短歌の「調べ」について④

 短歌の「リズム」について議論している。
 もともとは「調べ」とは何か、というのが話題であった。
 「調べがいい」歌の、その「良さ」には、「リズム」が関係しているのは間違いないのだが、その短歌の「リズム」とは何なのだろう、ということについて議論している。
前回までは「拍(ビート)」からリズムが生まれるという説について議論したが、どうも、いまひとつであった。
 今回は、「音歩」という概念を提出して、短歌の「リズム」について議論したい。

 「音歩」(オンポと読む)とは何か。

 これは、西洋詩の用語meterの訳語。西洋詩学の概念を、日本の短歌にあてはめようというんだから、はじまりから、ちょっと無理がある感じがするが、これが「リズム」の謎を解くカギになるかもしれないのだから、頑張ろう。
 浅学を晒しているようで恥ずかしいのだが、どうやら、西洋詩というのは、音歩によって「リズム」が作られているのですな。
 昔の詩は、長短でリズムをとっていたのだが、後の英語やドイツ語は強弱でリズムをとる。で、強弱といっても、いろんなリズムが作られるでしょう。強弱があれば弱強があるでしょうし、強弱弱や弱強弱や弱弱強や、いろいろなパターンがあるんでしょう。で、そういうあるパターン(例えば、弱強格ならアイアンブと言うなど、それぞれに名前がつけられているのですが)を2回繰り返すと2歩格、3回繰り返すと3歩格、4回なら4歩格…というわけだ。つまり、同じパターンを何度か繰り返せば、リズムが生まれるわけで、その最小単位が「音歩」なのである。
 西洋詩というのは、そうやって作られているわけですな。

 では、その西洋由来の「音歩」を短歌にあてはめるとどう分析できるのだろう。

 実のところ、私は、この「音歩」で短歌を分析した先行資料として、石井辰彦「現代詩としての短歌」(『現代詩としての短歌』所収、1999、書肆山田)と堀田季何「音と音歩と拍子と」(角川「短歌」2019.10)しか手元にない。しかも、どうやら両者で「音歩」の短歌への当てはめ方が違っている。
 困った事態なのだが、話を進めたいので、まずは堀田の「音歩」概念の検討をしていくことにしよう。

 先の堀田論考の関係部分を引用しよう。
 堀田は言う。

 

 まず、短歌の各音は等しい長さでは読まれない。その上、どこの句にどの音数のどの言葉があるかによっても各音が詠まれる長さは異なってくる。つまり、韻律の単位は単音ではなく、長短音の組合せによる音歩(音脚)である。言葉の音歩数は決まっておらず、どういう拍にどう乗せてどういうリズムにするかで変わる。五音の「波の音」は、「な・み・の・お・と」の五歩音、「な・みの・お・と」の四歩音、「なみ・の・おと」の三歩音、「なみの・おと」の二歩音等になり得る。

 

堀田季何「音と音歩と拍子と」(角川「短歌」2019.10)

 

 堀田は、「音歩」を「長短音」の組合せととらえる。つまりは、先ほどの英語やドイツ語の強弱拍ではなく、昔のラテン語の詩のように短歌のリズムを分析しようということだ。
 けれど、日本語はご承知のように、母音1個と子音1個で1音、で、その1音に長短はなく、みんな同じ速さで発音するから、普通に読んだら、どれも同じ長さになる。堀田の例でいうと、「な・み・の・お・と」だ。が、そうなると、少なくとも韻律にはならない。なので、堀田は「短歌の各音は等しい長さでは読まれない」という命題を提出する。
 そして、その長短の組み合わせを「音歩」と定義した。
 けど、こっから先が、西洋詩概念の「音歩」とは違ってくるようだ。
 西洋概念の「音歩」は、その長短の繰り返し(さっきもいったけど、その組み合わせには名前がついている)で、2回やれば2歩格、3回やれば3歩格という。
 けど、堀田の「音歩」は、「拍にどう乗せてどういうリズムにするかで変わる」と言う。
 もし5拍で読むなら、「な・み・の・お・と」だが、4拍なら「なみ・の・お・と」や「なみの・お・と」や「な・み・のお・と」となりうるというわけだ。
 そういうわけで、堀田の論考でいくと、「拍」によって「音歩」は決定するということになる。そして、各音の読まれる速さは、この「拍」にいくつの音が入っているかで決まるということになる。かりに「波の音」を4拍で読むとすれば、「なみ・の・お・と」や「なみの・お・と」や「な・み・のお・と」などの4歩音に読むことが(定義上は)可能で、「なみ・の・お・と」と読むなら、「なみ」は「の」や「お」や「と」よりも、2倍の速さで読む、ということだ。
 繰り返しになるが、西洋詩なら、「長短」とか「長短短」とか、母音の長短によって、歩格が決まり、それを二回繰り返せば二歩格、三回やれば三歩格とかになるんだけど、短歌ではそれは無理。音韻構造が違うんだから。
 そこで、堀田は、音の組合せで長短をつけようとしたわけである。しかも、その長短は、どういう拍にどう乗せてどういうリズムにするかで変わる、としたのだった。

 さて、こうした、「音歩」のとらえをすると、どうなるか。
 結果、短歌の韻律は「拍」に支配される、ということになる。
 なんのことはない、前回まで議論してきた「短歌4拍子説」に戻ってしまうのだ。

 実際、その通りに、堀田は「短歌4拍子説」を持ち出して、論を展開するのだが、それは、次回にしよう。