短歌の「読み」について①

 今回は、予定を変更して「読み」の話題について議論しよう。

 角川「短歌」4月号時評、鶴田伊津「ひとかけらの真実」(2020.4)に次のような「読み」の話題がある。

 

 その頃(二〇年以上前―引用者)の批評会は、もう少しテキスト寄りであった。助詞・助動詞の使い方の細かい指摘や表現上の粗さ、癖などを厳しく読み、やわらかい雰囲気というより、多少張りつめた空気の中で一冊が語られていたように思う。
 しかし、最近の批評会はもう少し読み手の自在な読みが展開されることが多いようだ。読み手が歌を自分の側に引き寄せて、その歌を喰らいつくすような。歌を読むというより、歌を通して読み手自身の短歌観を聞いているような。どう読むかにとどまらず、どこまで読めるか、を目指しているような。その分、引用される歌にも詠み手の個性が表れて、同じ歌集からの引用でも全く違う雰囲気の歌が並ぶこともあり、面白くもあるのだか、面白がっていいのかという懸念もある。
(中略)
 歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよいのではないか。
(鶴田伊津「ひとかけらの真実」角川「短歌」2020年4月号)

 

 鶴田が言うには、20年くらい前の批評会での読みは、今と比べてもう少し「テキスト寄り」だったという。つまり、歌を「テキスト」ととらえ、一首を分析的に批評したということだろう。
 しかし、今は、「読み手の自在な読み」が展開されることが多くなったという。
この議論について、この先の議論の都合上、前者を「テキスト寄りの読み」、後者を「読み手の自在な読み」と名付けよう。

 さて、私は、この鶴田の文章を読んで、ああ、まだ短歌の「読み」の議論は深まってないんだな、と思った。
 というのも、この鶴田の話題と同じ話題を、数年前にツイッターで読んだ記憶があったからだ。それが、斉藤斎藤が2017年7月24日のツイートだ。

 斉藤斎藤は、自身のツイッターのツイートで「批評」を3つに分ける。
 すなわち、「作者主義」「読者主義」「いいね主義」の3つである。
 斉藤は言う。

 

作者主義における「批評」とは、①テキストから「作者がやりたかったであろうこと」を推測する。②「やりたかったであろうこと」とテキストを比較し、その実現度を判定する。③作者が初心者と思われる場合、「やりたかったであろうこと」をもっとうまくやる方法を例示する。みたいなことです。
読者主義における「批評」とは、①テキストから可能な読みを、最大限に引き出す。②批評は「作者がやりたかったであろうこと」と関係なくてもよい。③むしろ、「やりたかったであろうこと」とかけ離れた読みも可能にするテキストを、クリエイティブなテキストとして評価する。みたいなことです。
いいね主義における「批評」とは、①いいと感じた歌に「いいね」を押す。②一読してすぐ「いいね」を押せる歌がいい歌。「いいね」の数でいい歌が決まる。③「いいね」と感じない歌について語ることに、あまり意味はない。みたいなことです。
で、すこし前まで歌会には作者主義のひとしかいなかったんですが、ツイッターとかで参加のハードルが下がり、読者主義やいいね主義のひとも参加するようになった。すると「批評」のすれ違いが起こります。
たとえば、「一首のうちの一つの単語から連想をひろげ、(作者の意図をはずれた)自由な読みを披露する」ことは、読者主義においては真っ当な「批評」であり、作品へのなによりのご褒美だったりもするわけですが、作者主義の歌会では「脱線ですよ」とたしなめられてしまいます。たしなめられた人は「権威主義(怒)」となってしまったりもするんですが、それは個々の作者を尊重しようとする作者主義のあらわれであって、特定のひとがえらぶる権威主義とは違うんですよね。
斉藤斎藤の2017年7月24日のツイート)

 
 斉藤によると、歌会には「作者主義」しかいなかったという。それが、「読者主義」と「いいね主義」が出てきた。ただし、「いいね主義」については、これ以上の言及はないので、いまひとつ、私はピンとこない。
 それはともかく、この斉藤のツイートは、鶴田の議論と重なるところが多いだろう。特に、鶴田「読み手の自在な読み」と斉藤「読者主義」は、同じ事象のことを言っているのではないかと私には思われる。

 なお、この3つの「読み」について、斉藤は、どれも否定的に述べていいるわけではない。
 せっかくだから、ツイートの続きをあげておこう。

 

