短歌の「リアル」⑧~口語短歌編その3

 現代口語短歌の<リアルの構造>を探ってみよう。

 前回あげた永井の歌から、もう一度検討しよう。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

 この歌に<リアリティ>があるとするならば、<リアリティ>を担保するだけの何らかの理由あるはずだ。

 その理由として、「時間の経過」が感じられるかどうか、というのをここでは仮説として提出しよう。

 この歌には、3つの主体の心情が記述されている。

すなわち、

 

・白壁にたばこの灰で字を書こうとする

・思いつかずに諦る

・煙草をこすりつけようとする

 

 の3つの心情である。

 この3つが「現在形」で表されていることに注目して、文語短歌と比較検討するから、肉厚で彫りの深い作者像を作りだすことは難しい、といったような議論になってしまうのだ。が、前回までにあげた、茂吉の<わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり>と同様に、「時間の経過」が詠われているとするなら、構造としては同じである、という議論が展開できないか。

 つまり、永井も茂吉も、「時制」の違いはあるものの、主体の心の移ろい、すなわち「時間の経過」が詠われることで、<リアリティ>が担保されている、ととらえることができるのではないか、というのが、本稿の主張だ。

 では、同様の構造になっている口語短歌作品をあげてみよう。これらの作品に<リアリティ>は感じられるだろうか。

 

あれは鳶そっくり文字で書けそうな鳴き声だなと顔あげて見る

                        山川藍『いらっしゃい』

目を閉じてしまいあぶない階段でむずかしいこと言わんといてよ

 

 一首目。一首のなかに心の移ろいを三つ詰め込んでいる。

〈そっくり〉と思った心情。

〈鳴き声だな〉と思った心情。

そして、〈見る〉という動作。

と、三つの場面が並び、<時間の経過>がわかる。主体の心情の移ろいが<時間の経過>とともに、かなりくっきりと詠われている一首ということがいえよう。

 二首目も同様。

目を閉じてしまった時、

あぶないと思った時、

言わんといてよと思った時、と三つの<時間の経過>がある。

 

 こうした作品からは<リアリティ>が感じられる、というのが本稿の主張なわけだが、では、なぜ「時間の経過」が作品で詠われると、<リアリティ>が感じられるのか。

 この点については、以前の議論で提出したキーワードを思い出してほしい。

 それは「生の一回性」だ。

 私たちは、かけがえのない一度きりの人生を生きている。それは、改めて言うことでもなく、誰もが分かっていることだ。ただ、一方で私たちは、代わり映えのしない日常を生きているということもいえる。昨日と今日とで、何か違ったことがあったがというと、そんなこともなく、のっぺりとした日常が日々ただ流れている、といった感慨を持つこともある。

 ただ、そんなのっぺりとした日常であっても、どこかに、自分の人生のかけがえのなさ、といったようなものを感じたい、と思うのも人の常ではないか。そんな当たり前の感情を喚起するものとして、大きく言えば芸術活動なんかがあるともいえるだろうし、そのなかに、詩歌も入るのかもしれない。

 では、そんなかけがえのない人生、すなわち「生の一回性」というのを一行の詩で表すにはどうしたらいいか。

 というと、その方法の一つとして<リアル>に詠うということがあげられよう。詠み手の立場からすれば、短歌作品を読んで、ああ、これは本当のことを詠っているに違いない、と、感じることで、その作者あるいは主体の「生の一回性」といったものを実感するわけだ。

 そして、そんな<リアル>に感じる詩歌の構造として、「具体的」とか「小さな違和感」とか「時間の経過」といったものがあるのではないか、ということをこれまで議論してきたのだ。

 では、一首を読んで、そこに「時間の経過」が分かるとなぜ<リアリティ>を感じるか。

 というと、そこには、過去から現在といった「確かにあったその人物の人生」のようなものを感じるからだろう。もちろん、その「時間の経過」というのは、朝起きて飯を食って仕事をして帰って寝た、といった、のっぺりとした日常の風景の描写だけではなく、たとえ日常の風景であっても、そこに具体的なほんのちょっとの違和感みたいな描写があれば、読み手は<リアリティ>を感じてしまうというのが、一行詩である短歌ならではの構造なのではないか。

