小池光「短歌を考える」を考える⑤

 破調の話の2回目である。

 小池光「リズム考」(「短歌人」1979.7~1980.12)より。

 

C結句増音
 小池光が、初句増音、3句増音に続いて重要とする破調は結句である。
 結句7音節は、4拍子説で言えば、8音までであれば、44型、35型、53型など十分増音が可能と思われる。
 小池も、「原則としてせいぜい一音の増加が許容範囲と思う」と言っている。
 例外として、春日真木子の次の歌をあげる

 

春の雪積む窓枠のほのめけりわれらは入らむ草食獣の眠りに

 

 結句、「ソーショクジューノネムリニ」が11音となっている大破調である。
 4拍子説でとれば「ソー/ショク/ジュー/ノ・/ネム/リニ」6拍。
 小池は「こういうのは例外中の例外であろう」と言い、言外にこれは短歌としては「OK」と認めているが、なぜ、例外なのかの説明はない。
 各自で考えろということのようである。
 私は、考えたけど、分からない。
 原則論を貫くのであれば、これは、短歌ではなく、<短歌ではない別の短詩>というしかない。
 ただし、なにか「長音」「拗音」「長音+拗音」がうまいバランスで並ぶと、字余りだけど「調べ」が良くなる、という仮説は立てられるかもしれない。この点は、覚えておいていいかもしれない。けど、繰り返すけど、こういうのは「短歌」と呼ばないほうがいいと思う。

 さて、小池が成功例として挙げているのは、まず、この歌だ。

 

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽れたり

 高野公彦

 

 結句「ウミニカクレタリ」が8音の字余りである。
 2音1拍の4拍子説でいうと「ウミ/ニ・/カク/レ・/タリ」の5拍だ。けど、誰もこんな拍節で読むわけがない。つまり、4拍子説は説としてはポンコツである、といういつものハナシである。
 ここは、「強弱2拍子」で読むといい。
「ウミニ・/カクレタリ」で5音のところを5連符で読み下す。
 であれば、少しモタつくが、そんなに「調べ」は悪くない。
 ちなみに、小池は、この8音の効果を「抒情性に対する『流れどめ』として有効性を発揮」していると説き、その効果をかなりの紙幅を使い力説しているが、それは、「リズム」論としては全く理論的ではなく、小池の一首評をとくとくと述べているにすぎないと思われるので、ここでは、引用もしないし、検討もしない。
 
砂庭の夕日において爪きればすでにほろべる爬虫類のこゑ 
前川佐美雄
わが額にぶち当り割れし濁流の一条は朱く天を走りをる
森のなかむくろじの黄葉(もみじ)怪しくも夕べを照らす二十分ばかり
いともゆるきこの歩はこび見つむるは秋の空間のあなたであらふか 
森岡貞香

 順に、「ハチュールイノコエ」8音。指をおったら8音節だけど、普通に読んでも7音節定型に読める。「ハチュールイノ/コエ・・」。これは、「チュー」の「拗音+長音」の音に仕組みがありそうだ。「ルイ」もとても響きがよくて、「ル・イ」と2音節で読むのではなく、「ルィ」と1音節で読めそうな感じである。そのあたりのところに、7音節でごまかせそうな仕組みが見え隠れしている。
 二首目、「テンヲ・/ハシリオル」これは5音がもたつく。さっきの高野公彦の歌と同様の「調べ」とえる。
 三首目「ニジュップン/バカリ・」こちらも指をおれば8音とわかるが、「ジュッ」の「拗音+促音」で2音節が1音節にごまかせなくもない。あるいは、「プン」の撥音を呑み込んで、1音節で読めなくもない。そんな仕組みが感じられる。
 四首目。「アナタデ/アローカ」の8音。これは許容範囲の増音だから、「調べ」も崩れない。

 そういうわけで、結句増音は、8音までなら、さほど問題なく増音できる、ということが言えそうである。

 

D2句増音

 こちらは、かなり許容されると説く。
 小池によると、奇数句の破調はリズムを決定づけるが、偶数句は、増えても「短歌らしさ」を損なうことにはならないという。

 

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
斎藤茂吉
屈まりて脳の切片を染めながら通草のはなををおもふなりけり
光もて囚人の瞳てらしたりこの囚人を観ざるべからず

 

 調べとしては、順に、
「ツバクラメ/フタツ・」
「ノーノセッ/ペンヲ・」
「シュージンノ/ヒトミ・」
であろう。53型である。
 ちなみに、これを4拍子説で区切ると「調べ」は破綻する。
 なるほど、2拍子で読み下すとそんなに破調感はない。

 なお、小池によると、10音でも「短歌らしい」と言う。
 どの程度をもって「らしい」というのかは、小池の主観によるので、検討のしようがない。
 私としては、やはり8音までとしたい。