で、三つの「批評」はなかなか相容れにくいところはあるんですよね。それぞれ交流を持ちながらも、ゆるくすみ分けるのがいいのかな、という気はしますかね。そんなかんじです。で、わたし個人はハードな作者主義というか、「作者のやりたいこと」をやりきってる歌=いい歌、という立場。なので歌会は、最初のうちはいろいろ行くといいけど、行き過ぎるのもよくないのかなと。歌会に出過ぎると、目の前の読者にとらわれ過ぎて、「やりたいこと」の牙を抜かれる場合があるので。ついでに言うと、わたしは作者主義者である以上、読者主義者やいいね主義者を作者主義者にしようとしません。読者主義の実作者の「やりたいこと」が、「読者の自由な読みをできるだけ引き出す歌をつくる」ことなら、徹底的にやればいいと思います。本人のやりたいようになるのが、いちばんです。
(2017/7/24)

 

 さて、斉藤や鶴田の提供している「読み」の問題。これ、最初に論考で世に説いたのは、大辻隆弘じゃないかと思う。(大辻「三つの『私』」(短歌研究、2014年11月号)『現代短歌の範型』(六花書林、2015年所収)。
 大辻は、この論考のなかで、21世紀の短歌の「読み」について次の論点を提出したのだが、それを引用する前に、まず、私なりにまとめた、それまでの「読み」を確認しよう。
 まず、これまでの近代短歌の「読み」というのは、一首の中の「私」というのは、とりもなおさず、作者そのものであった。つまり、斎藤茂吉の歌に出てくる「私」の感慨は、斎藤茂吉そのものの感慨として、読者は「読む」。『みだれ髪』の「私」は、与謝野晶子だし、『サラダ記念日』の「私」は俵万智だ。少し乱暴に言うと、近代短歌は「私小説」を読むように鑑賞すればよいのである。
 しかし、前衛短歌運動は、この近代短歌の「読み」を否定しようとした運動だ。
 塚本邦雄の作品の「私」は、塚本自身ではない。つまり、作者と作品の「私」を切り離す試みだったのだった。ものすごく乱暴に言うと、前衛短歌は「一人称の小説」を読むように鑑賞すればいいのである。
 ここまでが、私なりにまとめる、大まかな従来の「読み」だ。
 これを踏まえて、大辻の「読み」をみてみよう。大辻によれば、21世紀に入って、短歌の「読み」には、2つの変化が起こっているという。すなわち、「刹那読み」と「物語読み」の2つだ。

 大辻は言う。

 

 「刹那読み」とは「私①」(一首の背後に感じられる「私」のこと―引用者)だけに注目する読み方のことである。現代の短歌の読者たちは、ともすれば一首の歌のなかの「作中人物」が、どれだけ衝撃的な発言をし、どれだけ意外性のある行動をするかということに多大な関心を寄せる。(中略)彼らにとっては、一首の歌を読んだ刹那に感じる衝撃力だけが重要であり、「私像」や「作者」には興味を持たない。(中略)今世紀に入って若い読者の間で顕著となってきたこのような歌の読み方を、私は「刹那読み」と呼びたいと思う。
(大辻『現代短歌の範型』六花書林、2015年)。

 

 一方、これとは対照的に、近代短歌の「読み」以上に、作者や連作や一首の「私」を強固に結びつけ、がちがちに固まった定式のもとで作品を読もうとする「読み」を「物語読み」と名付ける。
 ここで、大辻は大口玲子の一首、ならびに歌集、ならびに大口本人を例にあげて、次ように言う。

 

 たとえば、大口玲子の一首を読み、そのなかの「作中主体」の行動に感心し、歌集『トリサンナイタ』の背後にある「子どもを放射能から守るために放浪を決意する母親」という「私像」に共感する。さらに、その「私像」を「大口玲子」という生身の個人と同一視し、その行動に喝采を送る。(中略)そんな「物語読み」も、現在、勢力を増してきているように思う。
(大辻、前掲書)

 

 以上、大辻は「刹那読み」「物語読み」という2つの「読み」を提出した。
 どうだろう。大辻の言う「刹那読み」というのは、鶴田の「読み手の自在な読み」や斉藤の「読者主義」と重ならないだろうか。私には、この3者は、同じ事象についてそれぞれが言っているように読めるのだ。

