今回からは、小池光による「リズム」の議論を取り上げたい。
小池には、これまで「リズム」に関する、2つの雑誌連載がある。
① 「リズム考」(「短歌人」1979.7~1980.12 但しこの連載については『街角の事物たち』(五柳書院、1991)に所収)
②「短歌を考える」(「短歌研究」2007.4~2008.10)
である。
ここでは、この2つの連載記事を検討しつつ、これまでお喋りしてきた、「調べ」についてさらに考えていきたいと思う。
しかしながら、この2本の連載記事の特に②の「短歌を考える」については残念ながら単行本としてまとめられておらず、雑誌を取り寄せないと原典にあたることができない。
また、両方とも連載記事という性格上、論考というよりもエッセイに近く、そんなに論理的ではない。そのうえ、②の連載などは、結論までたどりつかずに、違う話題に移り、その話題も中断したまま、連載が終わったという感じになっている。
そうした弱点があるものの、短歌の「リズム」についてまとまった論考というのも、今のところはなかなか見当たらないのが現状であるので、これらを検討しながら、短歌の「調べ」のなかでも「リズム」についての解明をしていこう。
小池は短歌の「リズム」をどのようにとらえているかというと、次の2点にまとめられよう。
すなわち、
・各句4拍の等時拍
・ただし、初句3句はゆっくり、245句は速く読むという、緩急緩急急説
の2つである。これが、小池の「リズム」の定義といってよい。
ただ、どう考えても、この2つは矛盾しているだけど、小池のなかでは、そうではないらしい。
これ、私が解釈するに、小池は「拍」を4拍子とか2拍子とかで使っている「拍」の概念とは違う概念でとらえているんだろうと思う。つまり「拍」を西洋概念の「ビート」ではなく、伸び縮みする日本古来の拍子感覚としてとらえているのだろう。
だから、各句4拍の等時拍といっても、メトロノームのカチカチの拍ではなく、初句はゆっくりの4拍、2句になると速めの4拍ととらえている。じゃあ、等時拍にならないじゃん、となるが、初句3句の休符を短くとることで、各句同じ長さとして、辻褄を合わせてんだろうと思う。
そういうわけで、ちょっと都合のいい「4拍子説」といった感じだ。
けれど、「4拍子説」には違いないので、これまでに、えんえんと検討してきた別宮貞徳らによる「短歌4拍子説」をベースとしている。
なお、何度も確認しているが、「短歌4拍子」説というのは、次の2つ、
・1音(あるいは1休符)を2個で、1拍と数える
・各句の拍数はすべて同じ4拍
この2つが「4拍子説」である。
そして、小池も、この4拍子説を踏まえて、リズムの検討をしている。
小池は、ドラッグストアの名前<マツモトキヨシ>が4音3音に分割できることを前提に、次のように言う。
わが町の マツモトキヨシに きたる時
という上の句において(中略)二句「マツモトキヨシに」に「字余り」の感じがするだろうか。わたしは、しない。純定型に感ずる。 (中略)「マツモト」は「マ・ツ・モ・ト」でなく、無意識に漢字を思い出しながら「マツ/モト」と二拍で読む。その勢いで「キヨシに」も「キヨ/シに」と読む。つまり「マツモトキヨシに」を四拍で読む。 このひとつの句を四拍で読む、四拍で読むことができる、ということが定型らしさを保証するのである。
小池光「短歌を考える1」(「短歌研究」連載、2007年4月号)
「無意識に漢字を思い出」す、とか、「その勢いで」、とか、細かいところに疑問がなくはないが、これは「短歌4拍子説」に拠った「リズム」の説明と読んで、問題はない。 例の、「4拍子説」の説明に用いる、 <1音(あるいは1休符)を2個で、1拍と数える> に、ついて小池は「マツモトキヨシ」を例にして説明しているのだ。
ちなみに、なぜ、4拍子説は「1音2個で1拍と数える」のか、というと、これは日本語の構造による。小池は、漢字を思い出して「マツ」と「モト」の2拍で読む、と説明するが、そんな眉唾な仮説ではなく、もともと日本語は2音を1拍として読むようになっているのだ。ちゃんと別宮の著書で説明してるんだから引用すればいいのにと思う。ちなみにこれをフット(hoot)という。(これは、別宮の著書には書いていない)。
それはともかく、小池の論考の面白いところは、この先である。
小池は言う。
四拍で読めないと定型はたちまち破綻する。「マツモトキヨシ」は「マツモト・キヨシ」であって七音は四音、三音に分解された。ところが仮に順番をひっくりかえした「キヨシ・マツモト」なる店があったとしよう。この場合は七音は三音、四音に分解される。するとただちに光景は一変する。
わが町の キヨシマツモトに きたる時
これは完全に「字余り」である。破調である。(中略)増音破調のことを一般に「字余り」と呼ぶ。その語を用いれば、 「マツモトキヨシに」は字余りではないが、 「キヨシマツモトに」は字余りである。 (中略) 短歌にあっては、 4+3≠3+4 なのである。数学でいう共役関係が成り立たない。
このルールというか法則というか語の性質は短歌に限らず日本語そのものの性質である。 四音、三音からなる合成外来語が身近に無数にある。「スーパー・ライト」「リゾート・ホテル」「スイッチ・バック」「スポーツ・クラブ」「グラビア・モデル」などなどほとんどが四音、三音の順番であり、その逆はまずない。
小池「前掲」
「マツモトキヨシ」を「キヨシマツモト」にひっくりかえすなんて、なかなか楽しい発想である。
けど、どうして「キヨシマツモトに」が字余りになるのか、については、前回のテーマ<短歌の「調べ」について>で、すでに議論の題材としている。
その時は、春日井建の「オチシニチリンガ」の部分であった。「キヨシマツモトに」とまったく同じ、三音四音に助詞がついた8音節で、どうしてこれの「調べ」が良くないのかも、議論しているので、ここについては、このBlogではすでに決着がついている。
この議論は単純な話で、4音3音に分解できる場合は、8音目に助詞が入っても4拍子で読めて、3音4音に助詞1音が入るなら4拍子ではなく5拍子になるというだけのことで、4拍子説で説明しているので、参照されたい。
けど、小池は、これは「日本語そのものの性質」と大風呂敷をひろげ、合成外来語を例に説明しているが、ここは、勇み足であろう。「スーパー・ライト」のようにほとんどが4音3音で「その逆はまずない」なんていうが、そんなことない。少し、考えてみても「ライトセーバー」「ライトテーブル」「ライトモチーフ」「ライト兄弟」(笑)など、3音4音の組合せだって無数にあるのだ。
べつに4音3音が「日本語そのものの性質である」というわけではない。
そうではなく、2音で1拍と数えるフットが日本語の性質なのである。2音で1拍とするのが、日本語は気持ちがいいのである。気持ちがいいということは、短歌でいうと「調べ」に乗りやすいわけで、短歌「4拍子説」は、その日本語の構造で説明している、ということなのだ。
小池は4拍子説にのっかって論を展開しているから、「キヨシマツモトに」は5拍子になって破調である、というが、これを「4拍子説」ではなく、「強弱2拍子説」で読むなら、「キヨシ/マツモトに」で分けることができる。そして「マツモトに」を5連符で読めば、別に破調の感じはせず、拍のうねりを感じることができるのだ。なんてということも、すでに、「オチシニチリンガ」で説明した通りである。
とりあえず、小池のリズムの議論は、4拍子説にのっかっている、という確認ができたところで、今回は、ここまでにしよう。