再び短歌の「読み」について

 短歌の<読み>についての議論で、典型的な事例があったので、今回はそれを取り上げてお喋りをしたい。

 

 角川「短歌」2021年1月号に、新春特別座談会「見つめ直す自己愛」が掲載されている。この座談会では、馬場あき子、伊藤一彦、藤原龍一郎小島ゆかりの各氏が、「自己愛を感じる歌」を持ち寄って議論しているのであるが、そこで、馬場あき子が、富小路禎子の<処女にて身に深く持つ浄き卵(らん)秋の日吾の心熱くす>の作品について、次の発言をしている。

 馬場は言う。

 

馬場:富小路の歌ね、私はどうしてもこれを挙げたかった。衝撃的だったんですよ、我々にとって。女の人がこういう歌を歌うのかと。(中略)「処女にて身に深く持つ浄き卵」、ここで度肝抜かれましたね。浄き卵を女は持ってるんだ、びっくりしたけれど、この人斜陽の貴族で富小路家の最後の人ですけれど、貴族の間ではこういう性的なものが割とオープンに語られていたんです。私は友達に一人貴族がいましてね、そこへ行くと平気でそういうことを言うんです。(中略)富小路さんも貴族だったので、平気で口にできたんじゃないかな。性に関しては貴族階級はちょっと違った感覚を持っていたんでしょうね、しかも、この浄き卵が滅びるか生きるかによって、富小路の家が存続するかしないかに繋がっていた。自分の血の絆が家を存続する絆と重なってるわけでしょ。責任感があるんですよ、この浄き卵をどう保つかっていうことに。これを歌にしたって画期的なこと、凄いなと思った。自分が家を繋ぐ卵を持っているんだという自己愛はね、あの時代の姫君は皆持っていたのかもしれないなと思って、瞠目した歌の一つです。

(角川「短歌」2021年1月号)

 

 馬場に、このように語られると、富小路の作品がいかに凄くて画期的であったかがわかり、作品の理解も深まることだろう。

 さて、このような馬場の短歌の<読み>は、短歌の世界では典型的な<読み>といえよう。こうした短歌の世界の典型的な<読み>というのは、作者と作品をセットとして読む、いわば<セット読み>とでも名付けられそうな<読み>だ。すなわち、作品に登場する主体は、作者とイコールであり、作者について理解が深まれば作品の理解も深まるということになる。逆にいえば、作者の属性が分からなければ、作品の理解ができない、という<読み>である。

 今回の富小路の作品であれば、富小路禎子が「富小路家の最後の人」で斜陽貴族であった、という作者の属性を知らなければ、到底、馬場のような<読み>はできない、ということになる。こうした作者の属性を理解することで、<処女にて身に深く持つ浄き卵>の凄さが深く理解できるということだ。逆にいえば、作者が斜陽貴族であるという属性が分からなければ、<処女にて身に深く持つ浄き卵>の凄さは理解できない、ということになろう。

 現に、このあと、いつくかの発言の後に、小島ゆかりが次のように発言をしている。

 

小島:でも、時代感覚がまるで違う今後の世代には、この歌はどういうふうに理解されていくのかなと。とんでもない理解が出てくるんじゃないかなって怖れもします(笑)。

(前掲書)

 

 小島は<時代感覚>と発言しているが、これは、富小路が斜陽貴族であるという属性とともに、そうした斜陽貴族が持っていたであろう当時の時代の感覚、ということをいっていよう。そんな当時の感覚とは大きく違っていくであろう今後の世代は、馬場や小島の世代のような理解とは違う理解をされてしまいそうで怖ろしい、といいたいのであろう。

 小島の<とんでもない理解>という発言は、馬場の発言のような、富小路作品の本来的な理解から大きくはずれた誤った<読み>による理解、ということなんだろう。

 さて、この小島の発言について、どのようにとらえたらいいだろうか。

 筆者としては、この小島の言っていることは、その通りだろうと思う。

 つまり、世代が違っていけば、小島の怖れるような<とんでもない理解>になってしまう危惧は生じるだろう。そして、<とんでもない理解>よりは、馬場のような本来的な理解の方が、短歌の<読み>としては良いに決まってはいよう。

 では、どんでもない理解に陥らないためにはどうしたらいいか。

 と、いうと、富小路禎子という作者の属性の理解をすることが肝要、ということになる。つまり、馬場が発言しているような富小路についての属性を理解していないと、到底、馬場のような理解はできない、ということになるわけだ。