 ところで、この大辻の論考で、「刹那読み」「物語読み」についての大辻の論評はない。すなわち、この2つの「読み」に、氏は、いいも悪いも言っていない。
 ただし、文章からは、どちらも否定的な雰囲気は感じる。どうも、はっきりとは言っていないが、どっちの「読み」についても否定的なようだ。
 大辻は、「刹那読み」のように「私像」や「作者」に興味を持たないのも、近代以降脈々と続いていた近代短歌の「読み」の伝統からして、どうかと思うし、一方で、「物語読み」も、せっかく前衛短歌で作者と作中主体を切り離して短歌の「私性」について深まってきているのに、先祖返りもはなはだしい、といった感じで、どっちも否定しているように感じる。

 …と、話は佳境に入ったところであるが、けっこう紙幅を費やしたので、今回は、ここまでにします。

 

短歌は芸事である

 短歌は「芸事」である、の話の続きである。
 そもそも「芸事」と「芸術」はどう違うか。
 たとえば、美術というジャンルについて。
 私は美術には明るくないが、美術大学というのがあるんだから、美術には普遍的な理論があるんだろう。つまり、その道の研究者であれば誰もが等しく理解し、人に順序だてて説明できるような理論である。今風にいえば、コンテンツとして成立しているのが、美術のような芸術分野なんだろう。だから、ごく基本的なデッサンとかは、コンテンツとして、だれが教えても同じものなんだろうと思うし、一流講師と二流講師の違いは、教え方の上手さの違いであって、教えられる側が到達すべきデッサン力といったようなものは同じなんだろう。
 西洋音楽芸術もそうだろう。技能的なものであれば、演奏だろうが作曲だろうが、メソッドが理論として確立されているから、それを逸脱して音楽表現することは不可能であろう。こちらも、より高度なレッスンを求めて海外へ音楽留学したりするけど、基本的なレベルであれば、どこで学んでも同じということがいえよう。
 そういうわけで、「芸術」というのは、きちんと理論化できるから、高等教育機関で専門的な学修ができるのである。もし、霊験あらたかなる者だけが真の芸術に到達できる、ということならば、この世に芸術学校が存在しようがない。
これが「芸術」の基本的なとらえになる。
 一方で、「芸事」はどうだろう。
 例えば、「お花」なんていうのがあるが、私はもちろん明るくはないが、あれは、それぞれに「流派」というのがあろう。そして、それぞれの「流派」には、「お師匠さん」がいて、その「お師匠さん」の手ほどきで習うのであろう。もちろん「流派」が違えば、作法も違うし、形式も違うし、何をもって良いのかも、違ってくるだろう。だって、普遍的に良い、という基準があるのだったら、そもそも「流派」はいらない。誰もが、共通のやりかたで教えることができるし、誰もが同じように習うことができよう。
 こうしたことは、「お花」に限らず、「日本舞踊」や「茶道」や「書道」あたりにも共通すると思われる。
 これらの「芸事」と「短歌」というのは実に似通っている、というのが私の主張である。
 すなわち、「短歌」もお師匠さんがいて、その流派にしたがって歌を詠むということである。その、お師匠さんのもとに集まることで「結社」ができて、選歌や添削によって、お師匠さんに歌を教えてもらうのである。そして、何度も繰り返すが、短歌の良い悪いの基準はこの世に存在しないのだから、お師匠さんが良い、といった歌が秀歌となるのである。
 10人いれば10通りの歌の基準があるというのも前回言った通りで、人によって「いい歌」でも、別の人なら「たいしたことない」、ということになるのだ。
 これは、美術や音楽といった芸術分野ではありえないことと思う。
 けど、芸事なら普通にあり得るだろうと思う。
 時々、若い歌人に「歌人」と「お笑い芸人」を比較して論評する文章が見受けられるが、これは、比較対象として正しく、面白い議論ができると思う。少なくとも、「短歌」を「文学」や「芸術」だととらえて論評している文章よりは実りのある内容になると思う。
 そういうわけで、短歌というのは、「文学」はおろか「芸術」活動でもない、「芸事」である、というのが私の主張である。

 なお、歌人の中には、「結社」に入らないで、一人で作歌活動をしている歌人がいる。こうした歌人は、これまで議論してきた歌人とは、同じ歌人でも違う。こうした歌人の作品も「芸事」なのか。
 …と、考えると、結社に入っていない歌人の作品というのは、これは、「文学」といえるでしょうな。
 けど、そうした無結社の人間が作る短歌を「文学」とするなら、私は、そういう作品は、「短歌」とは別の短詩型文芸とでも規定したいと思っている。
 少し、話にまとまりがなくなってきたので、こうした無結社の歌人について、話を整理して次回に議論してみることにしたい。

 

結社とは何か?

