「歌集」の読み方①

 少し前、人気漫画『鬼滅の刃』の作者が女性であったことがちょっとした話題になった。一応、名前(これも、今にして思えば、中性的なペンネームだ)、や作者の自画像(眼鏡をかけたオス?のワニ)から、そこそこ若い男性漫画家を誰もがイメージしていたわけで、実は、女性だった、というのが意外だったということなのだろう。
 が、だからといって、『鬼滅の刃』の作品世界が変わることはない。すなわち、物語というのは、作者の属性とは関係がない、ということを表していよう。つまり、面白い漫画を描く漫画家というのは、男だろが女だろうが関係なく、年齢も関係なく、学歴や国籍も関係がない、ということである。極端な話、『鬼滅の刃』のような少年漫画を描く漫画家が、15歳の女子中学生でフランス人だったとしても、センセーショナルなことではあるが、『鬼滅の刃』の作品世界を変化させる事象とはならない、ということだ。
 しかし、ことが「エッセイ集」だと大きく違う。
 別に古典を持ち出すこともないのだけど、誰もが知っているということで、「枕草子」を前回から例にあげているけど、あの清少納言が、実は男性だった、ということになると、これはかなり話がややこしくなる。女官であることが、あのエッセイのリアリティの重要な担保なわけであるから、前提が大きく崩れることになる。
 ここが、物語を含む小説世界とエッセイの大きな違いなのではないかと思う。
 話をものすごく単純にいうと、小説というのは、作者が考えた「面白い話」を、「いかに面白く書くか」、というのものだろう。読んで、面白ければ本は売れる。
 他方、エッセイというのは、作者が考えた「面白い話」を「いかに本当らしく書くか」というものなんだと思う。だから、「面白い話」が本当なのかウソなのかは問題ではない。それが、ちゃんと本当らしく書かれてあれば、もともと面白い話なんだから、本は売れる。
 で、「本当らしい」の担保として、そのエッセイを書いた作者の属性はかなり重要になる。「枕草子」の作者が実は男性だった、となると、あの内容はフィクションだった、ということになり、とたんにツマラないものと感じよう。べつに、古典にこだわる必要はなく、なんでもいいけど、例えば、さくらももこもものかんづめ』が、実はさくらももこが書いていなくて、別のゴーストライターがいて書いていたとしてもバレなければ何も支障はないけど、実はゴーストライターがいたなんてことがオオヤケになると、途端に、内容が嘘くさくなってしまう(というか、ウソだったということがバレる、ということだろうけど)ということだ。私は、あまりエッセイは読まないけど、売れている作家のエッセイの多くは、アシスタントなりゴーストライターなりが代わりに書いていると思うし、そして、その内容のほとんどは雑誌や編集者のテーマに合わせた作り話だと思っているけど、別に、それはそれで問題はない、と思う。
 そういうわけで、エッセイというのは、「本当らしく」書かれてあればそれでいいのであり、「本当かどうか」の証明は一切必要としないジャンルである、ということだ。
 と、ここまで、話を進めて、短歌の話題に移る。
 私は、原則として「歌集」というのは、「エッセイ集」と同じように読んで愉しむものなのだろうと思う。
 つまり、やはりそこで詠まれてある歌の内容が、本当がどうかは問題にならない。別に、作り話でも、見てもいないことを見たように詠っても問題はない。大切なのは、それらの歌にリアリティがあるかどうか、ということである。リアリティがないと、読み手としては、まったく面白くない、ということだ。あるいは、本当らしく書いていながら、明らかなウソが分かるととたんに騙された気持ちになってツマラなくなる。こちらも、エッセイを読む愉しみと同じだろう。
 短歌の世界では<私性>というのが、しばしば議論されるが、私としては、あんまり難しいことを言わなくても、歌の内容は<本当らしく>あれば、それでいいんじゃないか、と思う。
 じゃあ、その<本当らしい=リアリティ>を担保するものは何か。というと、やはり、岡井のテーゼに尽きると思う。これが、リアリティを担保する条件だ。

 

 短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(中略)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。

岡井隆『現代短歌入門』1969年)

 

 このテーゼが秀逸なのは、<私性>について述べていながら、実は<私性>の真偽については一切触れていない、ということだ。作品に登場する人物が、実際に存在するのかどうかは議論の俎上にあげていないのだ。
 登場する人物が実在するかどうかではなく、読み手にとって、その人物の「顔が見え」ればいい。それが作品のリアリティの担保ということになる。

 そういうわけで、「歌集」というのは、「エッセイ」を読むように味わえばいいのであって、上質な「歌集」というのは、「上質」なエッセイの味わいとかなり近いということになる。
 そして、歌集評、というのを考えるときは、やはり、歌集に登場する主人公の人物像をいかに韻詩のなかで彫琢しているか、ということを評するのが重要になるだろう。
 あとは評者によって、そうした人物の彫琢に重点を置いて批評するのもあれば、やはり短歌なのだから、一首の出来具合に重点を置いて批評するのもあろう。この比重は書評を書く評者によっても、歌集によっても、違ってくるだろうから、いろんなバランスがある。

 というわけで、歌集というのは、歌が300首なり並んだものに違いないけれど、おのずとエッセイ集を読むような楽しみがある、ということなのだ。
 で、これで歌集の「読み」については解決したか、というと、これがまた、そういうものではない、のである。(次回に続く)