何を言っているのかというと、あくまでも穂村は<リアリティ>という従来の評価軸で、「レートの設定が高い」とか「一首として回収が難しい」という言い回しで、いいところでいいものを拾っている(「レートの設定を高くする」)と一首にリアリティが担保できない(「回収がむずかしい」)、と言っているのに対し、寺井は、今はそういう批評はどうですかね、と言っているわけである。

 結果、この「基本的歌権」については、多様な論点で議論されたのだが、穂村のはじまりの発言<レート設定>に関する論点について、つまり従来の<リアリティ>という評価軸で作品を批評することの妥当性については、あまり深まらなかったのではないか。

 ただ、今後も、こうした短歌の<リアリティ>についての議論は、言葉のニュアンスを変えながらも論点として提出されていくだろう。そして、議論する中で、「近代短歌」の総括というか、「近代短歌」でくくられる明治から現在までの短歌史がその都度上書きされていくのだろうと思う。

 

短歌の「リアル」⑧~口語短歌編その3

 現代口語短歌の<リアルの構造>を探ってみよう。

 前回あげた永井の歌から、もう一度検討しよう。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 この歌に<リアリティ>があるとするならば、<リアリティ>を担保するだけの何らかの理由あるはずだ。

 その理由として、「時間の経過」が感じられるかどうか、というのをここでは仮説として提出しよう。

 この歌には、3つの主体の心情が記述されている。

すなわち、

 

・白壁にたばこの灰で字を書こうとする

・思いつかずに諦る

・煙草をこすりつけようとする

 

 の3つの心情である。

 この3つが「現在形」で表されていることに注目して、文語短歌と比較検討するから、肉厚で彫りの深い作者像を作りだすことは難しい、といったような議論になってしまうのだ。が、前回までにあげた、茂吉の<わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり>と同様に、「時間の経過」が詠われているとするなら、構造としては同じである、という議論が展開できないか。

 つまり、永井も茂吉も、「時制」の違いはあるものの、主体の心の移ろい、すなわち「時間の経過」が詠われることで、<リアリティ>が担保されている、ととらえることができるのではないか、というのが、本稿の主張だ。

 では、同様の構造になっている口語短歌作品をあげてみよう。これらの作品に<リアリティ>は感じられるだろうか。

 

あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                        山川藍『いらっしゃい』

目を閉じてしまいあぶない階段でむずかしいこと言わんといてよ

 

 一首目。一首のなかに心の移ろいを三つ詰め込んでいる。

〈そっくり〉と思った心情。

〈鳴き声だな〉と思った心情。

そして、〈見る〉という動作。

と、三つの場面が並び、<時間の経過>がわかる。主体の心情の移ろいが<時間の経過>とともに、かなりくっきりと詠われている一首ということがいえよう。

 二首目も同様。

目を閉じてしまった時、

あぶないと思った時、

言わんといてよと思った時、と三つの<時間の経過>がある。

 

 こうした作品からは<リアリティ>が感じられる、というのが本稿の主張なわけだが、では、なぜ「時間の経過」が作品で詠われると、<リアリティ>が感じられるのか。

 この点については、以前の議論で提出したキーワードを思い出してほしい。

 それは「生の一回性」だ。

 私たちは、かけがえのない一度きりの人生を生きている。それは、改めて言うことでもなく、誰もが分かっていることだ。ただ、一方で私たちは、代わり映えのしない日常を生きているということもいえる。昨日と今日とで、何か違ったことがあったがというと、そんなこともなく、のっぺりとした日常が日々ただ流れている、といった感慨を持つこともある。

 ただ、そんなのっぺりとした日常であっても、どこかに、自分の人生のかけがえのなさ、といったようなものを感じたい、と思うのも人の常ではないか。そんな当たり前の感情を喚起するものとして、大きく言えば芸術活動なんかがあるともいえるだろうし、そのなかに、詩歌も入るのかもしれない。