 ドアの閉まる音が、「ガシャン」ではなく「ダシャン」だったというほんのちょっとの違い。 

 あるいは、果物屋の台がかたむいていたという、ほんの小さな発見。そこから感じた違和。

 そうした「具体的」だったり「小さな違和感」だったりしたことで<リアリティ>が担保されることについては、これまで議論した通りだ。

 では、「時間の経過」はどうか。

 白壁に煙草の灰をこすりつけよう、と思ったこと。

 それだけでは、<リアリティ>はさほど感じない。

 その前に、何か字を書こうと思ったこと、そして、思いつかなったこと、という時間の経過があることで、この主体は、「確かにそう思ったに違いない」といった<リアリティ>が担保されるのだ。

 同様に、鳶の鳴き声を聞いて、顔をあげて鳶を見ること。これは、日常の風景の一コマだろう。けれど、頭上に鳴き声が聞こえてきて、ああ、これは鳶そっくりの鳴き声だと思い、文字で書けそうだなと思い、顔をあげて鳶を見る、という「時間の経過」が記述されていることで、ああ、この一連の心の動きは、本当のことに違いない、と読み手は感じるのだ。と、思うが、どうか。

(次回に続く)

 

短歌の「リアル」⑦~口語短歌編その2

 前回までは、口語短歌というのは、時間軸を移動させながら現在形で詠うのが基本的な方法である、ということを議論した。

 では、どういう作品がそういえるのか、確認してみたい。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

                  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

この歌には、3つの現在がある。すなわち、

 

・白壁にたばこの灰で字を書こうと思った瞬間

・思いつかずに諦めた瞬間

・煙草をこすりつけようと思った瞬間

 

の3つだ。

この3つの瞬間を1首にまとめたというわけだ。

大辻は言う。

 

このように永井の歌において時間の定点はひとつではなく多元化されている。そして、作者はそのつど異なった「今」の間を移動し、それぞれの「今」の上に立って叙述内容を言表してゆく。永井の歌において、作者はその場その場において「今この時」という現在だけを感知し、その心情をそのつど言表し、慌しく時間軸の上を走り去ってゆくのである。

(前掲書)

 

 前回引用した、斉藤斎藤のいう「口語短歌の話者は、特定の時点に固定されてはおらず、時間軸を移動しながら発話している」も、同様なことを言っていよう。

 

 では、両者の違いは何なのか。

 それは、口語短歌が現在形で詠うのかどうしてか、というところだ。

 大辻の論旨によれば、文語の精緻な時制の叙述と比べるかたちで、

・現代口語は、過去や完了を表す助詞や助動詞が(近代文語短歌と比べて)、貧困なためだ。

・現代の若者たちが、生きている様々に変化する「今」をできる限り正直に記述しようとするためだ。

 とする。

 他方、斉藤斎藤の論旨によれば、文語短歌の時制表現にも触れながら、

・そもそも、現代口語短歌は、過去や未来の出来事でも目の前で起こっていることとして詠うのが基本の方法なのだから、過去や完了の助詞や助動詞は不要なのだ。

・「今」に強くこだわるのは文語短歌のほうであって、口語短歌は、いくつもの「今」を一首で表現しているのだから、ひとつの「今」だけを詠おうとしているのではない。

と、する。

 この両者の違いについては、どちらも仮説の域は出ていないだろうとしたのは、前回述べた通りだ。

 

 なお、私の考える、現代口語で時間軸が移動する理由は、こうだ。

 近代の「言文一致」の運動による試行錯誤以降、話し言葉に文体を近づけていく過程で、散文芸術の世界では、モダリティがどんどん発達したといえまいか。モダリティとは、話し手の捉え方や述べ方を主観的に表すカテゴリーだが、例えば、物事を客観的に言う場合、

・コロナ第2波は来ない。

と断定すれば、これだけで終わる。が、主観をつっこむと、

・コロナ第2派は来ないと思う。

・コロナ第2派は来ないらしい。

・コロナ第2派は来ないに違いない。

・コロナ第2派は来ないかもしれない。

・コロナ第2派は来ないでちょうだいな。

・コロナ第2派は来ないでほしいと思っている。

・コロナ第2派は来ないと思っているがそうともいえない。

・コロナ第2派は来ないに違いないと思っているが、どうだろうか。

・コロナ第2派は来ないに違いないと思っているのは、私だけではないはずである、と考えられよう。

 と、どんどん文末が長くなる。

 そうなると、短歌文芸で、現代の自然な話し言葉を使って歌にしようとすると、当然ながら、字数がふえてしまい韻律として苦しくなる。

 そのために、立脚点主義をやめて、現在形で「今」がどんどん移動する「移動主義」とでもいえる<時制>で詠うことにしたのではないか。

 例えば、大辻の論考には、先にあげた永井の歌を文語に改作している部分がある。

 

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 原作

吸い殻にて文字を書かむとしたりしが思いつかねばこすりつけたり 

                       大辻による文語改作

 