 短歌の世界には「結社」というのがある。
「短歌結社」とは、何だろうか。「短歌同人」「短歌同好会」「短歌サークル」とは違うのであろうか。
 答えを先に言うと、そうしたものと「短歌結社」は決定的に違う。
 違うからこそ、「結社」という名称で、「あさ香社」や「竹柏会」の時代から、120年以上たった現在まで「短歌結社」は存在し続けているのである。
 とりあえず、「短歌結社」の一般的な概念をみてみよう。
 三省堂の『現代短歌辞典』から「結社」の項を引用する。執筆は、来嶋靖生

 

 特定の目的や関心にもとづいて結合した集団で、目的実現のための組織を持ち、所定の活動をする。短歌の場合はある指導的歌人を中心に、志を同じくするものが集まり、機関誌を発行し、歌会をおこなうのが基本的活動とされるが、時代とともに変容もみえる。

 

 辞典だけあって、過不足なく模範的な記述である。
 来嶋の言う、「特定の目的や関心」というのは、短歌のジャンルのなかでも、とある流派というとらえでよいであろう。そこに、「指導的歌人」がいて、その歌人の流派というか、歌風というか、それに賛同するのが集まって、「機関誌」の発行や「歌会」をするというのが「結社」の「基本的活動」といえよう。
 しかしながら、これでは、「短歌サークル」や「同好会」との区別がいまひとつつきにくいかもしれない。とくに、結社の「機関誌」である、「結社誌」と、短歌愛好者が集まって発行する「同人誌」の違いは、明確ではなかろう。
 そうなると、「短歌結社」とそのほかの「短歌愛好会」との違いをきちんと明示したほうがいいだろう。
 「短歌結社」と「短歌愛好会」の違いとは何だろう。
 それは「選歌」と「添削」の有無だ。
 この2つがあるのが「結社」で、ないのが「愛好会」だ。
 どうだろう。実に、わかりやすいでしょう。
 ひと昔前までは、これに来嶋の言う「歌会」が加わっていたが、今は、超結社の歌会や誰もが参加できるネット歌会がおこなれているので、「歌会」を結社の条件からは外すことにしたい。
 大体、「結社」に属している歌人でさえ、何か「結社」というのは、歌人同士の相互扶助組織みたいなものと思っているきらいがあるが、それは大きな間違いである。「結社」には、「結社」の目的があり、それが目に見える形であらわれているのが「選歌」と「添削」なのだ。
 「選歌」と「添削」の2つが、「結社」とそれ以外を隔てるものだ。すべての「結社」にはこの2つが必ずある。別の言い方をすれば、「選歌」と「添削」がなければ、それは、「結社」とはいえないのだ。
 まずは、「選歌」。
 なぜ、結社誌には「選歌」があるのか。
 結社誌に「選歌」があるのは紙幅の関係なのかな、と、思う人もいるかもしれないが、だったら、はじめから1人5首までとか、規定すればいいだけである。そうではなく、例えば10首投稿しても、選歌されて8首に絞られるのはなぜか。
 それは、出来の良い歌を載せて、出来の悪い歌は載せないからである。しかし、この出来のよい、というのが、歌の世界では実に曲者で、何をもって出来がよいか、という客観的説明は絶対にできない。つまり、歌人によって出来の良さの基準が違うのである。たとえばここに歌が10首あって、出来の良い順番に並べろ、といわれたら、100人の歌人がいれば100通りの順番になるのだ(と、いうのは、言い過ぎか。けど、10人の歌人がいれば10通りの順番にはなると思うよ)。
 とにかく、何をもって出来が良いとするか、という基準がないのだから、もはや好き嫌いのレベルといってもいい程度なのである。
 けど、それでも良い悪いの判断をつけるとするなら、どうするか。というと、その結社で、いちばん短歌がうまいと認められる人に選んでもらうのが妥当なところだろう。これが選歌なのである。そのいちばん短歌がうまいと認められる人、というのが、結社の主宰者、ということになり、その主宰者のオメガネにかなった歌がめでたくその結社誌に載る、ということになるのである。そして、繰り返しになるが、そのオメガネは人によって違うから、ある結社では褒められても、別の結社なら貶される、ということも普通にあるのだ。
 であるから、選歌というのは、この結社では、こういう歌が、出来のよい歌なのである、という基準を示す、というとても重要なものであり、選歌がないと、出来の良さの基準が無くなってしまうので、結社の体をなさない、というわけだ。
 「添削」も同様である。
 「添削」というのは、出来の悪い歌を出来の良い歌に直すことをいう。しかし、繰り返しになるが、出来の良い基準というのは、この世に存在しないので、どこをどう直したら出来の良い歌になるか、なんていう説明は絶対にできない。であるから、ここに出来の悪い歌があるとして、10人の歌人が添削すれば、10通りの添削後の歌が存在することになり、それは、どれも違ったもの、ということになる。すなわち、歌人によって何を出来が良いとするか、というのは、それだけ違うものなのだ。
 しかし、そんな「みんな違ってみんないい」といった状態だと、収拾がつかなくなるので、やはり、権威のある歌人の「添削」が素晴らしい、ということにして、その権威は「結社」の主宰といったところに落ち着かせるといいだろう、ということになっている。「選歌」よりも「添削」のほうが、結社の歌風というか、流派が色濃くでてくるであろう。

