短歌の「リアル」①

 前回までは、連作やら歌集やらの話題を取り上げたが、やはり短歌は、一首をこってりと弄繰り回すほうが面白い。

 そいうわけで、今回からは、短歌の「リアリティ」について、しばらくお喋りしていきたい。

 なぜ短歌には「リアリティ」が必要なのか。

 この問いの答えがゴールである。
 今年のお盆くらいまでには、答えがでるだろうか。

 まずは、そもそも「リアル」とは何だろう。
「リアル」とは一般的には「本当」という意味あいで使っていると思う。じゃあ、短歌で、「本当」のことを詠めばすべて「リアリティ」のある歌になるかといえば、そんなことにはならない。
 詠み人が「本当」のことを作品にしても、読者からすると、「リアリティ」がないなあ、と感じることはよくある。もちろん、逆もあって、詠み人が「ウソ」を詠んでも、やたらとリアルな「ウソ」ということもある。この場合は、果たして「リアル」なのか「ウソ」なのか、どうなんだろう。
 それはともかく、せっかく「本当」のことを詠んでも、本当らしく読まれないのは詠み人にとっては困る事態である。
 どうやら、「リアル」には、何らかの「リアル」たらしめる構造があるようである。
 
「リアリティ」について、これまでかなりの考察を深めている歌人穂村弘がいる。
氏の著書『短歌の友人』には、そのものずばり「<リアル>の構造」と題された一章がある。
 そのなかで、こんな問題を出しながら、リアリティについて議論している論考がある。
(「<リアル>であるために」『短歌の友人』河出書房新社

 

 □□□□□□□おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏

 

 ここの空欄を埋めよ、という問題だ。さあ、ベンチには何が置かれていたのだろう。
 穂村は、いくつかの回答例を出す。

 図書館の本おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
 コカコーラの缶おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
 君よりの手紙(ふみ)おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏

 

 この3つを提示したのち、原作(正解?)を示す。
 原作は、これだ。

 うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏
                                 村木道彦

 

「図書館の本」「コカコーラの缶」「君よりの手紙」ではなく、「うめぼしのたね」であった。
 穂村は言う。

 

「図書館の本」とか「コカコーラの缶」とか「君よりの手紙」とか、ベンチに置かれ得るモノは無数にある。だが、ここで選ばれたものは、よりによって「うめぼしのたね」なのである。(中略)「うめぼしのたね」とは一見奇妙だが、実際にはこれもまた「ベンチ」の上に置かれる可能性の充分にあるものだ。こう書かれたとたんに、いつかどこかでそんな光景を見たような気になるではないか。
(穂村前掲)

 そう述べた後、先ほどの「コカコーラの缶」と「うめぼしのたね」の歌を比較する。
 穂村は言う。

 

 両者を比較したとき感じられるのは、リアリティの深さの違いである。「コカコーラの缶」の方は、一首の情景がドラマの中のセットのように平面的な印象になっている。それは、なんというか、何度でも繰り返し可能な世界なのである。
 それに対して、「うめぼしのたね」の場合は、一首の中で「しずかなる夏」が、ただ一度きりの<リアル>な季節として息づいている。ゴミであると同時に生命の源でもあるこの「たね」によって、我々が現に呼吸しているこの世界の感触が、生々しく再現されている。
(穂村前掲)

 なんと、「コカコーラの缶」と「うめぼしのたね」では、<リアリティの深さ>が違うというのである。
 もし、主体が見た水色のベンチに、本当に「コカコーラの缶」が置かれていて、「うめぼしのたね」が置かれていなかったとしても、この歌の場合は、後者の方に「リアリティ」があるというのだ。
 そんなことって許されるのか。
 その理由を、コカコーラの缶は平面的で繰り返し可能とし、うめぼしのたねはただ一度きりで世界の感触が再現されている、と穂村は述べる。
 さすがに、この理由は苦しい。うまく言えていない。というか、何も言っていないに等しい。
 けれど、私も穂村と同様に、「図書館の本」や「コカコーラの缶」や「君よりの手紙」よりも、「うめぼしのたね」の方が圧倒的にリアリティがあると感じる。おそらく、誰もがそう感じるはずである。コーラの缶がもし本当に置かれていても、それを短歌にしたら、リアルに感じないのである。
 なんて短歌は罪深いものなのだろうと思う。
 しかし、それが短歌の「リアル」なのだ。
 では、その「リアル」とは何なのだろう。穂村は、苦しいながらも「ただ一度きり」というワードを出して説明をしている。
 どうやら、このワード「ただ一度きり」が短歌の「リアリティ」の構造を解く手がかりのようである。とにかく、この手がかりを頼りに、来週まで、短歌の「リアリティ」というのはいったい何なのかを考えてみることにしよう。
 (次週に続く)

 

