短歌は文学か?

  短歌とはどのような詩形なのか。
 ということを、前回までは、短歌の「調べ」について、なかでも「リズム」についてお喋りをしてきた。
 昨年末から長々と続けてきたのだが、今回からは違う話題で、短歌について考えていきたい。
 さしあたっては、他の文芸ジャンルと比較しながら、「短歌とはどのような詩形なのか」について、これからしばらく議論していくことにしよう。

 短歌は文学か?

 短歌を「文学」だと考えている歌人がいる。
 私は、「そうですか、あなたの作品、それって文学だったんですか、へえ」とハラの中でつぶやく。もちろん、皮肉である。
 私は、自分のやっている短歌が「文学」行為だとは、ただの一度も思ったことはない。
 なにより、私の歌を読んで「文学」だと思う奴なんているわけがない。

 では、短歌とは何か。
一応、私には、私なりの答えがあるのだけど、もう少し、答えを先延ばしにして、まずは、じゃあ「文学」とは何をさすのか、ということについて考えてみよう。

 どの作品が「文学」で、どの作品が「文学」じゃないのか。
 とっつきやすいジャンルとして「小説」で考えてみよう。一口に小説といったって、高尚なものから低俗なものまで幅広くある。
 近代小説の大家、誰でも知ってる作家、例えば、夏目漱石森鴎外志賀直哉あたりの小説、あれは、「文学」か。というと、ほぼ100%「文学」と答えるでしょうな。
 では、ぐっと現代になって、大江健三郎川端康成谷崎潤一郎は、というと、大江や川端はノーベル「文学」賞なんてもらったりしてんだから、彼らも、「文学」でしょう。あるいは、ノーベル賞候補になっているらしい村上春樹も、「村上文学」なんて言葉があるくらいなので、誰もが「文学」と認めるのだろう。
 じゃあ、渡辺淳一あたりはどうでしょうね。「失楽園」とか「化身」とかの恋愛小説を書いた人ですが。札幌には「渡辺淳一文学館」てのがあるので、渡辺の作品を「文学」とみなしている人がいるわけですが、一方であれは「文学」じゃない、という人もいそうですな。
 それから、松本清張はどうでしょうかね。今調べたら、小倉に氏の記念館がありました。説明には松本清張の業績を展示している文学館とあるので、氏も文学者として扱っている人がいるわけですが、氏の推理小説を「文学」というのは、はばかられると言う人もいるんじゃないでしょうかね。
 推理小説でいうと、松本清張のほかにも、西村京太郎とか赤川次郎が有名であるが、彼らの小説は「文学」とは言えないでしょうな。
 そうなると、どうやら小説といってもいろいろな小説があるわけで、ある小説は「文学」で、ある小説は「文学」じゃない、ということになって、「文学」の線引きは人によって違うんじゃないでしょうかね。
 いやいや、純文学と大衆小説とか中間小説とか、ジャンルがあると言う人もいるかもしれませんが、じゃあ、山田詠美小川洋子あたりは、どうしましょうね。他にも純文学なのか中間小説なのか、はっきり線引きできない作家はたくさんいることでしょう。

 で、何がいいたいのかというと、「文学」の線引きは、人による、ということ。
 つまり、何をもって「文学」と呼ぶのかは、人によって違う。辞書的な意味はあると思うけど、どれを「文学」として、どれを「文学」としないかは、人によって違う、のである。

 じゃあ、「短歌」は、どうであろうか。
 やはり、これも、人によって「文学」と言う人と、私のように「文学」じゃない、という人がいる、ということである。
 
 ここから先は、「短歌は文学である」、という命題の反駁をエンエンと続ける予定であるが、それは次回にしたい。