 では、そんなかけがえのない人生、すなわち「生の一回性」というのを一行の詩で表すにはどうしたらいいか。

 というと、その方法の一つとして<リアル>に詠うということがあげられよう。詠み手の立場からすれば、短歌作品を読んで、ああ、これは本当のことを詠っているに違いない、と、感じることで、その作者あるいは主体の「生の一回性」といったものを実感するわけだ。

 そして、そんな<リアル>に感じる詩歌の構造として、「具体的」とか「小さな違和感」とか「時間の経過」といったものがあるのではないか、ということをこれまで議論してきたのだ。

 では、一首を読んで、そこに「時間の経過」が分かるとなぜ<リアリティ>を感じるか。

 というと、そこには、過去から現在といった「確かにあったその人物の人生」のようなものを感じるからだろう。もちろん、その「時間の経過」というのは、朝起きて飯を食って仕事をして帰って寝た、といった、のっぺりとした日常の風景の描写だけではなく、たとえ日常の風景であっても、そこに具体的なほんのちょっとの違和感みたいな描写があれば、読み手は<リアリティ>を感じてしまうというのが、一行詩である短歌ならではの構造なのではないか。

 ドアの閉まる音が、「ガシャン」ではなく「ダシャン」だったというほんのちょっとの違い。 

 あるいは、果物屋の台がかたむいていたという、ほんの小さな発見。そこから感じた違和。

 そうした「具体的」だったり「小さな違和感」だったりしたことで<リアリティ>が担保されることについては、これまで議論した通りだ。

 では、「時間の経過」はどうか。

 白壁に煙草の灰をこすりつけよう、と思ったこと。

 それだけでは、<リアリティ>はさほど感じない。

 その前に、何か字を書こうと思ったこと、そして、思いつかなったこと、という時間の経過があることで、この主体は、「確かにそう思ったに違いない」といった<リアリティ>が担保されるのだ。

 同様に、鳶の鳴き声を聞いて、顔をあげて鳶を見ること。これは、日常の風景の一コマだろう。けれど、頭上に鳴き声が聞こえてきて、ああ、これは鳶そっくりの鳴き声だと思い、文字で書けそうだなと思い、顔をあげて鳶を見る、という「時間の経過」が記述されていることで、ああ、この一連の心の動きは、本当のことに違いない、と読み手は感じるのだ。と、思うが、どうか。

(次回に続く)

 

短歌の「リアル」⑦~口語短歌編その2

 前回までは、口語短歌というのは、時間軸を移動させながら現在形で詠うのが基本的な方法である、ということを議論した。

 では、どういう作品がそういえるのか、確認してみたい。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

この歌には、3つの現在がある。すなわち、

 

・白壁にたばこの灰で字を書こうと思った瞬間

・思いつかずに諦めた瞬間

・煙草をこすりつけようと思った瞬間

 

の3つだ。

この3つの瞬間を1首にまとめたというわけだ。

大辻は言う。

 

このように永井の歌において時間の定点はひとつではなく多元化されている。そして、作者はそのつど異なった「今」の間を移動し、それぞれの「今」の上に立って叙述内容を言表してゆく。永井の歌において、作者はその場その場において「今この時」という現在だけを感知し、その心情をそのつど言表し、慌しく時間軸の上を走り去ってゆくのである。

(前掲書)

 

 前回引用した、斉藤斎藤のいう「口語短歌の話者は、特定の時点に固定されてはおらず、時間軸を移動しながら発話している」も、同様なことを言っていよう。

 