 これは、移動主義の永井の作品を、こすりつけた瞬間を時間の定点とした立脚点主義の文語体に改作をしたものだ。

 さて、この大辻による改作をさらに、口語に改作すると、次のようになろう

 

吸い殻で文字を書こうとしたけれど思いつかなかったのでこすりつけた 

                           筆者による口語改作

 

 原作の<字を書こう>が「字を書こうとしたけれど」と字数が増えている。<思いつかない>も、「思いつかなかったので」となる。<こすりつけよう>は「こすりつけた」の過去形、ただし、正確には「こすりつけようとした」だろう。

 なので、なぜ、口語短歌は立脚点主義をやめたのかというと、口語で、文語のような時制表現をとろうとすると、字数が必然的に増えてしまい、そうなると韻律的に苦しいので、やむなく移動主義になった、というのが、私の仮説だ。

 であるから、この永井の作品に代表されるいくつも「今」のある口語短歌というのは、私に言わせれば、近代短歌の亜種のようなものだ。だから、大辻が近代短歌の精緻な時制の叙述と比較して、現代口語短歌について、「肉厚で彫りの深い作者像を作りだすことは難しい」、と否定的に述べるが、そうでもないよ、と私は思う。

 つまり、こうした現代口語短歌も、近代文語短歌と同じく、肉厚で彫りの深い作者像を作りだすべく、わざわざ3つの出来事を1首に並べていると思うのだが、どうだろう。

 

 さて、話がずいぶんと脇道にそれたが、このBlogは「リアルの構造」についての話題であった。

 なので、そろそろ話をそちらに戻したいと思うが、先の永井の作品にリアリティはあるかと問われたら、私は、「ある」とこたえよう。

 では、この永井の歌では、なぜ、リアリティがあるといえるのか。

 という点を、次回、遠回りしたが、議論することにしよう。

 

短歌の「リアル」⑥~口語短歌編その1

 前回は大辻の論考を引用しながら、<リアルの構造>について議論した。
 <リアル>というのは、要は<本当>のことだ。つまり、読み手側からすれば、一首を読んで、ああ、これは本当のことを詠っているに違いない、と思えば、それは<リアルな歌>、ということになる。
 で、リアルがリアルたる所以、つまり、その構造を探るために、ここまであれこれ議論した。前回は、読者が一首を読んで、これは<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と実感すれば、それは、まさしく<リアルな歌>といえるだろう、という仮説にたって、では、どうやったら実感できるか、という点を大辻の論考より議論した。
 そこで、導きだされたこととして、一首のなかに、
・作者の「今」の瞬間の様子が分かる
・作者の過去の体験が分かる
 の2つが読み取れると、どうやら、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するのではないか、というところまで進んだのだった。
 そして、そんな実感ができる技法として、近代短歌は<精緻な時間の叙述法>という技法を発見した、というわけである。
 さて、この大辻の論考であるが、実は、この論考の主要な論点は、ここではない。近代短歌の時間の叙述法は、いわば前段の議論で、主要な論点は、現代口語短歌の時間の叙述法についてなのだ。
 その論旨をざっとのべると、近代短歌は、精緻な時間の叙述ができるけど、現代口語短歌は時間の経過を叙述することのできる助詞や助動詞が貧しいから、そうした精緻な叙述ができない。そこで、現代口語短歌は「今」という時間の定点を多元化する詠み方を生み出した。しかし、それは本質的な問題ではく、本質的には、口語短歌は「今」をできる限り正直に記述しようとしているために、そうした詠み方になっていよう、という。
 そして、永井祐と斉藤斎藤の作品から、そうした現代短歌の時間の叙述の特質を検証している。
 その結果、次のように、大辻は結論付ける。

 

 永井や斉藤が採用した現代口語は、生き生きと明滅する「今」を記述することに秀でた言語体系である。しかがって現代の若者たちが、今、生きている瞬間をリアルな形で表現するために現代口語を利用するのは故なしとしない。しかしながら、「現在形」を多用し、助詞・助動詞を排除した現代口語の文体では、かつて近代短歌が描出した肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことは難しいと言わざるを得ない。
(前掲書)

 

 このように、大辻は、短歌形式の<時制>の叙述法に注目して、近代文語短歌の精緻な叙述と比較するかたちで、現代口語短歌の時間の叙述に関して否定的に述べたのであった。
 ここの論点を整理すると、
・近代文語短歌は、時制に関わる助詞や助動詞を駆使することで、肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことができる。
・しかし、現代口語短歌は、「今」を記述しているから、肉厚で彫りの深い作者像をつくりだすことは難しい