 と、いうわけで、「選歌」と「添削」の有無が「結社」とそのほかの「愛好会」とか「サークル」とか「同人」といった団体の違い、ということになる。
 で、こうした「結社」が令和の現在でも短歌の世界ではごく普通に存在しており、毎月、何十という「結社誌」が日本全国で発行されているのである。

 さて、こうした短歌の活動、すなわち「選歌」とか「添削」なんていうシステムがあるジャンル、これを果たして「文学」と呼べるのだろうか。
 私は、とてもじゃないけど、そんな権威性におもねった組織に属している者の創作物を「文学」と呼ぼうとは思わない。そんなもの「文学」から程遠い、と思う。
 
 では、短歌は「文学」でないなら、どうジャンル分けをしたらいいか。
 私は、「文芸」というのがいちばんしっくりするだろうと思う。

 短歌は「文芸」である。と、主張しよう。
 「文芸」の「芸」というのは、「芸術」ではない。私としては、「芸事」の「芸」。つまり、短歌は私に言わせればあれは、「文学」なんかじゃなくて、「芸事」だよ、ということだ。
 私が短歌を「芸事」である、という理由について、次回、また、エンエンと述べていくことにしたい。

短歌は文学か?

  短歌とはどのような詩形なのか。
 ということを、前回までは、短歌の「調べ」について、なかでも「リズム」についてお喋りをしてきた。
 昨年末から長々と続けてきたのだが、今回からは違う話題で、短歌について考えていきたい。
 さしあたっては、他の文芸ジャンルと比較しながら、「短歌とはどのような詩形なのか」について、これからしばらく議論していくことにしよう。

 短歌は文学か?

 短歌を「文学」だと考えている歌人がいる。
 私は、「そうですか、あなたの作品、それって文学だったんですか、へえ」とハラの中でつぶやく。もちろん、皮肉である。
 私は、自分のやっている短歌が「文学」行為だとは、ただの一度も思ったことはない。
 なにより、私の歌を読んで「文学」だと思う奴なんているわけがない。

 では、短歌とは何か。
一応、私には、私なりの答えがあるのだけど、もう少し、答えを先延ばしにして、まずは、じゃあ「文学」とは何をさすのか、ということについて考えてみよう。

