短歌の<私性>と<リアル>⑤

 短歌の<私性>と<リアル>について、思い出したことがある。

 小池光『思川の岸辺』(2015年)にある「砂糖パン」という一連である。

 4首掲出する。

 

一枚の食パンに白い砂糖のせ食べたことあり志野二歳夏五歳のころ

自転車の前後に乗せて遠出して砂糖パン食べきかはゆかりにき

砂糖パンほんとおいしいと川のほとり草の上こゑを揃えて言ひき

おもひたちけふの昼餉に砂糖パンわれひとり食ひてなみだをこぼす

 

 一首目にある、二人の娘の名は、小池の実の娘の名である。もう、とっくに成人して、結婚、出産をされていることが歌集からわかる。と、いうように、この歌集は「作者」イコール「主体」という、「近代短歌」のフォーマットで編まれており、読者は、そのように読むことを暗黙のうちに強いられている状態にある。つまり、「作者」だの「主体」だの「話者」だの、小難しいこと考えずに、ここにあるのは、小池光の歌だ、そうやって読んで味わえ、と読者に迫っている、ということだ。

 そんな前提で、掲出した四首読んでみよう。

 主体である小池は、娘たちが小さかった頃に砂糖パンなるものを食べたことがあったなあと思い出す。自転車の前後に小さい娘を乗せて、川のほとりにいって、砂糖パンを食べたとき、二人の娘が声をそろえて「砂糖パンほんとおいしい」と言ったなあ、と。そして、そんなことがあった数十年後の今日、小池は、思いたって昼にひとりで砂糖パンを食べたら、涙がこぼれたのであった。

 という、一首単位でも連作としても非常に分かり易い内容となっていよう。

 そして、こうした歌の数々によって、この歌集は多くの読者の涙を誘ったらしい。当時の小池のインタビュー記事には、そんなことが書いてあるし、私の身近な妙齢の女性も、あの砂糖パンには泣けたわあ、と言っていた。

 もう少し、この歌集の背景を述べるならば、歌集には、妻に先立たれて(この妻の実名も、ちゃんと歌に詠んでいる)、独り身になった60代の小池の寂しさが切々と詠われている。そういうなかに、この連作がある。ついでにいえば、この歌集は、2016年2月に読売文学賞の詩歌俳句賞を受賞している。

 

 2016年当時、私は、この連作を読んで、あまりのベタな内容に呆れてしまった。

 自転車、川のほとり、そして砂糖パン。あまりにシチュエーションがベタなのだ。

 例えば、これが、小説世界だったらどうだろう。このエピソードだけを掌編にするなら、あまりにつくり事めいて白けてしまうんじゃないかしら。あるいは、映像作品だったらどうか。やはり、悲しみの戯画にしかならないと思う。砂糖パンなんて、いかにも貧乏ったらしくて、これでは泣けないし、逆に、白けた笑いを生み出すかもしれない。

 つまり、ベタすぎ、作り事すぎるのだ。今どきこんな話、小説なら即ボツ、映像でも画にはならないと思う。

 けど、短歌なら成立する。

 小説や映像だったらベタすぎて白けても、短歌なら「泣ける」のだ。

 これが、短歌の「私性」の揺るぎなさなのだ。

 この「私性」というのは、「作者」イコール「主体」という「私性」であり、この歌の主人公は作者の小池光で、その実体験が詠まれているんですよ、という「近代短歌」のお約束がそうさせている。登場人物が実名で出てくるし、そのうえ、妻の死というゆるぎない厳然たる事実があるから、これは、ホントのことだ、と読者は信じる。フィクションならヘタくそな舞台装置でも、短歌の世界ならホントのことだと信じちゃうから、しみじみと思うのである。装置としての歌集の作用である。

 けど、「泣ける」理由がそうした<リアリティ>にあることは分かったが、なぜ短歌は、安易に「近代短歌」のフォーマットである「作者=主体」という<私性>にこだわるのだろう。

 この疑問、2016年当時の私は分からなかった。どうしてだろう、と宙ぶらりんのままでそれ以上は分からなかった。

 けど、5年たって、ようやく分かった。疑問は氷解した。

 それは、短歌の読者が<リアリティ>を欲しているからなのだ。つまり、読者の側が、これは、「ホント」のことであって欲しいと願っているのだ。

 つまり、読者が、ああ、この歌の内容は「ホント」のことに違いないと確信しているから、存分に心が揺さぶられるのだと思う。これが、何かウソっぽいとほんの少しでも疑念を抱いたら、それはもう、歌の内容を信用しなくなる。

 こうした心象は、小説世界や映像世界を連想すればいいだろう。小説や映像は、いかにしてリアルに表現するかが至上といってもいいのではないか。そうすることによって、読者や観客がその世界に没入して心が揺さぶられるというわけだ。あるいは、映画や演劇の俳優の演技を例にあげてもいいだろう。巧い役者、下手な役者の違いは何か。といえば、いかに、その役をリアルに演じれるかどうかというのが、演技の旨い下手ということなんだろう。

 短歌では、そうした<リアリティ>が、すでに装置として出来上がっている。すなわち、先に述べた「近代短歌」のフォーマットがそれだ。その装置に読者は乗っかって、「ホント」のことに違いない、と確信しているのだ。

 けど、その確信はどこからくるのだろうか。あの砂糖パンのエピソードが、ホントかどうかなんて、結局、証明しようがないではないか。であれば、読者は、「近代短歌」のフォーマットに乗っかって、作者の人生の「ホント」のことだと、信じるしかないのだ。そういうわけで、この「近代短歌」に基づいた<私性>というのは、なんというか、<「ホント」信仰>みたいな感じが私にはする。

 歌集の「あとがき」読みも、結局はそういうことなのだろう。「あとがき」を読んで、作者の「ホント」を知って、一首を読みなおすというのは、一首の内容が作者の心のうちのどこら辺にあるのかを確認したいからなんだと思う。そういう作業をすることで、読者は安心したいんだろう。この歌の、「ホント」はどの程度なんだろう、みたいな感じか。けど、そんなこと、小説世界では考えにくい。そもそも小説はフィクションなんだから。いちいち、これは「ホント」かどうかなんて確認しながら読むことはない。けど、短歌は、完全なフィクションとして、つまり小説を読むように短歌が読まれないのは、この「近代短歌」のフォーマットが読者にとってものすごく強固なものだからなのだろう。

 それはともかく、今回の砂糖パンの一連のような、ばりばりの「作者」イコール「主体」といった「近代短歌」フォーマットで詠まれている作品群について、読者が、これは「ホント」のことに違いないと確信したいのは、結局のところ、<リアリティ>を欲しているからだということに尽きよう。で、「ホント」だから、安心して、その世界に没入して心を揺さぶってもらうのだ。

 だから、繰り返しになるが、「砂糖パン」のような、ベタな内容でさえ、それが「ホント」のことだ、と確信するから、「泣ける」のである。

 ただ、そうした「作者」イコール「主体」という「近代短歌」のフォーマットが、短歌という文芸ジャンルにとって、果たして良いことなのかどうかは、今の私には残念ながら分からない。あと、5年たったら分かるかもしれないが。