 と、いうことだ。

 この議論に、正対していると思われる論考を展開したのが、斉藤斎藤であった。
 この先は、斉藤の論考をみながら、口語短歌の<時制>の叙述について、考えてみたい。

 斉藤は言う。

 

 (前略)口語短歌の話者は、特定の時点に固定されてはおらず、時間軸を移動しながら発話している。タイムマシンで移動しながら、過去や、未来の出来事もいま目の前で起こっているかのように詠うのが、口語短歌の基本的な方法だろう。だとすれば、出来事はつねに話者の<現在>において起こるのだから、話者にとっての<過去>であることを示す時制表現は、必要なくなるはずである。口語に過去を示す助動詞が少ないのは、端的に不要だからではないのか。
 また完了の助動詞も、話者の立ち位置が発話時に固定されているからこそ、複数のニュアンスの使い分けが必要となるのである。話者が時間軸を移動しながら叙述する場合、完了形で描かれていた出来事は進行形で描かれることになる。だから文語において「ぬ」「たり」などが果たしていた機能は、口語では「た」が一人で肩代わりしているのではなくて、「ている」などの継続を示す表現や、助動詞ぬきの現在形に、分担されているのではないか。(中略)
 ついでに言うと、口語短歌に現在形が目立つことを理由に、いまの若者は「今」にしか興味がない、というようなことも言われるが、これも逆ではないかと思う。口語短歌現在形が目立つのは、「今」を離れて話者が動くからである。さまざまな時制表現を駆使して話者にとっての「今」に強くこだわるのは、むしろ文語のほうではないか。

 (斉藤斎藤「口語短歌の『た』について」「短歌人」2014.9)

 

 斉藤も疑問形で論述しているように、これは仮説として論じていると捉えるのがいいだろうが、大辻の論考にうまくかみ合わせていることはわかる。
 口語短歌で、一首のなかで現在形の多用されている点について、斉藤は<時間軸を移動しながら発話している>と述べる。これは、大辻も同じで、前掲書には「…時間の定点はひとつではなく多元化されている。そして、作者はそのつど異なった『今』の間を移動し、それぞれの『今』の上に立って叙述内容を言表していく」と述べており、ここの点については、両者の相違はない。
 しかし、なぜ、口語短歌が「時間軸を移動しながら発話している」のかというと、両者の意見は分かれる。
 大辻は、現代口語の過去を表す助動詞の貧困が理由だという。
 一方、斉藤は、そもそも現代口語短歌は、時間軸を移動しながら現在形で詠うのが基本的な方法なのだから、過去を示す助動詞は端的に不要なのだ、また、完了の助動詞も継続表現や現在形に分担されているのだ、という。
 この点について、どちらが正しいか、あるいは、論理的に整合しているかのジャッジは難しいだろう。突き詰めると、どちらも推論の域を超えていないようにも読めよう。
(次回に続く)

短歌の「リアル」⑤~文語短歌編

 前回までは、穂村弘の論考を参照しながら、<リアルの構造>について考えてみた。
 今回からは、また違った視点から<リアルの構造>について考えよう。
 なにも短歌は、「具体的」で「小さな違和感」を詠えばリアリティが担保される、というわけではない。短歌のリアリティとは、そんなシステマチックなことに集約されるというだけではない。
 それに、「具体的」で「小さな違和感」を描写すればリアリティが担保されるというのなら、それは短歌特有というわけではなく、たとえば俳句や短詩でも担保できそうである。あるいは、小説の技法としても使えそうなものだ。なので、この<リアルの構造>は、何も短歌に特化されているというわけではなく、広く表現形態全般にいえそうなものだ。
 そうではなく、短歌特有の<リアルの構造>というものは考えられないだろうか。
 短歌でよく言われるのは、作者の心情を一行の詩として、詠い切ることのできる詩型である、ということだ。それは時には、たった一行の詩に、作者の人物像や実人生までが読者には透けてみえる、という実感があったりもする。
 そうした、作者の人物像や実人生までが透けて見えるかような作品に、読者は、ズシンとしたリアリティを感じるのではないか。つまり、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するリアリティである。
 たとえば、こういう歌は、どうだろう。

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途に佇みにけり
                   斎藤茂吉『つゆじも』