 どの作品が「文学」で、どの作品が「文学」じゃないのか。
 とっつきやすいジャンルとして「小説」で考えてみよう。一口に小説といったって、高尚なものから低俗なものまで幅広くある。
 近代小説の大家、誰でも知ってる作家、例えば、夏目漱石森鴎外志賀直哉あたりの小説、あれは、「文学」か。というと、ほぼ100%「文学」と答えるでしょうな。
 では、ぐっと現代になって、大江健三郎川端康成谷崎潤一郎は、というと、大江や川端はノーベル「文学」賞なんてもらったりしてんだから、彼らも、「文学」でしょう。あるいは、ノーベル賞候補になっているらしい村上春樹も、「村上文学」なんて言葉があるくらいなので、誰もが「文学」と認めるのだろう。
 じゃあ、渡辺淳一あたりはどうでしょうね。「失楽園」とか「化身」とかの恋愛小説を書いた人ですが。札幌には「渡辺淳一文学館」てのがあるので、渡辺の作品を「文学」とみなしている人がいるわけですが、一方であれは「文学」じゃない、という人もいそうですな。
 それから、松本清張はどうでしょうかね。今調べたら、小倉に氏の記念館がありました。説明には松本清張の業績を展示している文学館とあるので、氏も文学者として扱っている人がいるわけですが、氏の推理小説を「文学」というのは、はばかられると言う人もいるんじゃないでしょうかね。
 推理小説でいうと、松本清張のほかにも、西村京太郎とか赤川次郎が有名であるが、彼らの小説は「文学」とは言えないでしょうな。
 そうなると、どうやら小説といってもいろいろな小説があるわけで、ある小説は「文学」で、ある小説は「文学」じゃない、ということになって、「文学」の線引きは人によって違うんじゃないでしょうかね。
 いやいや、純文学と大衆小説とか中間小説とか、ジャンルがあると言う人もいるかもしれませんが、じゃあ、山田詠美小川洋子あたりは、どうしましょうね。他にも純文学なのか中間小説なのか、はっきり線引きできない作家はたくさんいることでしょう。

 で、何がいいたいのかというと、「文学」の線引きは、人による、ということ。
 つまり、何をもって「文学」と呼ぶのかは、人によって違う。辞書的な意味はあると思うけど、どれを「文学」として、どれを「文学」としないかは、人によって違う、のである。

 じゃあ、「短歌」は、どうであろうか。
 やはり、これも、人によって「文学」と言う人と、私のように「文学」じゃない、という人がいる、ということである。
 
 ここから先は、「短歌は文学である」、という命題の反駁をエンエンと続ける予定であるが、それは次回にしたい。

小池光「短歌を考える」を考える⑦

 さて、増音の次は減音である。

 小池によると、
初句減音
結句減音
二句減音
四句減音
三句減音
 の順番に重要ということのようだが、この重要度は話が進んでいくうちに、忘れられてしまって、初句減音以外は、全部禁制、ということになってしまった。
 つまり、小池によれば、初句4音は許容されるが、のこりの減音はダメ、いうことである。

 

 初句減音は、小池によると「これは日常使える、唯一の、減音破調である」とのこと。
 唯一と言ってんだから、残りは使えない、ということなのだろうが、それはともかく、次の2首をあげる。

 

さねさし相模の小野にもゆる火のほなかに立ちて問ひし君はも
しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ

 ご承知のように、2首とも枕詞の4音。
 やはり、古典の朗々とした韻律に頼るしか4音は「調べ」として成立しないようである。

 

2句減音
 例歌なし。
「これは非常に禁制度大である」「全く不可能とは思わないが、まず、有り得ない破調と断定してよい」とのこと。

 

3句減音
「これは全く不可能である」と言うとおり、例歌もない。

 

4句減音
「二句減音型と同じことが云え、加えて、下句の加速度を失わしめるため更に禁制度が高いように思えるが、意外とそうではない」
ということで、山中智恵子の『紡錘』から三首あげている。

春の獅子座脚あげ歩むこの夜すぎきみこそはとはの歩行者
紡錘絲ひきあふ空に夏昏れてゆらゆらと露の夢たがふ
一枚の硝子かがやき樹を距つむしろひとに捨てしは心

 

 「キミコソワ」「ユラユラト」「ムシロヒトニ」で五音も六音も許容できるようである。

 

結句減音
「それほど禁制度が高いとは思えないが、あまり引用したい例がない」として、一首だけあげている。

亡き母よ嵐のきたる前にしてすみ透りゆくこの葉は何 
浜田到

 

「コノハワナニ」の六音。

 

 そういうわけで、小池は、初句4音以外は、ごく例外を除いて使えない、という立場である。
 私は、現代短歌でいえば、初句4音もダメだろうと思う。結局のところ、「短歌は字足らずよりも字余りの方がよい」という、わざわざ検討しなくても、実にありきたりな結論になってしまった。
 ただし、私も小池と同じく、2句減音、3句減音はダメとは思うが、下句の減音は結構いけるのではないかと思う。特に結句5音、結句6音は十分検討の余地があると思われる。
 けれど、この仮説にしても、例歌を集めて音型を分類していかないと「調べ」の検討にならないので、いずれの機会ということになりそうである。