「歌集」の読み方②

 前回、歌集はエッセイ集のようなものだ、という話をした。
 ただ、一口にエッセイといっても、いろんな話題があろう。多くは、作者の身近にあった出来事を題材にして面白おかしく語るものだろうか。短歌も、その多くは、自分の身の周りのことを歌にする。これを生活詠、とか、日常詠、という。また、世の中の政治や社会について、まじめに、ときには、面白おかしく語るエッセイもあろう。これを短歌の世界では、社会詠とか時事詠という。ほかにも、事件や事故の顛末や、業界のちょっとしたウラ話や、旅行記や人生を回顧するエッセイもあろう。こうしたものを短歌にすれば、機会詠なり職業詠なり旅行詠なり境涯詠ということになろう。
 そして、歌集もエッセイ集も、いくつかの話題をまとめたものだから、旅行の話の最中に政治の話題を出したり、別の話題をあれこれ持ち出したりと、短い文章や連作のなかでやると、収拾がつかなくなる。大体は、ひとつのテーマで、エッセイなら数枚、短歌なら十数首ということになろう。そして、エッセイ集であれば、それらの話題をまとめて本にする。そうしたまとめる過程のなかで、旅行記とか身辺雑記とか、日録とか、時事放談的とか、そんなテーマのエッセイ集ができあがるのだろう。
 歌集についても同様である。その多くは、作者の身近な出来事を歌材にして、それをある程度のかたまりごとの連作にして、それらの連作を配列して歌集にする。もちろん、旅行詠を中心に編んだ歌集もあるし、各章ごとにテーマのある歌集もある。
 …と、いうことを前回は駆け足でおしゃべりしたのであるが、実は、歌集には、そうしたエッセイ集のようなものとは違う歌集も、数は少ないが存在する。

 例えば、小説風の体裁をとっている場合というのがある。
 主人公がいて、一首一首読み進めていくと、ストーリーが展開していくというものである。一見、面白そう、と思うかもしれないが、短歌とはどうも肌が合わない。ストーリーで読ませたいのだったら、初めから小説にすればいいのである。わざわざ韻文形式でストーリーを展開させるのかがよくわからない。であるから、私は、そうした歌集は否定的である。現実に、そうした体裁をとって成功した歌集というのも知らない。もし、この先、小説風の体裁をとっている歌集で成功したものが出現すれば、また、違った議論ができるかもしれないが、現時点で、歌集を小説風で編集するというのは悪手だ。韻文と散文の両方の良いところを消してしまっている感じがする。

 また、主体の属性を作者から遠いところに設定して歌を詠むのも、成功しているとはいいがたい。別に作者が中年男性で、主体をうら若き少女に設定して歌を詠んでも、何も悪くないが、詠う意味がないし、それを歌集に編む意味が分からない。

 ただし、ファンタジーとかSFとかホラーとか明らかにフィクションと分かっているもので、フォーマットをかっちり決めていれば、歌集としては成立する。
 テレビ番組で「世にも奇妙な物語」というのがあるが、あれは、「奇妙な話」というフォーマットを視聴者にも明示しているから、観るほうはそういうものとして楽しめる。あれが、普通の単発ドラマで放映されたら、あまりのリアリティのなさに視聴者はつまらないと思うだろう。
 あるいは、なんでもいいけど例えば、「刑事ドラマ」というジャンルのドラマで、リアリティを求めているのか、エンターテイメントを求めているのか、視聴者はおのずと識別して楽しんでいると思う。リアリティを求めているくせにあまりにウソくさい画で憤慨することはあっても、エンターテイメントでつくられているドラマにリアリティがないと憤慨する視聴者はいないだろう。
 歌集も同様で、これはファンタジーだ、とか、SFだ、とかのフォーマットを明示すれば、そういうジャンルの歌集として成立する。ただしそれは、歌集単位であること、あるいは、最低でも数十首の連作単位であることが条件だ。一連のなかに、ファンタジーと日常詠が混在すると、読者は混乱する。そういう混乱を目論む連作というのもなくはないが、うまくはいかないだろう。
 やはり、連作規模でしっかりしたフォーマットで歌を並べるといいだろう。
 で、こうした毛色のかわった歌集が今後、多く生まれることになれば、身辺雑記ばかりのエッセイ集のような短歌の世界も広がっていいかと思う。
 「歌謡曲」が「J-POP」へと名称が変わったように、「短歌」も「タンカ」とかになるかもしれない。そして、そういう歌集は、エッセイ集とは違うから、やはり、そうしたファンタジーやSFやホラーがうまくいっているかどうかの批評を含めた書評になるんだと思う。従来の批評ではとらえきれないんじゃないかしら。
 ただ、いかんせん、そうした歌集はまだ圧倒的に数が少ないから、そうした「読み」や「批評」についても今後の議論を待たなくてはならない、というのが現状であろう。

 