 では、両者の違いは何なのか。

 それは、口語短歌が現在形で詠うのかどうしてか、というところだ。

 大辻の論旨によれば、文語の精緻な時制の叙述と比べるかたちで、

・現代口語は、過去や完了を表す助詞や助動詞が(近代文語短歌と比べて)、貧困なためだ。

・現代の若者たちが、生きている様々に変化する「今」をできる限り正直に記述しようとするためだ。

 とする。

 他方、斉藤斎藤の論旨によれば、文語短歌の時制表現にも触れながら、

・そもそも、現代口語短歌は、過去や未来の出来事でも目の前で起こっていることとして詠うのが基本の方法なのだから、過去や完了の助詞や助動詞は不要なのだ。

・「今」に強くこだわるのは文語短歌のほうであって、口語短歌は、いくつもの「今」を一首で表現しているのだから、ひとつの「今」だけを詠おうとしているのではない。

と、する。

 この両者の違いについては、どちらも仮説の域は出ていないだろうとしたのは、前回述べた通りだ。

 

 なお、私の考える、現代口語で時間軸が移動する理由は、こうだ。

 近代の「言文一致」の運動による試行錯誤以降、話し言葉に文体を近づけていく過程で、散文芸術の世界では、モダリティがどんどん発達したといえまいか。モダリティとは、話し手の捉え方や述べ方を主観的に表すカテゴリーだが、例えば、物事を客観的に言う場合、

・コロナ第2波は来ない。

と断定すれば、これだけで終わる。が、主観をつっこむと、

・コロナ第2派は来ないと思う。

・コロナ第2派は来ないらしい。

・コロナ第2派は来ないに違いない。

・コロナ第2派は来ないかもしれない。

・コロナ第2派は来ないでちょうだいな。

・コロナ第2派は来ないでほしいと思っている。

・コロナ第2派は来ないと思っているがそうともいえない。

・コロナ第2派は来ないに違いないと思っているが、どうだろうか。

・コロナ第2派は来ないに違いないと思っているのは、私だけではないはずである、と考えられよう。

 と、どんどん文末が長くなる。

 そうなると、短歌文芸で、現代の自然な話し言葉を使って歌にしようとすると、当然ながら、字数がふえてしまい韻律として苦しくなる。

 そのために、立脚点主義をやめて、現在形で「今」がどんどん移動する「移動主義」とでもいえる<時制>で詠うことにしたのではないか。

 例えば、大辻の論考には、先にあげた永井の歌を文語に改作している部分がある。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 原作

吸い殻にて文字を書かむとしたりしが思いつかねばこすりつけたり 

                       大辻による文語改作

 

 これは、移動主義の永井の作品を、こすりつけた瞬間を時間の定点とした立脚点主義の文語体に改作をしたものだ。

 さて、この大辻による改作をさらに、口語に改作すると、次のようになろう

 

吸い殻で文字を書こうとしたけれど思いつかなかったのでこすりつけた 

                           筆者による口語改作

 

 原作の<字を書こう>が「字を書こうとしたけれど」と字数が増えている。<思いつかない>も、「思いつかなかったので」となる。<こすりつけよう>は「こすりつけた」の過去形、ただし、正確には「こすりつけようとした」だろう。

 なので、なぜ、口語短歌は立脚点主義をやめたのかというと、口語で、文語のような時制表現をとろうとすると、字数が必然的に増えてしまい、そうなると韻律的に苦しいので、やむなく移動主義になった、というのが、私の仮説だ。

 であるから、この永井の作品に代表されるいくつも「今」のある口語短歌というのは、私に言わせれば、近代短歌の亜種のようなものだ。だから、大辻が近代短歌の精緻な時制の叙述と比較して、現代口語短歌について、「肉厚で彫りの深い作者像を作りだすことは難しい」、と否定的に述べるが、そうでもないよ、と私は思う。

 つまり、こうした現代口語短歌も、近代文語短歌と同じく、肉厚で彫りの深い作者像を作りだすべく、わざわざ3つの出来事を1首に並べていると思うのだが、どうだろう。

 