 「調べ」については、いくつかの収穫もあったので、ひとまず、終わりにしようと思う。


 

小池光「短歌を考える」を考える⑥

 前回からの続き。

 

E4句増音

 

 増音の最後は、4句である。これが、もっとも許容される「破調」であるという。
 それは、「下句の七七が、たたみかけ、加速度感を持つ傾向にあるため、一層自然に四句の増音が可能になっている」からだという。
 つまり、もともと下句は加速度感があり、増音になれば、それだけ速く読むから、効果的であるということだ。
 さらに、四句を増音にすることで、「必然的に、同じリズム、同じ速度で読むべき結句を、相対的に長びかせる」ことができ、「結句がより重く、もつたいぶつてきこえる」という。
 では、小池のあげた例歌より、検討しよう。

 

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり
監獄に通ひ来しより幾日経し蜩啼きたり二つ啼きたり
あま霧し雪ふる見れば飯をくふ囚人のこころわれに湧きたり
秋づけばはらみてあゆむけだものも酸のみづなれば舌触りかねつ
氷室より氷をいだし居る人はわが走る時ものを云はざりしかも
ふゆ日とほく金にひかれば群童は眼つむりて斜面をころがりにけり
死に際を思いてありし一日のたとえば天体のごとき量感もてり

 

順に「キョージンワ/ツイニ・」
「カナカナ/ナキタリ」
「ジュージンノ/ココロ・」
「サンノミズ/ナレバ」または、「サンノ・/ミズナレバ」
「ワガハシルトキ/モノヲ」
「メツブリテ/シャメンヲ」
「タトエバ/テンタイノゴトキ」

「キョージンワ/ツイニ・」は、53型でもたつきの8音。「カナカナ/ナキタリ」は44型の問題のない8音。「ジュージンノ/ココロ」は53型のもたつき。「サンノミズ/ナレバ」は35型あるいは53型でもたつき型。
「ワガハシルトキ/モノヲ」は、10音で完全な字余り。
「メツブリテ/シャメンヲ」は、「メン」を1音で無理やり発音すれば、8音だが、調べはかなり苦しい。
「タトエバ/テンタイノゴトキ」12音。「テン」「タイ」が1音でいけるとしても、完全な破調。「調べ」以前のはなし。
 ということで、4句8音なら、44型はもちろん、35型や53型でもいける。26型については例歌がないので、検討はできないが、たぶん、6音を33型に分けて、233型とかに分解して読み下せるのではないかと思う。
 あとの9音以上になると、苦しいだろうというのが、私の見解である。

 

 ここで、結論をみよう。

 まず、小池のまとめを引用しよう

 

A初句増音:七七五七七が自然な破調、六七五七七は要注意
B三句増音:高度のテクニック。五七六七七のみ可能と思ってまずわちがいはない。それ以上はウルトラC
C結句増音:流れどめ、抒情の阻止機能。五七五七八にとどめるのが無難
D二句増音:かなり自由。十音位までは可能
E四句増音:一番自由。十音はらくらく可能。結果へのなだれ込み方により加速度を与える。

 

 これを踏まえて、私の見解を述べる。

Aの初句増音については、小池とは見解が異なることはすでにのべた。
Bの3句増音は、高度でもなく、33型の「トマトトマト」型なら、3句増音はOK。24型42型は例歌がないところをもって、不可であろう。
Cの結句増音は、小池と同意見。
Dの2句増音は、8音まで。
Eの2句増音も、8音までである。

 

 そういうわけで、結論としては、3句6音以外は、残りは、8音までならいけるのではないか、というのが、私の見解だ。

 

小池光「短歌を考える」を考える⑤

 破調の話の2回目である。

 小池光「リズム考」(「短歌人」1979.7~1980.12)より。

 

C結句増音
 小池光が、初句増音、3句増音に続いて重要とする破調は結句である。
 結句7音節は、4拍子説で言えば、8音までであれば、44型、35型、53型など十分増音が可能と思われる。
 小池も、「原則としてせいぜい一音の増加が許容範囲と思う」と言っている。
 例外として、春日真木子の次の歌をあげる