 この歌については、大辻隆弘が次のように解説している。

 作者である茂吉は、夕闇が迫る路上に立って、今、はっと我に返る。ああ、私はさきほどまで、海のありかを思いながら歩いていたはずなのに、いつの間にか、こんな夕暮れ迫る道の上にぼんやりと立ちつくしていたことだ……。私たち読者は、そんな風にこの一首のなかに我に返った瞬間の茂吉の気持ちを読み取るだろう。
 夕映えの紅が滲む海のありかを茫獏と想像する憧憬。その想像に心奪われて夕闇迫るまで、路上に立ちつくしていた忘我。そして、そんな自分の姿にはたと気づき自分の心の動きを顧みる自省。私たちはこの一首のなかに、茂吉の憧憬・忘我・自省といった内面性を感じることができる。そんな複雑な内面を抱えながら「今」ここに立っている肉厚で彫りの深い人物像を感じ取ることができるのである。

(大辻隆弘「多元化する『今』」『近代短歌の範型』六花書林

 たった一行の詩が、こうした深い内容をたたえているということに改めて驚くが、そのたった一行の詩を、ここまで分析できる大辻の筆力もすごいものだと思わずにはいられない。
 が、それはともかく、最後の一文に注目しよう。
 大辻は<そんな複雑な内面を抱えながら「今」ここに立っている肉厚で彫りの深い人物像を感じ取ることができるのである>と結んでいる。これは、一首から、作者の人物像や実人生が透けて見える、と私が主張したのと、ほぼ同意ととらえていいだろう。
 大辻の文章をかみしめて、もう一度、この茂吉の一首を鑑賞してみよう。どうだろう。だんだんリアルな歌になってきただろうか。
 さて、この歌で大辻は、<時制>に注目している。
 どういうことか。
 茂吉の歌を、もう一度みてみよう。
 この歌には、実は3つのできごとの記述がある。
 すなわち、

 海のありかを想像していた<わたつみの方を思ひて居た>とき、
 路上に立ちつくしていた<暮れたる途に佇>んでいたとき、
 そんな自分に気が付いた<けり>とき、

 の3つである。
 この3つがそれぞれの過去の事象として並列しているのではなく、それぞれ時間の経過を助動詞や助詞を使って一首にまとめているところが、この歌の大きな特徴なのだ。

 大辻は言う。

 このような精緻な時間の表現は西欧語の時制表現に極めて近いものだ。たとえば「て居たりしが」は「had been~ing,but」という過去完了進行形に、「佇みに」は「have ~ed」という現在完了形に置き換えることができる。この茂吉の歌には、英文法でいう過去完了進行形や現在完了形のような精緻な時制表現が駆使されており、それによって事象の生起が客観的な時間軸の上に整序されて表現されているのである。
 近代短歌が発明したのは、「今」という時間の定点に立脚したこのような精緻な時間の叙述法であった。茂吉を始めとした近代歌人たちは、万葉集由来の助詞や助動詞の機能を駆使しながら。このような客観的な時制を表現する精緻な技術を開発したと言ってもよいだろう。
「今」この瞬間に確かに生きながら、自分が体験してきた過去を同時に思い出す。体験してきた過去を背負いながら、かけがえのない「今」を生きる。近代短歌に登場してくるそんな肉厚で彫りの深い作者像は、このように時間の定点を一点に固定し、それ以前の時間を整序して表現する叙述法が生み出したものだったのである。
(大辻、前掲書)

 大辻の論述から、茂吉の歌の<リアルの構造>が抽出できよう。
 引用文の2つめの段落にある、<「今」という時間の定点に立脚したこのような精緻な時間の叙述法>、これが、どうやらカギのようである。
 茂吉の歌のように、3つの出来事の経過を1行に収めるには、<精緻な時間の叙述法>という技法の発明が必要であった。では、なぜ、そんな技法が必要なのか、というと、<「今」という時間の定点に立脚>するためだ。
 では、なぜ、「今」という時間の定点に立脚することが必要なのか、というと、それは、「今」のこの瞬間を確かに生きているという描写と、過去を思い出している描写、の2つが1行に表されていることで、<肉厚で彫りの深い作者像>が浮かび上がるため、といったところが、大辻の論旨になろう。
 つまり、読者からすると、一首の描写から、
・作者の「今」の瞬間の様子が分かる
・作者の過去の体験が分かる
の2つが読み取れると、どうやら、<作者のかけがえのない人生を詠っているに違いない>と、実感するようである。
(次回に続く)