 さて、話がずいぶんと脇道にそれたが、このBlogは「リアルの構造」についての話題であった。

 なので、そろそろ話をそちらに戻したいと思うが、先の永井の作品にリアリティはあるかと問われたら、私は、「ある」とこたえよう。

 では、この永井の歌では、なぜ、リアリティがあるといえるのか。

 という点を、次回、遠回りしたが、議論することにしよう。

 

短歌の「リアル」⑥~口語短歌編その1

 前回は大辻の論考を引用しながら、<リアルの構造>について議論した。
 <リアル>というのは、要は<本当>のことだ。つまり、読み手側からすれば、一首を読んで、ああ、これは本当のことを詠っているに違いない、と思えば、それは<リアルな歌>、ということになる。
 で、リアルがリアルたる所以、つまり、その構造を探るために、ここまであれこれ議論した。前回は、読者が一首を読んで、これは<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と実感すれば、それは、まさしく<リアルな歌>といえるだろう、という仮説にたって、では、どうやったら実感できるか、という点を大辻の論考より議論した。
 そこで、導きだされたこととして、一首のなかに、
・作者の「今」の瞬間の様子が分かる
・作者の過去の体験が分かる
 の2つが読み取れると、どうやら、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するのではないか、というところまで進んだのだった。
 そして、そんな実感ができる技法として、近代短歌は<精緻な時間の叙述法>という技法を発見した、というわけである。
 さて、この大辻の論考であるが、実は、この論考の主要な論点は、ここではない。近代短歌の時間の叙述法は、いわば前段の議論で、主要な論点は、現代口語短歌の時間の叙述法についてなのだ。
 その論旨をざっとのべると、近代短歌は、精緻な時間の叙述ができるけど、現代口語短歌は時間の経過を叙述することのできる助詞や助動詞が貧しいから、そうした精緻な叙述ができない。そこで、現代口語短歌は「今」という時間の定点を多元化する詠み方を生み出した。しかし、それは本質的な問題ではく、本質的には、口語短歌は「今」をできる限り正直に記述しようとしているために、そうした詠み方になっていよう、という。
 そして、永井祐と斉藤斎藤の作品から、そうした現代短歌の時間の叙述の特質を検証している。
 その結果、次のように、大辻は結論付ける。

 

 永井や斉藤が採用した現代口語は、生き生きと明滅する「今」を記述することに秀でた言語体系である。しかがって現代の若者たちが、今、生きている瞬間をリアルな形で表現するために現代口語を利用するのは故なしとしない。しかしながら、「現在形」を多用し、助詞・助動詞を排除した現代口語の文体では、かつて近代短歌が描出した肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことは難しいと言わざるを得ない。
(前掲書)

 

 このように、大辻は、短歌形式の<時制>の叙述法に注目して、近代文語短歌の精緻な叙述と比較するかたちで、現代口語短歌の時間の叙述に関して否定的に述べたのであった。
 ここの論点を整理すると、
・近代文語短歌は、時制に関わる助詞や助動詞を駆使することで、肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことができる。
・しかし、現代口語短歌は、「今」を記述しているから、肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことは難しい

 と、いうことだ。

 この議論に、正対していると思われる論考を展開したのが、斉藤斎藤であった。
 この先は、斉藤の論考をみながら、口語短歌の<時制>の叙述について、考えてみたい。

 斉藤は言う。

 