 

春の雪積む窓枠のほのめけりわれらは入らむ草食獣の眠りに

 

 結句、「ソーショクジューノネムリニ」が11音となっている大破調である。
 4拍子説でとれば「ソー/ショク/ジュー/ノ・/ネム/リニ」6拍。
 小池は「こういうのは例外中の例外であろう」と言い、言外にこれは短歌としては「OK」と認めているが、なぜ、例外なのかの説明はない。
 各自で考えろということのようである。
 私は、考えたけど、分からない。
 原則論を貫くのであれば、これは、短歌ではなく、<短歌ではない別の短詩>というしかない。
 ただし、なにか「長音」「拗音」「長音+拗音」がうまいバランスで並ぶと、字余りだけど「調べ」が良くなる、という仮説は立てられるかもしれない。この点は、覚えておいていいかもしれない。けど、繰り返すけど、こういうのは「短歌」と呼ばないほうがいいと思う。

 さて、小池が成功例として挙げているのは、まず、この歌だ。

 

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽れたり

 高野公彦

 

 結句「ウミニカクレタリ」が8音の字余りである。
 2音1拍の4拍子説でいうと「ウミ/ニ・/カク/レ・/タリ」の5拍だ。けど、誰もこんな拍節で読むわけがない。つまり、4拍子説は説としてはポンコツである、といういつものハナシである。
 ここは、「強弱2拍子」で読むといい。
「ウミニ・/カクレタリ」で5音のところを5連符で読み下す。
 であれば、少しモタつくが、そんなに「調べ」は悪くない。
 ちなみに、小池は、この8音の効果を「抒情性に対する『流れどめ』として有効性を発揮」していると説き、その効果をかなりの紙幅を使い力説しているが、それは、「リズム」論としては全く理論的ではなく、小池の一首評をとくとくと述べているにすぎないと思われるので、ここでは、引用もしないし、検討もしない。
 
砂庭の夕日において爪きればすでにほろべる爬虫類のこゑ 
前川佐美雄
わが額にぶち当り割れし濁流の一条は朱く天を走りをる
森のなかむくろじの黄葉(もみじ)怪しくも夕べを照らす二十分ばかり
いともゆるきこの歩はこび見つむるは秋の空間のあなたであらふか 
森岡貞香

 順に、「ハチュールイノコエ」8音。指をおったら8音節だけど、普通に読んでも7音節定型に読める。「ハチュールイノ/コエ・・」。これは、「チュー」の「拗音+長音」の音に仕組みがありそうだ。「ルイ」もとても響きがよくて、「ル・イ」と2音節で読むのではなく、「ルィ」と1音節で読めそうな感じである。そのあたりのところに、7音節でごまかせそうな仕組みが見え隠れしている。
 二首目、「テンヲ・/ハシリオル」これは5音がもたつく。さっきの高野公彦の歌と同様の「調べ」とえる。
 三首目「ニジュップン/バカリ・」こちらも指をおれば8音とわかるが、「ジュッ」の「拗音+促音」で2音節が1音節にごまかせなくもない。あるいは、「プン」の撥音を呑み込んで、1音節で読めなくもない。そんな仕組みが感じられる。
 四首目。「アナタデ/アローカ」の8音。これは許容範囲の増音だから、「調べ」も崩れない。

 そういうわけで、結句増音は、8音までなら、さほど問題なく増音できる、ということが言えそうである。

 

D2句増音

 こちらは、かなり許容されると説く。
 小池によると、奇数句の破調はリズムを決定づけるが、偶数句は、増えても「短歌らしさ」を損なうことにはならないという。

 

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
斎藤茂吉
屈まりて脳の切片を染めながら通草のはなををおもふなりけり
光もて囚人の瞳てらしたりこの囚人を観ざるべからず

 

 調べとしては、順に、
「ツバクラメ/フタツ・」
「ノーノセッ/ペンヲ・」
「シュージンノ/ヒトミ・」
であろう。53型である。
 ちなみに、これを4拍子説で区切ると「調べ」は破綻する。
 なるほど、2拍子で読み下すとそんなに破調感はない。

 なお、小池によると、10音でも「短歌らしい」と言う。
 どの程度をもって「らしい」というのかは、小池の主観によるので、検討のしようがない。
 私としては、やはり8音までとしたい。