短歌の「リアル」④

 前回の終わりに引用した、穂村の一文の解読からはじめよう。
 この文章だ。

 これらを写実的リアリズムの影響下に、その一部をツール的に技法化した表現とみることもできそうだ。
穂村弘『短歌の友人』河出書房新社

 ひとつひとつみていこう。
 まずは、「写実」。短歌の世界では、「写実」という語に、いくつかの概念が張り付いている。すなわち、短歌の世界の「写実」とは、英語のリアリズムの意味だけでは使われているわけではないということだ。
 それが証拠に、穂村は「写実的リアリズム」といった、よくよく読むとおかしな言い方をしているではないか。
 では、短歌の世界の「写実」とはどんな概念だろうか。
 『現代短歌大辞典』より「写実」を引く。執筆者は大島史洋。

 英語のリアリズム、フランス語のレアリスムの訳語として明治時代頃から使われ始めた言葉。主観による美化や修正をおこなうことなく、現実をありのままに描写する主義、方法をいう。(中略)短歌の世界では「写生」と混同して用いられることが多い。正岡子規は、…「写生」を絵画の場合、「写実」を文章の場合と使い分けているが、一方、「写生文」といわれる文章革新運動を弟子たちとすすめており、明確な区別があったわけではない。後、子規の系譜を継ぐ「アララギ」の歌人たちは多く「写生」の語を用いて指導理論とした。(後略)
(『現代短歌大辞典』三省堂

 短歌の世界の「写実」と言えば、正岡子規からはじまるアララギ系の歌作主義あるいは方法、といった連想が容易につく。いちいち言わなくても、「写実」といえば、そうした概念理解を期待していよう。
 では、その子規から現在まで連なる「写実」というのは、どういう主義、方法なのかというと、「主観による美化や修正をおこなうことなく、現実をありのままに描写する主義、方法」ということ。これが短歌の世界での<写実>だ。
 で、主張するは簡単だけど、実際にどう詠むか。と、いえば、それこそ、子規の時代から現在まで、ありとあらゆる<写実的リアリズム>の作品が生み出されてきていよう。そうした、短歌の世界で影響を与えてきた<写実的リアリズム>の歌の作り方の、一部をツールとして技法化した、と穂村は言う。
 つまり、そうした写実の歌の作り方として、こういうやり方がありますよ、と、吉川や東の作品を実例としてあげたのである。
  穂村は、<リアルの構造>として、「具体的」と「小さな違和感」をあげたわけであるが、こうした表現描写というのは、何のことはない、これまでのアララギ系の<写実的リアリズム>の歌作の技法として、ツール化されたものだ、といいたいのだ。
 遠回しながら、穂村はこの一文で、吉川と東を挑発しているとも読める。

 それはともかく、では、アララギ系の写実的な作品で、<構造>は抽出できるだろうか。
 これまでこのBlogでは、斎藤茂吉をいくつか取り上げてきたが、例えば、このような作品から<リアルの構造>が抽出できよう。

 

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり
監獄に通ひ来しより幾日経し蜩啼きたり二つ啼きたり
あま霧し雪ふる見れば飯をくふ囚人のこころわれに湧きたり

 

 一首目。<終にかへり見ずけり>に、「具体的」で「小さな違和感」を読むことができよう。ただ走って去ったのではなく、返り見ることなく去っていったと「具体的」に詠うことで、読者は、確かに狂人が笑って去っていったに違いない、といったリアリティを感じることができるだろう。
 二首目。こちらも結句、<二つ啼きたり>という「具体的」な「違和感」を、とってつけたように詠うことで、ズシンとしたリアリティがうまれよう。
 三首目。こちらは<飯をくふ囚人のこころ>だ。ただの囚人のこころではなく、<飯をくふ>と「具体的」に詠うことで、リアリティが生まれる仕組みとなっている。これが「罪の意識にさいなまれている囚人のこころ」とか「家族を思う囚人のこころ」だったら、平凡になる。飯を食っているこころという、オヤ?と思う「小さな違和感」がリアリティを担保しているのだろう。

 以上、私たちが一読して、リアリティが感じられる、という作品のなかには、こうした「具体的」で「小さな違和感」が詠われている場合が多々あるのだろう。

短歌の「リアル」③

 前回までと同様、穂村の論考をもとに進めていこう。
 穂村弘は、吉川宏志の作品から、リアルの「構造」を抽出している。

 それは、こういう歌からだ。

 

 門灯は白くながれて焼香を終えたる指の粉をぬぐえり
                    吉川宏志
 秋陽さす道に棺をはこびだし喪服に付いた木屑を払う
 
 この吉川の2首は、同じ<構文>でできていると穂村は言う。

 