 (前略)口語短歌の話者は、特定の時点に固定されてはおらず、時間軸を移動しながら発話している。タイムマシンで移動しながら、過去や、未来の出来事もいま目の前で起こっているかのように詠うのが、口語短歌の基本的な方法だろう。だとすれば、出来事はつねに話者の<現在>において起こるのだから、話者にとっての<過去>であることを示す時制表現は、必要なくなるはずである。口語に過去を示す助動詞が少ないのは、端的に不要だからではないのか。
 また完了の助動詞も、話者の立ち位置が発話時に固定されているからこそ、複数のニュアンスの使い分けが必要となるのである。話者が時間軸を移動しながら叙述する場合、完了形で描かれていた出来事は進行形で描かれることになる。だから文語において「ぬ」「たり」などが果たしていた機能は、口語では「た」が一人で肩代わりしているのではなくて、「ている」などの継続を示す表現や、助動詞ぬきの現在形に、分担されているのではないか。(中略)
 ついでに言うと、口語短歌に現在形が目立つことを理由に、いまの若者は「今」にしか興味がない、というようなことも言われるが、これも逆ではないかと思う。口語短歌現在形が目立つのは、「今」を離れて話者が動くからである。さまざまな時制表現を駆使して話者にとっての「今」に強くこだわるのは、むしろ文語のほうではないか。

 (斉藤斎藤「口語短歌の『た』について」「短歌人」2014.9)

 

 斉藤も疑問形で論述しているように、これは仮説として論じていると捉えるのがいいだろうが、大辻の論考にうまくかみ合わせていることはわかる。
 口語短歌で、一首のなかで現在形の多用されている点について、斉藤は<時間軸を移動しながら発話している>と述べる。これは、大辻も同じで、前掲書には「…時間の定点はひとつではなく多元化されている。そして、作者はそのつど異なった『今』の間を移動し、それぞれの『今』の上に立って叙述内容を言表していく」と述べており、ここの点については、両者の相違はない。
 しかし、なぜ、口語短歌が「時間軸を移動しながら発話している」のかというと、両者の意見は分かれる。
 大辻は、現代口語の過去を表す助動詞の貧困が理由だという。
 一方、斉藤は、そもそも現代口語短歌は、時間軸を移動しながら現在形で詠うのが基本的な方法なのだから、過去を示す助動詞は端的に不要なのだ、また、完了の助動詞も継続表現や現在形に分担されているのだ、という。
 この点について、どちらが正しいか、あるいは、論理的に整合しているかのジャッジは難しいだろう。突き詰めると、どちらも推論の域を超えていないようにも読めよう。
(次回に続く)

短歌の「リアル」⑤~文語短歌編

 前回までは、穂村弘の論考を参照しながら、<リアルの構造>について考えてみた。
 今回からは、また違った視点から<リアルの構造>について考えよう。
 なにも短歌は、「具体的」で「小さな違和感」を詠えばリアリティが担保される、というわけではない。短歌のリアリティとは、そんなシステマチックなことに集約されるというだけではない。
 それに、「具体的」で「小さな違和感」を描写すればリアリティが担保されるというのなら、それは短歌特有というわけではなく、たとえば俳句や短詩でも担保できそうである。あるいは、小説の技法としても使えそうなものだ。なので、この<リアルの構造>は、何も短歌に特化されているというわけではなく、広く表現形態全般にいえそうなものだ。
 そうではなく、短歌特有の<リアルの構造>というものは考えられないだろうか。
 短歌でよく言われるのは、作者の心情を一行の詩として、詠い切ることのできる詩型である、ということだ。それは時には、たった一行の詩に、作者の人物像や実人生までが読者には透けてみえる、という実感があったりもする。
 そうした、作者の人物像や実人生までが透けて見えるかような作品に、読者は、ズシンとしたリアリティを感じるのではないか。つまり、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するリアリティである。
 たとえば、こういう歌は、どうだろう。

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり
                   斎藤茂吉『つゆじも』

 この歌については、大辻隆弘が次のように解説している。

 作者である茂吉は、夕闇が迫る路上に立って、今、はっと我に返る。ああ、私はさきほどまで、海のありかを思いながら歩いていたはずなのに、いつの間にか、こんな夕暮れ迫る道の上にぼんやりと立ちつくしていたことだ……。私たち読者は、そんな風にこの一首のなかに我に返った瞬間の茂吉の気持ちを読み取るだろう。
 夕映えの紅が滲む海のありかを茫獏と想像する憧憬。その想像に心奪われて夕闇迫るまで、路上に立ちつくしていた忘我。そして、そんな自分の姿にはたと気づき自分の心の動きを顧みる自省。私たちはこの一首のなかに、茂吉の憧憬・忘我・自省といった内面性を感じることができる。そんな複雑な内面を抱えながら「今」ここに立っている肉厚で彫りの深い人物像を感じ取ることができるのである。