「歌集」の読み方①

 少し前、人気漫画『鬼滅の刃』の作者が女性であったことがちょっとした話題になった。一応、名前(これも、今にして思えば、中性的なペンネームだ)、や作者の自画像(眼鏡をかけたオス?のワニ)から、そこそこ若い男性漫画家を誰もがイメージしていたわけで、実は、女性だった、というのが意外だったということなのだろう。
 が、だからといって、『鬼滅の刃』の作品世界が変わることはない。すなわち、物語というのは、作者の属性とは関係がない、ということを表していよう。つまり、面白い漫画を描く漫画家というのは、男だろが女だろうが関係なく、年齢も関係なく、学歴や国籍も関係がない、ということである。極端な話、『鬼滅の刃』のような少年漫画を描く漫画家が、15歳の女子中学生でフランス人だったとしても、センセーショナルなことではあるが、『鬼滅の刃』の作品世界を変化させる事象とはならない、ということだ。
 しかし、ことが「エッセイ集」だと大きく違う。
 別に古典を持ち出すこともないのだけど、誰もが知っているということで、「枕草子」を前回から例にあげているけど、あの清少納言が、実は男性だった、ということになると、これはかなり話がややこしくなる。女官であることが、あのエッセイのリアリティの重要な担保なわけであるから、前提が大きく崩れることになる。
 ここが、物語を含む小説世界とエッセイの大きな違いなのではないかと思う。
 話をものすごく単純にいうと、小説というのは、作者が考えた「面白い話」を、「いかに面白く書くか」、というのものだろう。読んで、面白ければ本は売れる。
 他方、エッセイというのは、作者が考えた「面白い話」を「いかに本当らしく書くか」というものなんだと思う。だから、「面白い話」が本当なのかウソなのかは問題ではない。それが、ちゃんと本当らしく書かれてあれば、もともと面白い話なんだから、本は売れる。
 で、「本当らしい」の担保として、そのエッセイを書いた作者の属性はかなり重要になる。「枕草子」の作者が実は男性だった、となると、あの内容はフィクションだった、ということになり、とたんにツマラないものと感じよう。べつに、古典にこだわる必要はなく、なんでもいいけど、例えば、さくらももこもものかんづめ』が、実はさくらももこが書いていなくて、別のゴーストライターがいて書いていたとしてもバレなければ何も支障はないけど、実はゴーストライターがいたなんてことがオオヤケになると、途端に、内容が嘘くさくなってしまう(というか、ウソだったということがバレる、ということだろうけど)ということだ。私は、あまりエッセイは読まないけど、売れている作家のエッセイの多くは、アシスタントなりゴーストライターなりが代わりに書いていると思うし、そして、その内容のほとんどは雑誌や編集者のテーマに合わせた作り話だと思っているけど、別に、それはそれで問題はない、と思う。
 そういうわけで、エッセイというのは、「本当らしく」書かれてあればそれでいいのであり、「本当かどうか」の証明は一切必要としないジャンルである、ということだ。
 と、ここまで、話を進めて、短歌の話題に移る。
 私は、原則として「歌集」というのは、「エッセイ集」と同じように読んで愉しむものなのだろうと思う。
 つまり、やはりそこで詠まれてある歌の内容が、本当がどうかは問題にならない。別に、作り話でも、見てもいないことを見たように詠っても問題はない。大切なのは、それらの歌にリアリティがあるかどうか、ということである。リアリティがないと、読み手としては、まったく面白くない、ということだ。あるいは、本当らしく書いていながら、明らかなウソが分かるととたんに騙された気持ちになってツマラなくなる。こちらも、エッセイを読む愉しみと同じだろう。
 短歌の世界では<私性>というのが、しばしば議論されるが、私としては、あんまり難しいことを言わなくても、歌の内容は<本当らしく>あれば、それでいいんじゃないか、と思う。
 じゃあ、その<本当らしい=リアリティ>を担保するものは何か。というと、やはり、岡井のテーゼに尽きると思う。これが、リアリティを担保する条件だ。

 

 短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(中略)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。

岡井隆『現代短歌入門』1969年)

 

 このテーゼが秀逸なのは、<私性>について述べていながら、実は<私性>の真偽については一切触れていない、ということだ。作品に登場する人物が、実際に存在するのかどうかは議論の俎上にあげていないのだ。
 登場する人物が実在するかどうかではなく、読み手にとって、その人物の「顔が見え」ればいい。それが作品のリアリティの担保ということになる。

 そういうわけで、「歌集」というのは、「エッセイ」を読むように味わえばいいのであって、上質な「歌集」というのは、「上質」なエッセイの味わいとかなり近いということになる。
 そして、歌集評、というのを考えるときは、やはり、歌集に登場する主人公の人物像をいかに韻詩のなかで彫琢しているか、ということを評するのが重要になるだろう。
 あとは評者によって、そうした人物の彫琢に重点を置いて批評するのもあれば、やはり短歌なのだから、一首の出来具合に重点を置いて批評するのもあろう。この比重は書評を書く評者によっても、歌集によっても、違ってくるだろうから、いろんなバランスがある。

 というわけで、歌集というのは、歌が300首なり並んだものに違いないけれど、おのずとエッセイ集を読むような楽しみがある、ということなのだ。
 で、これで歌集の「読み」については解決したか、というと、これがまた、そういうものではない、のである。(次回に続く)

連作の「読み」とは②

 短歌の「連作」についての2回目である。
 前衛短歌運動のなかで勃興した、大きな主題を扱う「連作」については、前回否定的に述べた通りである。
 では、そうした前衛短歌運動での「連作」ではなく、数首詠ったものを、順番に並べるようなよくある連作というのは、どうやって批評するか。
 前回、例として正岡子規の「墨汁一滴」をあげたが、これは子規が新聞「日本」に明治34年に連載した随筆集である。そのなかに10首連作が挿入されているが、この連作の冒頭の1首<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり>がとても有名であり、一首評も多い。
 ただし、この一首だけでは、子規がどのような人物なのか、とか、どういう境遇でこの歌を詠んだのか、ということまでは分からない。
 では、2首目以降であればどうだろう。

瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ
藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべかりけり

とあり、藤の花を続けて詠んでいるのがわかる。読み手からすると、作者は、ずっと、藤の花を見て、あれこれ空想したりしているんだなということがわかってくる。
そして、6首目に

瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす

とあり、ここで子規が病床にあることがわかり、寝ている状態の低いところから藤の花を観察していることがわかってくるのである。
 つまり、これが連作の読み方である。
 例えば、6首目の<瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす>の一首だけなら、子規が病床にいることはわかるけど、藤の花がどのような状態かを読者はイメージすることはできない。
 一方、<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり>では、子規が病床にあることはわからないが、藤の花の状態が、読者にはイメージできる。
 つまり、連作を読むことで、藤の花の様子や子規の境遇が、より立体的にわかるという仕組みになるのである。
 であるから「連作」というのは、やはり配列や構成は必要になってくるということがいえる。いうなれば、「連作」は散文でいうところの「エッセイ」としてとらえるといいだろう。
 別に古典を例にあげる必要もないのだが、だれもが知っている「枕草子」でいえば、「春はあけぼの」なら「春はあけぼの」という一本の「エッセイ」と短歌の「連作」は同じようなものだと考えたらよい。
 一本のエッセイがたとえ400字程度のものだとしても、それなりの構成は必要になるだろう。
 また、読者は、そのエッセイを読むときに、いったいいつの時代のエッセイなのか、平安なのか昭和なのか令和なのかといった時代背景を知らないと、「春」のとらえ方は違ってくるだろうし、書いた人物の属性も知らないと読んでいてピンとこないはずである。つまり、男か女か、とか、年のころはいくつか、とか、どんな職業・身分の人なのか、とか、そういう属性を知ってはじめて、「枕草子」にある、「春」の書かれてある内容について、ピンとくるのである。そうやってエッセイの内容を理解して、やっと批評にはいるということになる。
 短歌の「連作」も、1本の原稿用紙数枚の「エッセイ」と同じ読み方になる。時代背景や作者の属性がわからないと、いまひとつピンとこない、ということになる。
 現在でも、いろんな雑誌に、いろんなコラムやエッセイが載っていよう。そして、私たちが、普段、読む機会のないエッセイを、たまたま、例えば病院や銀行や美容院の待合で時間つぶしに開いたとする。
 その時、知らない作家だったら、果たして私たちはそのエッセイを味わえるだろうか。知らないだけではなく、作者の名前が、男女の属性すらわからない名前の作家だとしたら(昔でいえば「かおる」とか「ひろみ」とか「まき」とか)、どうするだろう。おそらくは、書いてあるテーマや内容で、そのエッセイを書いた人物についてあれこれ詮索したくなるのではないだろうか。つまり、男か女か、歳の頃はどれくらいか、どんな職業か、どんな嗜好を持っているか、そうやってあれこれ予想しながら、そして、こういう内容を書く作家というのは、こういう人物なんだろう、と読み手が自由にあれこれイメージして読むんじゃないだろうか。
 あるいは、ある程度知っている作家のエッセイの場合ならどうだろう。「ああ、この人らしいなあ」とか「え、こんなこと思うんだ、ちょっと意外だなあ」とか「この人のエッセイはやっぱり面白いなあ」とか、「ますます興味がわいてきたなあ」とか、そのライターの認知具合によってさまざまな感想を持つようになるのではないか。
 短歌の連作の「読み」というのも、基本は「エッセイ」の読みと同じなのだ。
 もし、属性のよくわからない歌人の「連作」であれば、こちらで、作家像をあれこれイメージして読むことになるし、知っている歌人だとしても、その歌人の認知具合によって、その連作を深く味わえたりそうでなかったりするのである。
 いかがであろう。
 これが短歌の「連作」の「読み」である。
 さあ、ここまで理解が進んだところで、それでは、岡井隆の有名なテーゼをだすことにしよう。

 

 短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(中略)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔を、より彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。

岡井隆『現代短歌入門』1969年)

 

 引用した部分、「短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」のところは、短歌の<私性>のテーゼとして有名であるが、そのまま「連作」のテーゼとしても有効である。そして、そのまま、エッセイのテーゼとしても通用するのではないか、とも思う。

 そういうわけで、連作の「読み」というのは、作者の属性が分からないと、あれこれ詮索したくなるくらい、作者の属性が分からなければ味わえないものなのだ、ということである。
 つまり、一首評とは、おのずと「読み」が違ってくるのだ。

 そして、「連作」の「読み」ができたら、続いて、批評に入る。
 では、「連作」の批評とは、どのようにしたらいいだろう。
 まず、「連作」の批評というのは、大きくわけて2つある。
 1つは、「連作」の構成についての批評である。歌の配列について、あれこれ批評するというものである。けど、これは、「エッセイ」でいえば、文章の構成について批評するようなもので、あまり批評としての意義は大きくない。
 もう1つは、各々の歌を「一首評」ではなく「連作」として批評する立場である。これには、手順があって、まず、作者の属性の情報を出来るだけ集める。有名は歌人の連作であれば、すでに情報があるのでここの作業は端折ることはできる。
 そのうえで、批評に入る。批評の手順としては、「連作」の主人公であるところの「主体」がきちんと整合性のある人物として描かれているかどうかの分析である。近代短歌の「読み」の作法だったら、<主体=作者>だから、整合性も何も、たった一人の人間を描いているという前提で読んで、作者の心情と短歌表現の有様について分析を施すということになるが、現代短歌となると、そうはいかない。「連作」として、岡井が言うようにちゃんと「主体」の行動に整合性があるかどうか、という分析は「連作」批評としては必須だ。広義のリアリティの担保だ。「エッセイ」だって、筆者の言ってることや、やってることが支離滅裂だったら、「なんか、このエッセイうそくせえなあ」とか「こいつ、ええかっこしいだなあ」とか「よくある話でつまらんなあ」とか、そんな感想を持つだろう。「連作」も同様だ。主体の行動に整合性がないと、リアリティが担保されなくて、つまらない一連となる。
 批評で重要なのは、詠われている内容の分析ではなく、あくまでも「主人公=主体」の整合性の分析である。詠われている内容についてあれこれ論じるのは、鑑賞文の類とおさえたほうがいいだろう。
 そうした「連作」の批評をしたうえで、あとは、各首の「一首評」ということになる。ここに至れば、あとは「形式主義的」な「一首評」で十分分析に耐えることができるだろう。すなわち、短詩型文芸の修辞技法について、一首単位でこってりとできるということだ。
 これが、「連作」の批評ということになろう。

