短歌の「調べ」について⑥

 「音歩」の話題の続きである。
 今回からは、石井辰彦の「音歩」の議論をみていこう。
 石井辰彦は、『現代詩としての短歌』所収の「短歌の構造」という論考のなかで、次のように言う。

 

 短歌は三十一前後の音節syllableからなる詩であって、伝統的にそれは、五音節―七音節―五音節―七音節―七音節と分けられる五つの句によって構成される。
 問題は、この<句>と呼ばれるものであって、これは西欧の詩における<行line>ではなく、むしろ<音歩(詩脚・音歩)meter>に相当すると言えるだろう。したがって伝統的な短歌は、五歩格pentameterの一行詩monostichだと考えることができる。

 

石井辰彦「短歌の構造」(『現代詩としての短歌』所収、1999、書肆山田)

 

 いきなり詩学用語がばんばん出てきてとっつきにくい文章だが、頑張ろう。
 一読、石井が「音歩」を、前回みた堀田とは違うやり方で、短歌に当てはめようとしていることがわかるだろう。
 石井は、一句が一音歩、五七五七七の五句で五歩格の詩としたのである。
 すなわち、石井は、日本の短歌を「五歩格の一行詩」と定義する。
 
 そこを踏まえて、続きを読んでいこう。
 石井は言う。

 

 ここで重視すべきなのは、短歌における五音節の句と七音節の句、いわゆる五音句と七音句とが、音節数の相違にもかかわらず、ともに同じ拍数で読まれ得る、つまり同一の音歩だと感ぜられる、ということだ。そもそも日本語には、西欧の言語におけるような音節数と拍数とが一致する数え方は、そのまま導入することがむづかしい。むしろ日本語においては、拍数と音節数とはあまり強固な結びつき方をしていない、考えるべきだろう。西欧の詩においては、ある音歩に従って書かれた詩行の中に異なる音歩が混じった場合、その部分も全体を支配する音歩にあわせて読む、つまりたとえば、全体が弱強格(英語の用語で言えばアイアンブiamb)で書かれた詩行のなかにたまたま弱弱強格(同じくアナピーストanapaest)の音歩が混入した場合には、アナピーストの二つの弱拍の音節をアイアンブのひとつの弱拍の音節と同じ時間で読むことによって全体をアイアンブの詩行に調整する、ということがなされる。これと同じように、短歌においても五音句と七音句は同一の音歩として読まれる、と言うことができるだろう。短歌を構成する五つの句が、等時性isochronismの法則の支配下にある、と言ってもよいかもしれない。要するに日本語の詩においては、音節がフレクシブルにのびたちちぢんだりしながら、全体としてあるリズムをきざんでゆく、と考えるべきなのだ。実際、五音句も七音句もひとしなみに四拍子で数える、という考え方が、現在ある程度の支持を集めてもいるのである。
 しかし、各句を四拍子で数える、という行き方には、いささか性急な、機械的に過ぎる印象がある。(中略)発生当初の音歩が、歌いかつ踊る太古の人間の足拍子に基づくものであったとされることをも考慮すれば、ひとつの音歩は二ないし三拍子で数えるのがより自然なのではないだろうか。三拍子と比べ、二拍子の方がさらに普遍的だと考えられる以上、短歌における音歩は二拍子だと考えるのが良いように思われる。
 しかもこの場合の二拍子は、英詩における強弱拍、すなわちトロキーtrocheeになぞらえることが可能だと考えられる。もちろん日本語のアクセントは、基本的に音の高低pitchによってあらわされるが、音の強弱stressが存在しないわけではない。それどころか、手拍子なり足拍子でなり、拍子をきざみながら詩文を読む、ないしは歌う場合、その拍子はピッチよりもむしろストレスと緊密に結びついていると考えられる。日本語の特性として、あるひとつながりの言葉が発声される場合、その頭の部分が強く発音され、末尾はしばしば聞き取れないほど弱くなってしまう、ということがあるが、短歌の各句においても、それを二拍子として捉えるなら、前の拍に微妙ではあるが強いストレスが存在する、と考えられるのだ。したがって短歌は、強弱五歩格trochaic pentameter の一行詩だと考えることが可能なのである。

 

石井「前掲」

 

 石井は、短歌を「五歩格の一行詩」と定義したのち、各句は同一の音歩で読まれる、という。
 しかしながら、この同一の音歩で読まれる、という根拠は曖昧で、「いわゆる五音句と七音句とが、音節数の相違にもかかわらず、ともに同じ拍数で読まれ得る、つまり同一の音歩だと感ぜられる」と述べるにとどまっている。この、「感ぜられる」、というのは現代人の私たちが、ということなのだろう。
 とにかく、短歌は、五音だろうと七音だろうと、同じ拍数で読まれ得るという。
 ただ、そうやってしてしまうと、必然的に、各句は等時拍である、という命題が導き出されるのであり、実際そういう議論を展開する。
 すなわち、
「短歌を構成する五つの句が、等時性isochronismの法則の支配下にある、と言ってもよいかもしれない。要するに日本語の詩においては、音節がフレクシブルにのびたちちぢんだりしながら、全体としてあるリズムをきざんでゆく、と考えるべきなのだ」
 と、ひとまずの結論をつける。
 で、ここから先が、石井の論のユニークなところで、「短歌4拍子説」ではなく、「2拍子説」を展開するのだ。ただし、その二拍子は、太古の人間の話題が出てくるくらいだから、近代音楽の拍(ビート)ではなく、伸び縮みする緩い拍節ととらえてよさそうである。つまり、音節だけではなく、拍子もフレキシブルととらえた方がよさそうだ。

 そういうことで、「短歌4拍子説」に代わる、「短歌2拍子説」とでもいえるものが提出された。
 今回はここまでにして、次回、この短歌2拍子説を検討することにしよう。