 <構文>とは具体的に、「門灯」と「秋陽」、「焼香を終えたる」と「棺をはこびだし」、「指の粉をぬぐえり」と「喪服に付いた木屑を払う」の組み合わせが、殆ど同一のパターンで書かれていることを指している。特に大きなポイントは「指の粉」や「喪服に付いた木屑」といった具体的で小さな違和感に着目して、そこを丁寧に描写していることだ。
(穂村「『実感の表現』をめぐって」『短歌の友人』河出書房新社

 

「具体的」と「小さな違和感」というキーワードが出てきた。吉川の作品にある、「リアリティ」は、この「具体的」と「小さな違和感」によるものといえるだろう。そして、それがすなわち、リアルの「構造」と呼べるものなのだ。
 もう少し、吉川の作品を見ていこう。

 くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶(ものう)きときを
                               吉川宏志

 この作品にある、「具体的」で「小さな違和感」はどこだかわかるだろうか。
 そう、<かすかにかたむけり>の部分だ。
 旅に出た夕方の物憂げな時間帯に、主体は果物屋さんの前を通りがかった。そのさい、果物の載っていた台が、かすかにかたむているのを発見した、という歌である。
 歌の内容としては、私に言わせれば、実にどうでもいいことを詠っているのだが、こうしたどうでもいい内容の歌が、良い歌として評価されるのは(ちなみに私もこの歌は、良い歌と評価する、つまり、歌の良し悪しというのは、歌の内容ではないということなのだが、それは、別の話題である)、ひとえに、<かすかにかたむけり>というリアリティに拠っている。
 そのリアリティを担保するのが、「具体的」で「小さな違和感」であり、この作品であれば、かすかにかたむいていた、ちいさな違和感の具体的な描写、ということになる。
 穂村は言う。

 

 「かたむけり」が一首にリアリティを与えている。現実には真っ直ぐであっても「かたむけり」と書くことで「実感の表現」が可能になるとも云える。「大きく」ではなく「かすかに」かたむいていることも重要だ。違和感が小さければ小さいほど読者の受け取る現実感は逆に大きくなる。「指の粉」「木屑」のささやかさを想起されたい。
(穂村、前掲書)

 現実には傾いていなくたって、<かたむけり>と詠うことで、リアルになる。ホントは真っ直ぐでも、真っ直ぐと詠うとリアリティは担保されない、といっているわけだ。なんて、短歌は罪深いんだろう。
 そうそう、前回までに紹介した歌をもう一回提出しよう。
 こんな歌だった。

 うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
                            村木道彦

 「うめぼしのたね」のリアリティはどこからくるか。と、いうと、まずは「具体的」である。けど、コカ・コーラの缶も「具体的」である。しかし、「小さな違和感」でいうとどうだろう。コカ・コーラには違和感はないだろう。夏のベンチに置かれているものとして、コカ・コーラは、かなりいい線をいっていよう。一方、うめぼしのたねは、オヤッとした感じになる。現実的にあり得るモノだから、大きな違和感はないだろうが、小さな違和感があるだろう。
 もう少し、穂村の論考から、例歌をあげてみてよう。

 おさなごの椅子の裏側めしつぶの貼りついており床にしゃがめば
                       吉川宏志
 所在なき訪問客と海を見るもろもろのペンキはがれる手すり
                       東直子

 

 「具体的」「小さな違和感」のキーワードを補強する例歌だ。
 吉川のは「めしつぶの貼りついており」、東のは「ペンキはがれる手すり」だ。ようまあ、短歌ってのは、こんなゴミみたいなどうでもいいものを詩歌にするものだなあ、とつくづく思う。
 こうした作品を読むと、私は、「ああ、短歌だな」と思う。何というか、これらの作品は「ザ・短歌」とでもいえるような、リアルの「構造」がくっきりとみえよう。
 それはともかく、これらの例歌をあげて、穂村は言う。

 

「めしつぶの貼りついており」「もろもろのペンキはがれる」具体的で小さな違和感のバリエーションである。本当にあったことだ、という感覚を補強するために必須と思えばこそ、短い定型のなかでその描写に文字数が費やされているのだろう。
 これらを写実的リアリズムの影響下に、その一部をツール的に技法化した表現とみることもできそうだ。
(穂村、前掲書)

 最後の一文に注目しよう。
 これ、何言っているかわかるであろうか。いきなり、話が大きくなっている。
 次回は、この穂村の一文を解読するところから、話を進めてきたい。

短歌の「リアル」②

 前回の続きである。
 リアルの構造を解く手がかりとして、「ただ一度きり」というワードを提出したのだった。
 これを頭の隅に入れながら、さらに、穂村の別の論考を見てみよう。
穂村弘「『ダ』と『ガ』の間」『短歌の友人』河出書房新社
 この論考では、この作品を提示して、論を展開する。