 

連作の「読み」とは①

 今回から短歌の「連作」について、議論してみたい。
 短歌を一首単位ではなく、「連作」として、意識的に創作されたのはいつからだろうか。
 と、考えると、古典和歌にまでさかのぼってしまうのだけど、そこまでさかのぼる余裕はない。なので、『万葉集』に連作があるかどうかとか、勅撰和歌集をアンソロジーではなく連作とするかどうかといった議論は、ここでは、措くことにしよう。ただ、一応、私の立場としては、そもそも短歌は、長歌があっての短歌なのであり、長歌で朗々と詠い上げていたものを短くおさめたところが短歌であるから、作者が、短歌をいくつか並べて何か創作的意図をもたらしているようにしたのは、やはり近代以降ととらえるのがいいのではないかと考えている。
 では、近代短歌で「連作」を意識的に創作活動としてはじめたのは、いつ頃からだろう。
 と、考えると、歌を数首まとめて発表しようとしたとき、そのまとまった歌をどうやって並べるか、と考えたときに、すでに「連作」の意図はあったのだろうと思う。
であるから、近代短歌のはじまりの早い時期から、結社誌や文芸誌に何首が並べて発表したときには、すでに一首単位ではなく、「連作」としての作品効果は、当然考えたのだろうと思う。
 例えば、子規の有名な一首<瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり>は、「墨汁一滴」にある10首連作のはじまりの作品だが、この作品を10首連作のそのはじまりに据えて、続き、残り9首を配置したのは、何らかの子規の意図があろうし、それについて議論することは「連作」の効果についての意義はあると思う。同様に、有名なところで、斎藤茂吉の『赤光』の母の死を詠んだ連作もまた、その歌の配置に作者茂吉の何らかの意図はあろうし、その意図について議論するのは意義あることと思われる。
 こうした、歌の配列については、現代でも同様だ。作者は何らかの意図をもって配列し、「連作」として発表する。すなわち、この作品を頭にもってくると一連全体が見渡せる、とか、ここにこの作品を置くことで、一連のなかで起伏が生まれる、とか、最後にはこの作品を配置することで連作全体の印象が変わってくるだろう、とか、そんな配置の意図はあろう。さきほどの、子規を例にすれば、<瓶にさす~>をはじまりに持ってくることで、子規の病床での心象が読者に伝わりやすい、とか、そんな議論ができるであろう。
 さて、こうした<歌の配置>=「連作」ととらえるのであれば、その並べた意図についての議論は意義があろうが、「連作」の作品そのものは、1首1首の集合体といっていいだろう。
 であるから、「連作」として発表された作品は、「連作」の1首、としてだけではなく、1首独立しての批評が可能なのだ。先の正岡子規の<瓶にさす~>も、10首連作の「連作」ではなく一首取り上げて批評することができる。斎藤茂吉も同様だ。つまりは、一首評での批評に耐えられるということだ。というか、もともと一首として独立しているものを、数首持ち寄って、どうやって並べたら効果的だろうかと、考えて一連を作ったのであるから、当たり前といえばそうだ。
 しかし、そんな一首独立した作品ではなく、はじめから「連作」を前提とした作品群というのも存在する。
そうした「連作」が短歌史の俎上に意識的に載ったのは、いわゆる前衛短歌運動とよばれている一連の運動からであろう。
 篠弘によれば、「昭和三二年に入ってからの前衛歌人の作品は、急速にかつ明確に連作の意識をきわやかにして」きたという。(『現代短歌史Ⅱ』短歌研究社、1988年)
 そして、その理由は、「私」拡大であったというのが、篠の主張だ。
 篠は言う。

 

 日常における小さな「私」をうたうことから、現代の短歌は解放されてくる。前衛短歌の方法を、ここで一口で言うことはできないが、すべてが「私」の拡大に関わっていた。これまでの近代短歌ではうたいきれなかった世界が扱われてくる。現代人の共通認識や観念的な思想のようなものも、作品の内部にもち込まれてくる。定型であるにもかかわらず、短歌においてなんでもうたいうるような期待をもたらすこととなる。
(篠弘 前掲書)

 

