私たちは、しばしば「わからない」歌に出会う。そんな「わからない」歌を「わかる」歌にしよう、そして、できるなら「いい歌だな」と思ってもらえるようにしよう、というのが、ここからしばらくの話題である。
ここで取り上げていく「わからない」歌というのは、例えば、こういう歌である。
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
穂村弘『シンジケート』
「わからない」歌というのは、いわゆる難解な歌とは違う。難しい言葉や表現を使っているわけではない。あるいは、日本語の文法がおかしくて意味が通らない、といったこととも違う。日本語がおかしくて「わからない」わけではない。
平易な表現で、言葉の連なりも正しいけれど、どうにも「わからない」。この歌の何がいいの?と、一般的に言われがちな、そんな歌を取り上げていくつもりである。
ところで、短歌の世界で、この歌の何がいいの?って感じに言われはじめたのは、恐らく、穂村弘に代表されるいわゆる「ニューウェーブ短歌」からだろうと思う。面白いことに、時をまったく同じくしてデビューした俵万智を穂村のように「わからない」という人はいない。
つまり、俵については、それまでの短歌の「わかる」系譜に位置づけられるが、穂村をはじめとする「ニューウェーブ短歌」以降に連なる作品群は、それまでの短歌の系譜とは何かが違うということなのだろう。じゃあ、いったい、何が違うのだろうか。
掲出歌を読んでみよう。これは、穂村の初期の代表歌といっていいだろう。一読、われの独白、ということはわかるだろう。日本語の連なりでいえば、初句二句とそれ以降が倒置になっている。冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は、ほんとうにおれのもんかよ、とモノローグしているのだ。
で、「わからない」のは、卵置き場に落ちる涙、のところだろう。卵置き場というのは、どの冷蔵庫にも必ずある、卵を冷やすために空いている、円形のあれ、である。その卵置き場(の穴に)涙がポタリと落ちているのをみて、ほんとうにおれのもんかよ、とわれは嘆いているのだ。
青年期の孤独感とか寂寥感を歌にした、ということであれば、作歌の動機はいたってありふれたものだ。
例えば、百年前の青年は、こうやって哀しんでみせた。
東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
石川啄木『一握の砂』
青年期の哀しみを歌にしたということなら、穂村も啄木も違わない。啄木この歌を「わからない」という人はいないだろう。つまり、ここでの「わかる」のと「わからない」の違いというのは、蟹と遊んでいるのと、冷蔵庫を開けて覗き込んでいる、という違いだ。
私は、どちらも、オーバーな戯画化された描写だな、と思う。啄木の歌でいうと、哀しみを表現するのに、蟹と遊ぶイジけた描写で同情を誘うなんてなあ、と思う。歌の構図は穂村も同じ。卵置き場に涙を落とすなんて、ずいぶんとまあ、哀しみを大げさに表現したもんだな、と思う。
あとは私たち読者が卵置き場に涙する青年に抒情できるかということになる。もし、蟹と遊んでいる戯画化された情景に抒情できるのであれば、穂村の戯画化された情景にも抒情できるはずと思うが、さあ、どうだろう。
(「かぎろひ」2018年7月号所収)