 

 謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の
                           小椋庵月

 

 とりあえず、この歌が秀歌かどうかはおいておいて、この歌を、次のように替えてみよう。

 謝りに行った私を責めるよにガシャンと閉まる団地の
                               改作

 「ダ」を「ガ」に替えてみた。
 さあ、この一字の違いで歌は違ってくるか。
 穂村によると、これは、大違いになるのだという。この「ダ」に<一首の命が凝縮されている>とまで言う。
 穂村は言う。

 

 「ダ」を「ガ」に替えただけで一首は死んでしまう。(中略)
 では、「ダシャンと閉まる」だと何が違うのか。「ダシャン」という響きの奥に、私は次のようなことを感じる。ある日、ある時、なんらかの理由によって、作中の<私>は本当に謝りに行ったんだな、そして、扉が閉まって心が震えたんだなあ、と。その理由は「ガシャン」の慣用性に対して、「ダシャン」というオノマトペには一回性の新鮮さがあるからだ。
 (中略)
 では、「ダシャン」にみられるような表現の新鮮さが、リアリティに結びつくのは何故か。その価値の本質とはなんなのだろう。おそらく、それは我々自身の生命の一回性に対応していると思われる。

(穂村前掲書)

 さあ、またキーワードが出てきた。「生命の一回性」だ。けど、これは、先に出した、「ただ一度きり」と似たようなワードだ。
 つまり、「ガシャン」より「ダシャン」の方が、より、ただ一度きりのかけがえのなさといったようなものをより深く捉えている、というのだ。
 たしかに、「ガシャン」は慣用表現というか、よくある平凡なオノマトペであり、新鮮さはない。一方で、「ダシャン」は、オリジナリティあふれる斬新なオノマトペである。慣用表現は、繰り返し使用されているので、「生命の一回性」とか「ただ一度きり」といったものとは対極といえよう。一方、オリジナリティあふれる斬新な表現は、かけがえのない今、といったようなものを表現するのには、ふさわしいとはいえるだろう。
 そういうわけで、この穂村の論考は、わりと納得しやすいと思う。
 この対比は、前回みた、「コカコーラの缶」と「うめぼしのたね」にもあてはまるだろう。「コカコーラの缶」は平凡で、「うめぼしのたね」は斬新、ということになる。
 であるから、新鮮な表現は、「生命の一回性」と親和性は強いだろうとは思う。
 じゃあ、詩歌は新鮮で斬新であればいいのか、というと、それはそうなんだけれども、そうした表現をするのは容易なことではないと、穂村は言う。

 

 詩歌を創作する側にまわったとき、「ダシャン」という表現の発見が決して容易ではないのは、我々の無意識が自らの生の一回性を隠蔽しようとしているからだと思われる。そのような反応は単なる無知や怖れから生まれるわけではなく、或る種の合理性に基づいている。すなわち、生のかけがえのなさに根ざした表現が詩的な価値を生むとしても、それが生の全体性にとっても常に最善とは限らないのだ。むしろ、日常的な生活や社会的な生活の現場においては不利に働くことが多い。例えば、新聞記事やビジネス文書に新鮮なオノマトペやメタファーが充ちていてはまずいだろう。そのような場では、扉は常に「ガシャンと閉まる」ことが望ましいわけだ。

(穂村「前掲書」)

 さあ、ここの穂村の論考はどうだろう。
 ぐんと話を広げているけど、要は、詩歌の言葉と日常の言葉は違うと言っていて、それは、私たちが合理的に生活している以上、私たちの無意識が詩歌のことばである「生の一回性」に満ちた表現を隠蔽しようとしているからだ、ということだ。
 ここについては、私は、首肯しかねる。
 リアリティを担保するような、新鮮で斬新な表現の発見というのは、穂村の言う無意識というよりは、別の意識、言うなれば詩歌への「美意識」のようなものだろうと私は思う。「ダシャン」という表現が、詩歌の美意識としてかんがみるときに、果たして詩歌の美的表現としてふさわしいのかどうか、というのを常に試されているのだと思う。

 それはともかく、「リアル」の構造については、これで、少しみえてきた。
 「リアル」とは何か、との答えとしては、斬新で新鮮な表現やフレーズといったものが詠われていると、読者はその歌にリアリティを感じる、ということだ。そして、その理由としては、「生の一回性」とか「ただ一度きり」といったものを感じるため、ということだ。
 では、次回以降、さらに掘り下げていくことにしよう。