(大辻隆弘「多元化する『今』」『近代短歌の範型』六花書林

 たった一行の詩が、こうした深い内容をたたえているということに改めて驚くが、そのたった一行の詩を、ここまで分析できる大辻の筆力もすごいものだと思わずにはいられない。
 が、それはともかく、最後の一文に注目しよう。
 大辻は<そんな複雑な内面を抱えながら「今」ここに立っている肉厚で彫りの深い人物像を感じ取ることができるのである>と結んでいる。これは、一首から、作者の人物像や実人生が透けて見える、と私が主張したのと、ほぼ同意ととらえていいだろう。
 大辻の文章をかみしめて、もう一度、この茂吉の一首を鑑賞してみよう。どうだろう。だんだんリアルな歌になってきただろうか。
 さて、この歌で大辻は、<時制>に注目している。
 どういうことか。
 茂吉の歌を、もう一度みてみよう。
 この歌には、実は3つのできごとの記述がある。
 すなわち、

 海のありかを想像していた<わたつみの方を思ひて居た>とき、
 路上に立ちつくしていた<暮れたる途に佇>んでいたとき、
 そんな自分に気が付いた<けり>とき、

 の3つである。
 この3つがそれぞれの過去の事象として並列しているのではなく、それぞれ時間の経過を助動詞や助詞を使って一首にまとめているところが、この歌の大きな特徴なのだ。

 大辻は言う。

 このような精緻な時間の表現は西欧語の時制表現に極めて近いものだ。たとえば「て居たりしが」は「had been~ing,but」という過去完了進行形に、「佇みに」は「have ~ed」という現在完了形に置き換えることができる。この茂吉の歌には、英文法でいう過去完了進行形や現在完了形のような精緻な時制表現が駆使されており、それによって事象の生起が客観的な時間軸の上に整序されて表現されているのである。
 近代短歌が発明したのは、「今」という時間の定点に立脚したこのような精緻な時間の叙述法であった。茂吉を始めとした近代歌人たちは、万葉集由来の助詞や助動詞の機能を駆使しながら。このような客観的な時制を表現する精緻な技術を開発したと言ってもよいだろう。
「今」この瞬間に確かに生きながら、自分が体験してきた過去を同時に思い出す。体験してきた過去を背負いながら、かけがえのない「今」を生きる。近代短歌に登場してくるそんな肉厚で彫りの深い作者像は、このように時間の定点を一点に固定し、それ以前の時間を整序して表現する叙述法が生み出したものだったのである。
(大辻、前掲書)

 大辻の論述から、茂吉の歌の<リアルの構造>が抽出できよう。
 引用文の2つめの段落にある、<「今」という時間の定点に立脚したこのような精緻な時間の叙述法>、これが、どうやらカギのようである。
 茂吉の歌のように、3つの出来事の経過を1行に収めるには、<精緻な時間の叙述法>という技法の発明が必要であった。では、なぜ、そんな技法が必要なのか、というと、<「今」という時間の定点に立脚>するためだ。
 では、なぜ、「今」という時間の定点に立脚することが必要なのか、というと、それは、「今」のこの瞬間を確かに生きているという描写と、過去を思い出している描写、の2つが1行に表されていることで、<肉厚で彫りの深い作者像>が浮かび上がるため、といったところが、大辻の論旨になろう。
 つまり、読者からすると、一首の描写から、
・作者の「今」の瞬間の様子が分かる
・作者の過去の体験が分かる
の2つが読み取れると、どうやら、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するようである。
(次回に続く)