音楽をうたった歌に出会うことがあります。
有名なところではこんな歌です。
たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美
この歌、一般的に名歌ということになっています。たとえば、永田和宏はその著「現代秀歌」(岩波新書)で、巻頭歌としてこれをあげ「近藤芳美の代表作のひとつであり、戦後短歌の出発を伝える歌であり、さらに戦後の相聞歌を代表する一首ともなった記念碑的な歌である」と絶賛しています。
私にはどうにもキザッたらしいという感覚なのですが、永田をはじめ、現在でも多くの人が「良い」というので名歌になっているのでしょう。
それはともかく、下句です。「或る楽章」です。「或る楽章」というのですから、クラシック音楽なのでしょう。ここでは、軽やかなハイドンとかモーツアルトではなく、ベートーヴェンやブラームスのシンフォニーのような重厚な感じが合っているように思います。で、そんな楽章を作者は「思ひき」。つまり「思った」というわけです。
ここに私は引っかかります。それって「思ふ」ものなのでしょうか。
音楽は「思う」もの?
どうでしょうか。
私は、音楽というのは、普通一般に言う「思う」とは違うものと考えます。感覚的に言うと、頭のなかであれこれと思い浮かべるのではなく、気が付けば、すーっと頭の中を流れてくるもの、といった感じです。
言い換えると、「思う」とは、言葉を思い出すといったように「言語」の記憶でありましょう。あるいは、風景や情景、幼き日の思い出といったように「視覚」の記憶に対しての想起がしっくりくる。
一方、音楽というのは、聴くものですから「言語」や「視覚」の想起とは違う。もちろん、音楽も記憶することには違いがありませんので、頭のなかで記憶された音楽は「思い出す」ものでしょう。しかし、「言語」や「視覚」の記憶の想起とは、違ったものではないか、というのがここでの私の疑問です。
近藤の歌に戻ると、君の姿が霧にとざされてしまったのを見て、われは或る音楽を思った、というのではなく、或る楽章が頭のなかにすーっと流れてきた、といった感じのほうが、よりしっくりくるのではないでしょうか。ですので、結句の「思ひき」は人間の感覚としては違うのではないかというのが、私の意見です。
しかし、この歌、トリックとまではいきませんが、実は、この「思ひき」にちょっとした仕掛けがあります。
それは、どういう仕掛けかというと、この「思ひき」によって、読者は、それはいったい何の楽章なのだろうと「思ってしまう」のです。「或る楽章」と匿名にしていることからも、近藤は、それを狙っているのはたしかでしょう。そうして、読者は、どんな楽章なのなかあと、あれこれ想像してしまうのです。さっきの私のように、ベートーヴェンかな、ブラームスかな、といったみたいに、「思ひき」で、まんまと作者の意図にのってしまうというわけです。
今回から不定期で音楽の話をしていきます。これには、私の短歌に関する問題意識があります。それは「短歌で音楽をいかに表現するか」という問題意識です。次回は、この辺りのことのお喋りからはじめます。
「かぎろひ」2015年7月号