「歌のある生活」32「わからない」歌2

 穂村弘の初期の代表的な作品から「わからない」とされる歌を見ていこう。第1歌集『シンジケート』より、この作品。

 

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 

 「嘘つきはどらえもんのはじまり」で、はあ?となるが、そこは後で議論することにして、もう一度、上句から読み直してみよう。初句二句の「ハーブ」の繰り返しは、ごく普通のリフレインだ。調べを良くする意図で並べているのだから、私たちが理解している反復技法の使い方である。そして、よく読むと「ハーブ」「ハーブティー」「春」「はじまり」と、頭韻を押さえていることがわかる。つまり、この作品は下句の単なるナンセンスで即興的な作品、というわけではなく、それなりに作り込んでいる作品ということがわかってくる。さあ、そうなると、この歌は、いったい何を詠いたかったのだろう。

 私は、この作品は「春の夜」を詠いたかったんだろうと思う。で、春の夜とウソを接続しようとして、上句に春の夜のイメージを、下句に、ウソの具体としてナンセンス(「嘘つきはどらえもんのはじまり」自体がウソことわざ、だ)を持っきてた、というように読む。であるから、いわゆる「二物衝突」的な読みで読むと、わりと「わかる」かもしれない。そして、そういう歌のつくりになっていることを理解したうえで、その「春の夜」のイメージと「ウソことわざ」の具体のぶつかりあいを鑑賞すればいいのである。

 

卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け          『同』

 

 こちらも、「海亀」や「手榴弾」という、突飛な単語が並んでいて、さっぱり「わからない」作品となりがちだが、まあまあ、落ち着いて読んでいこう。

 この作品の主題は結句「朝焼け」。こいつをいかに詠うかが作歌の動機だ、ととらえると「わかる」。「朝焼け」のイメージは、爽快さとか、新鮮さとか、とにかく明るいイメージだろう。だから、あまり複雑な心情を詠っているわけではない。心情はわりと単純。その単純な心情に、どうやって現代的な描写を施せば抒情できるか、というのが作歌の動機なのだ。そこで、持って来たのが産卵期の「海亀」や爆発直前の「手榴弾」なのだ。これらの素材と「朝焼け」のイメージが作者の意図どおりに読者へ伝われば、この作品は「わかる」だろう。

 すなわち、作歌の動機は、昔も今も同じ。抒情的に情景を描写したい、ということ。その描写の素材として、旧来とは違う現代的な素材を使っているのだ。この素材の描写で抒情できるかどうかが、読者の「わかる」と「わからない」の分かれ目なのではないかと思う。

 

校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け  『ドライ ドライ アイス』

 

 さっきのが朝焼けで、こちらは夕焼け。これも、さっきと同様な読み方で鑑賞しよう。「夕焼け」をいかに抒情的に詠うかが、が作歌の動機。そこで持って来たのが「校庭の地ならし用のローラー」だ。説明的だけど、前回の「冷蔵庫の卵置き場」のように、細かい描写が抒情の発露になるというのは、近代短歌が育てた果実だから、この作品もその果実を頂いている。あとは、私たちが、ローラーに座って夕焼けを見ている情景に抒情できるかどうか、ということになる。抒情できれば「わかる」歌だといえるし、私にはじゅうぶんに抒情的と思うが、さあ、どうだろう。

(「かぎろひ」2018年9月号所収)