 ここに<セット読み>の限界を筆者はみる。

 それは、馬場や小島の世代で理解していたことを、後の世代もまた理解しない限り、馬場や小島の世代と同じ理解はできない、という点にである。そのうえ、たとえ後の世代が、馬場や小島の世代の<読み>を理解したとしても、<読み>についてはそこまでで、決して馬場や小島の世代以上の<読み>にはならない、という点でも、この<セット読み>には限界がある。

 もっと言うと、こうした<セット読み>には権威主義的な臭いも感じる。

 なぜなら、富小路のことを知らなくては到底、作品の理解ができないとなると、同時代に生きた人間の方が深く理解できるのは当然、ということになるからだ。後発の世代が先発の世代の<読み>を更新することができないのであれば、それは議論にならず、先発世代の理解を後発世代がありがたく拝受するだけということになる。後発世代は、先発世代の<読み>を越えることはないのである。こうした立場を筆者は権威主義と呼ぶ。

 そういうわけで、<セット読み>では、富小路のこの作品についての議論は、これ以上は深化しようがない、ということになる。

 もちろん、短歌史のなかにこの作品を位置づけて批評することはできようが、それは、作品評というよりは、短歌史論とか歌人論といった議論になるだろう。

 では、作品評はこれで完結しているのだから、もう終わったのかというと、そんなことはない。要は、短歌の世界に典型的な<セット読み>とは違う<読み>をすればいいのだ。

 では、その違う<読み>にはどのようなものがあるか。

 そのひとつとして、筆者は<テクスト分析>の手法を用いた作品分析を提案している。<テクスト分析>の手法を用いて短歌作品を読めば、世代の違いなく議論ができるのではないか、というのが筆者の意見だ。

 実は、この富小路の作品について、馬場の発言の直前に、伊藤一彦が次のように発言している。

 伊藤は言う。

 

伊藤:…馬場さんが引かれた富小路禎子さんの<処女にて身に深く持つ浄き卵(らん)秋の日吾の心熱くす>も、心が熱いんじゃなくて「熱くする」という、凄く何か意志的なものがありますよね。

(前掲書)

 伊藤は、富小路の作品の結句、「心熱くす」に注目する。

 普通であれば、心というものは、受動的に「熱くなっていく」ものだろう。感情というのは、本人の意思とは別なところで揺れ動いたりする、というのが自然であろう。あるいは、気が付いたらそうなっていた、というものだろう。例えば、映画や風景をみて「感動する」なんていう経験は、「感動しよう」という意志のもとそうするのではなく、見たことによって心が動かされることで、「感動する」という状態になる。

 しかし、この作品の結句は、そうした自然な心の動きではなく、主体自らが、自らの意志をもって、心を熱くさせている。ここに、伊藤は注目し、この作品の「凄さ」を批評しているのだ。

 こうした伊藤の<読み>は<テクスト分析>の手法に非常に近いといえる。

 この<読み>には、富小路禎子という作者の属性は必要ない。

 「熱くなる」ではなく、「熱くする」という主体の意志は感じるが、それはあくまで、主体の意志であり、作者のそれではない。そうした意志を作者の属性(例えば、斜陽貴族の最後の姫君といった属性)に向けることをしていない。ここに、作品をテクストとして批評する道が開かれている。

 こうした議論であれば、「熱くなる」と「熱くする」のテクスト上の違いについて、富小路のことを知らなくとも、誰でもどんな世代の人間でも対等に議論に参加できる。筆者は、こうした議論のほうが、ずっと風通しがいいと思うし、そのような議論をすることで新たな<読み>が期待できるし、結果、作品の理解も深まるだろうと思うのだ。

 

 短歌の世界で<セット読み>が主流なのは、もちろん理由がある。

 乱暴に言えば、<主体=作者>という、「近代短歌」の<私性>の約束に拠っているためであり、それは「近代短歌」が自然主義的文学を志向したことによる、ということは、本Blogでも何度か主張してきている通りである。

 だから、短歌の世界で<セット読み>が主流であることは、仕方がないこととは思う。

 しかし、そうした短歌の世界の主流な<読み>には限界があることと、権威主義的になる傾向もある、という点は押さえたうえで、<セット読み>をした方がいいだろうと、筆者としては思うのである。