穂村弘『水中翼船炎上中』を読む1

 前回までの議論を、とりあえずまとめる。

 穂村弘の作品には、現代的な素材で抒情させようという作品が一定数あり、読者は、その作品でうまく抒情できれば「わかる」し、抒情できなければ「わかならい」ということになるのではないか、いうことであった。

 この主張を当面の仮説として議論を進めていこう。

 さて、五月に穂村弘の十七年ぶりの新歌集『水中翼船炎上中』が発売されたので、せっかくだから、そこからいくつか拾って、仮説の検証をしてみよう。

 

なんとなく次が最後の一枚のティッシュが箱の口から出てる

 

 一読、だからなんなの、と言いたい感じの作品だけど、詳しくみていこう。

 歌の内容としては、ティッシュ箱からティッシュが出ていて、それが最後の一枚に思える、ということ。「最後の一枚」というところに、はかなさというか、切なさというか、そんな気持ちを託した。もちろん、それは、人間の人生の大きなはかなさや切なさ、というものではなく、変わらない日常のなかの、ホンのちょっとしたはかなさや切なさであり、そんなところの心の揺れを歌にするというのは、いかにも近代短歌の短歌的抒情の延長線上にあると私には思う。

 で、それをしっかりと作品化させるため、詠い方にいくつかの工夫がある。まず、初句の「なんとなく」という緩い入り方。こうした詠い方というのは、現代口語短歌のトレンドと受け取っていいだろう。茫洋とした感じが、文語短歌の締まった律感に対峙する口語短歌の詠い方なのだ。また、結句の「出てる」。「出ている」ではなく、イ抜きである。この、舌足らず感も、当然、はかなさとか切なさとかに対応していると押さえておきたい。

 であるから、歌の内容もさることながら、こうした歌の作り方というのは、現代口語短歌の最前線ととらえていいと思う。

 今回の穂村の歌集は、近代短歌の延長線上にある短歌的抒情を口語短歌の最前線といえる詠い方で作品化している、とおおまかにとらえていいと思うし、読者は、そうやって読めば、わりと「わかる」し抒情できるのではないかと思う。

 

極小のみかんの破片がまざってるパイナップルの缶詰の中

 

 上句の極視的なものの描写は、初期の穂村から続いているもので、細かい描写で抒情を感じさせようとする手法である。また、三句目「まざってる」も、イ抜きである。そして、下句では、パイナップルの缶詰といったノスタルジーを喚起させるアイテムを持ち出して、共感性を高めている、と読める。

 

長靴をなくしてしまった猫ばかりきらっきらっと夜の隙間に

 

 この作品は、現代短歌のオノマトペの試行と読むとわかりやすい。上句で童話「長靴をはいたねこ」をイメージさせて、下句で「きらっきらっ」とやる。この取り合わせで抒情させようとするのだ。同様な構成としては、次の作品もそうだろう。

次々に葉っぱ足されてむんむんとふくれあがった夜の急須は

 ここでは「むんむん」のオノマトペをうまく効かせた歌といえる。なお、先の作品もそうだけど、結句に「夜」が入っていることに注意したい。ここで夜を持ってくるのは、安易といえばそうだが、手っ取り早く抒情するために設定を「夜」にした、といえるのだ。

(「かぎろひ」2018年11月号所収)