 篠は、言葉を選びながら「現代人の共通認識や観念的な思想のようなものも、作品の内部にもち込まれてくる」と言うが、そうしたものを作品で表現しようとすると、それは一首じゃとてもじゃないけど無理、ということになるだろう。
 そういうわけで、当時、前衛歌人と呼ばれた岡井隆塚本邦雄寺山修司の各人は昭和32年に30首以上の「連作」「を発表したのだった。
 こうした「連作」というのは、当然ながら、それまでの「連作」とは性格が違っている。
 この前衛歌人の「連作」は、はじめに「現代人の共通認識や観念的な思想」といった遠大な「主題」があり、それにもとづいて歌を詠んだのだ。1首1首では、遠大な「主題」を詠い切ることができないわけで、読み手からすれば30首読むことで、そうした「主題」が分かるという仕組みになっているのだ。
 さて、こうした前衛短歌の「連作」の手法については、どう評価するか。
 というと、私は、こうした「連作」については、否定的だ。
 そもそも、そうした大きな「主題」を短歌で表現しようとしたこと自体、無理があったのだと思う。そうした、遠大な「主題」は、当時の文学や芸術の時代的な背景、また、短歌に近いところでは前衛現代詩の影響があったのだと思う。そうした文学や芸術に影響されて、短歌文芸でもチャレンジした、ということなのだろうが、今にして思うと、この試みは残念ながら成功に至らなかったのではないか、というのが私の意見だ。 短詩型文芸では、そうした遠大な「主題」を表現するのは難しく、たとえ一定程度の表現ができたとしても、作品を難解なものにした。短詩型文芸は、そうした大きなものを詠う器ではなかった。たとえるなら、一品料理を乗せるために作られた小皿に、フランス料理のフルコースを盛りつけようとして、30枚の小皿に料理を切り刻んで載せたようなものだった。
 また、このような「連作」の試みは、<「私」の拡大>と篠は表現するが、私に言わせれば、それは<「私」の縮小>ではないか。つまり、先に遠大な思想や観念がありき、で、近代短歌から脈々と受け継がれてきた「私性」は、限りなく縮小されているからである。そこで詠われているのは、岡井や塚本の思想や観念というもので、岡井や塚本のパーソナルな人間性を詠っているわけではない。子規のような<私の境遇>を藤の花に託しているのではなければ、茂吉の<母親の死>を、詩情をたたえ情感高らかに詠っているわけではない。
 現在から振り返って、前衛のような短歌「連作」について、短詩型文芸の可能性を拡大しようとした、その心意気については大いに賛同するが、結果としては、そうした遠大な「主題」は短歌ではやるのはやはり無理があったのではないか、というのが、私の主張だ。

 では「連作」の批評は、一首ごとばらばらにして、「形式主義」的批評を一首ごとにすればいいのか、というと、これがまた、そういうものではない、のである。
(次回に続く)

 

短歌の一首評について


 下にあげるのは、河野裕子の作品である。

 

 限りある生を互みに照らしつつほたるの点滅に息合はせをり
 河野裕子『桜森』1980年刊

 

 たとえば、私が、この歌を批評せよ、と言われたら、粗々こんな感じになる。

 上句で主体は蛍へ心を寄せているのがわかる。初句に「限りある生」と強い言葉からはじめて、一首を整合させていくのは、なかなか勇気が必要だ。蛍が点滅している様を「互みに照らしつつ」を描写しているのは素晴らしい。下句で、主体の動作が描写される。蛍が点滅している様を「息合わせをり」と詠っているのが、この歌のポイントとなる。この描写によって、蛍の限りある生に寄り添う、同じ「限りある」命を生きる主体と重なり、生のはかなさが表現されている。
 蛍には、はかなさといったコノテーションが張り付いており、そうした蛍のイメージを効果的に詠っていて、夏の夜の寂しさを表現することに成功した。
 4句の字余りによって「ほたるの点滅」がもたつき、結果、リズムの面でも4句が強調される効果を導いている。また、結句が232に細分されることで、スピードを緩めて「をり」に余情を引き出している。

 

 これで、だいたい400字だ。あと、何度か書き直せば完成稿となろう。
 実は、この作品は、結社誌『塔』4月号の裏表紙の「河野裕子の一首」という連載ページからとった。執筆は澤村斉美。
 こちらを引用するので、比較してほしい。
 ただし、これは批評ではなく、鑑賞文であることをあらかじめ確認しておく。

 

 ゆっくりと光が点っては消える蛍。数々の蛍がそれぞれのリズムで点滅し、照らしあう幻想的な景色のなか、作者はその点滅のリズムに息を合わせているという。光の点滅は一、二週間ほどを生きる蛍の生の姿そのものだ。息を合わせていると、自身の「限りある生」もまた照射される思いがするという一首。
 蛍は蝉と並び、河野裕子が繰り返し詠った素材である。河野の蛍の歌には古典和歌以来の手法、つまり魂や死者のイメージを重ねる手法や、近代の写生的な詠み方をしているものがある。また、蛍の点滅を「呼吸」と捉えることは佐藤佐太郎に、「息合はせ」は石本隆一に先駆表現がある。しかし、掲出歌や第二歌集『ひるがほ』の「生まれ来しわれの暗さに遡行してほたるは水に触れつつ飛べり」などは、暗闇のなかに生の根源を浮かび上がらせるところが実に河野らしい。当時までに見られた蛍の歌の様式を更新しており、河野もその意欲が十分だったのではないか。

(澤村斉美「河野裕子の一首 28」『塔』2020.4)

 こちらも原稿用紙1枚、400字だ。

 さて、両者の文章を読み比べてみよう。
 澤村の第一パラグラフは、歌の解釈であり、私と澤村の「読み」の相違はなさそうである。同じように解釈し、鑑賞していよう。ただし、ここで、注意しなくてはいけないのは、私の文章は「主体」を使い、澤村は「作者」を使っているところである。ここが、いかにも短歌の鑑賞文らしいところである。鑑賞文であれば、私も「作者」と使いたいところだ。つまり、澤村は、このうたの心象は、河野裕子本人であるという前提で、すべてを語っているということである。
 続いて、澤村の第二パラグラフは、河野の蛍という素材の扱い方について、話をひろげる。短歌の鑑賞文というのは、その一首だけではなく、一首が詠われている背景について解説を施すということをして、一首を深く掘り下げるのである。
 今回、澤村は、河野の蛍の扱い方を解説することで、一首の背景を説明している。すなわち、河野は、蛍を歌の素材としてよく使っている、そして、その歌い方には、古典的な手法も、近代的な手法もある。さらに、この歌い方は、ほかの歌人にも先駆表現があるが、河野の歌い方は当時までの蛍の歌の様式を更新していると解説する。ただ、ここのところで、「様式を更新しており」まで言い切ってしまっているのが、ちょっと残念だ。自説を提示してそれについて反証する紙幅がないのであれば、はじめから言わないほうがよかった。それこそ批評文や研究論文ではないのであるから、さらりと「個性的だ」とか、「違った蛍の歌の魅力をひきだした」あたりでおさめたほうがよかったかな、というきらいはある。
 それはともかく、こうした澤村の文章は、典型的な鑑賞文であるといえるし、今回の文章は、河野の一首の魅力を短い紙幅で最大限に引き出している、上質な文章ということがわかる。

 一首の鑑賞文というのは、こういうものである。
 まず、一首の「読み」を提示して、その「読み」に従って、一首を味わう。これが150字くらい。けど、それだけではなく、一首の背景も提示する。なぜならば、短歌というのはいかにも短いものであるから、それだけだと、味わうには情報が少なすぎるのである。そこで、作者の人となりや、一首の歴史的な背景などを提示して、一首をいろんな角度から掘り下げるのだ。今回の澤村でいえば、河野と蛍の歌い方の変遷を提示して、一首を深く掘り下げたわけであるが、ほかのやり方としては、この歌ができた当時の河野の境遇とか、社会事象あたりを、年表を参照したりしながら書くわけだ。ほかにも、短歌辞典を引っ張り出して、「蛍」の項目に目を通することで、「蛍」の有名な歌と比較したりして、この歌のより優れた部分を提示する、なんていうやり方があるだろう。
 そうして書いた内容を、今回であればなんとか400字に収めるために取捨選択して1文を書き上げるというのが、短歌の一首の鑑賞文である。
 であるから、短歌の鑑賞文というのは、その歌の作者名は必須だ。そして、作者の属性も必須だ。つまり、今回でいえば、河野裕子というクレジットは当然ながら、河野裕子という歌人は、どんな歌人なのかという情報は必要である。また、鑑賞する側も、河野裕子という属性を知っておいたほうが、より深く鑑賞ができよう。
 以上が鑑賞文だ。
 では次に、批評文を考えよう。
 鑑賞文と批評文の違いはなんだろう。
批評というのは、やはり一首を「テクスト」として分析することだ。そして、分析には、分析に必要な道具(ツール)があればいいわけで、ほかの情報は必要ない。と、いうか、「テクスト」以外の情報を持ち出して、批評するのはおかしいというのが、私の立場である。
 「テクスト」に関する情報は必要ないのだから、例えば、作者名のクレジットは必要ない。作者が誰だか知る必要はない。だから、「テクスト」に登場する人物は、必然的に「主体」という用語で呼ぶ。それから、歴史的背景も必要ない。いつ作られたのか、とか、「テクスト」の言葉にはどんな歴史的な事情があるのだとか、そんなことは必要ない。つまり、年表は必要ない。
 ただし、詩歌の批評だから、修辞分析、なかでもコノテーション分析は必須だ。たとえば「蛍」という言葉には、これまでどんなコノテーション効果があったか、そしてこの作品はそれを踏襲しているのか、あるいは、これまでのコノテーション効果をズラすことで新しい詩的効果を得ているのか、といった分析は詩歌批評としては存分にするべきである。今回で言うと、「蛍」には「はかなさ」といった詩情が貼り付いている。こうしたコノテーションを踏襲しているのか、あるいは、刷新しているか、という議論は修辞分析としては必要であろう。
 また、コロケーション分析もやっておいたらよい。この歌でいうと、「点滅」「息合わす」という組み合わせは、広義のコロケーション効果として、詩的効果を上げていると思う。(澤村の鑑賞文で、その点を取り上げているのは流石だ)。なので、そうしたところは、批評したい。そのほかに、取り上げる作品に何らかの比喩があれば、その比喩表現も分析の遡上にあげるといいであろう。(なお、私は、コノテーション、コロケーションともに広義の比喩表現であるという立場をとっている)。あるいは、その作品にオノマトペがあったなら、そのオノマトペについて分析し、批評するのは当然だろう。とにかく詩歌である以上、そこで使用されている修辞についてきちんと取り上げて分析しないと、それは批評とはいえないのだ。
 そのうえ、短歌は韻詩である以上、韻律分析もするべきだ。今回、400字では、あまり深く言えないけど、「ほたるの点滅に」の4句9音節は、やはり論じるべき部分と思う。

 と、いったような感じで、一首は批評されるべきであり、批評というのは、かなりテクニカルな作業といってよいだろう。
 そして、こうした「形式主義的」批評が、「歌会」の場でも行われるようになれば、「歌会」での無用な誤解や無駄な混乱がなくなるだろうというのが私の意見である。
 つまり、一首評というのは、まず、「読み」の解釈、そして「テクスト」分析の手順で進めればよく、分析の結論としてもし必要であれば、作品の優劣のジャッジをする、ということになる。
 一方、鑑賞文というのは、まず、「読み」の解釈、そして、一首の背景の解説の手順で進めればよく、もし紙幅があれば、筆者の感想などを加える、ということになる。ただ、鑑賞文は、そんなにテクニカルにやる必要はなく、基本はエッセイなのだから、書き手のコナレタ文章を愉しむという点も重視されようから、大まかなフォーマットとして考えればいいだろう。

 そうなると、前回までに登場した、大辻の提示した「刹那読み」「物語読み」は「歌会」の批評としては明確にNG、ということがわかるであろう。あるいは、斉藤斎藤の提示した「読者主義」、鶴田伊津の提示した「読み手の自在な読み」も否定されよう。

 さあ、これで一首評はいいだろう。
 しかし、短歌には、一首だけではなく、連作単位、歌集単位での批評というのが存在する。これが、短歌の批評を複雑にしているのである。
 次回こそは、話を進めて、短歌の「連作」や「歌集」について議論することにしたい。

 

短歌の「読み」について②

「読み」の話題に2回目である。
 鶴田の時評の関係部分をもう一度、引用しよう。

 

 その頃(二〇年以上前―引用者)の批評会は、もう少しテキスト寄りであった。助詞・助動詞の使い方の細かい指摘や表現上の粗さ、癖などを厳しく読み、やわらかい雰囲気というより、多少張りつめた空気の中で一冊が語られていたように思う。
 しかし、最近の批評会はもう少し読み手の自在な読みが展開されることが多いようだ。読み手が歌を自分の側に引き寄せて、その歌を喰らいつくすような。歌を読むというより、歌を通して読み手自身の短歌観を聞いているような。どう読むかにとどまらず、どこまで読めるか、を目指しているような。その分、引用される歌にも読み手の個性が表れて、同じ歌集からの引用でも全く違う雰囲気の歌が並ぶこともあり、面白くもあるのだか、面白がっていいのかという懸念もある。
(中略)歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよいのではないか。
(鶴田伊津「ひとかけらの真実」角川「短歌」2020年4月号)

 

 鶴田は、従来の「読み」と、最近の批評会で展開される「読み」の2つを提示し、そのうえで、最近の「読み」について、「歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよいのではないか」と、批判的に論じている。
 鶴田の結論部分にある「言葉に沿ってその歌を読む」というのは、鶴田のいう「テキスト寄り」の「読み」ということであろう。
 こうした「読み」について、私は、前回、斉藤斎藤のツイートや大辻隆弘の論考から、類似、ないし、同じ事象のことをいってんだろうと思われるところを提示した。
 これらの議論をふまえ、私見を述べるのであれば、一首評については、「形式主義的批評」のほうが、生産的な議論ができるであろうと考えている。この「形式主義的批評」とはどんな批評のことをいうかという点については、本Blogの「歌会」についての話題のなかで、主張した記憶がある。また、これまで「調べ」について、さんざんお喋りしたが、そこで引用した歌についても当然ながら作品の内容面についての批評ではなく、すべて、韻律面で一首を分析しており、極めて形式主義的であったといえよう。
 私のいう「形式主義的批評」をごく粗くいえば、一首について、その作品の背景や、作者の境遇などを一切、「読み」の情報に加えず、とにかく一首を「テクスト」として分析せよ、ということだ。
 例えば、前回、大辻隆弘が、大口玲子を例にあげて、「物語読み」について持論を展開していることを提示した。そこで、大辻は、「大口玲子の一首を読み、そのなかの「作中主体」の行動に感心し、歌集『トリサンナイタ』の背後にある「子どもを放射能から守るために放浪を決意する母親」という「私像」に共感する。さらに、その「私像」を「大口玲子」という生身の個人と同一視し、その行動に喝采を送る」と、「物語読み」について論じたのだが、こうした読みを私は否定する。
 そうじゃなく、『トリサンナイタ』であれば、そこから一首とりあげて、修辞がどうのとか、韻律がどうのとか、構成がどうのとか、とにかく、作品をテクストとして分析するべきなのだ。大口玲子がどんな境遇にある女性なのか、知る必要はない。もっといえば、女性という属性も必要ない。そもそも「テクスト」として分析するのだから、作者が誰なのかは、情報としていらないのである。
 そのような「形式主義的」批評のほうが、生産的な批評ができるであろうというのが私の主張だ。

 では、そうした私のいう「分析批評的批評」というのは、前回取り上げた、斉藤の「読者主義」や大辻の「刹那読み」とは違うか。と、いうと、これは違う。
 鶴田の結論部分を援用するなら、「歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよい」ということだ。
私の言葉で言うと、要は、テクストにある以外の情報で、テクストを分析するな、ということにつきよう。
 そうなると、鶴田と私は、同じ意見か、というと、そういうことでもない。これが、短歌の「読み」の議論の面倒なところである。
 なぜかというと、私が言っているのは、あくまでも一首評であれば、という前提でのことだ。例えば、歌会の場で提出された一首について、何か意見をいう場合がそうだ。
 しかしながら、現代の短歌の批評というのは、一首評ばかりではなく、連作での批評や、歌集評をいうのもある。なかでも一般的なのは、歌集の批評だろう。なので、一首評、連作の批評、歌集評、といったレベルの批評があるということを確認しておかないと、無用な混乱を引き起こすことにもなりかねない。
 今回、鶴田、斉藤、大辻の三人の主張を引用したが、斉藤斎藤は歌会の一首評について、「作者主義」「読者主義」「いいね主義」の3つの批評の立場あると主張した。これについて、私は、「読者主義」については否定的だ。あくまでもテクストに拠るべきだという立場だ。(残り2つについては、ちょっと分からない。留保したい)。
 大辻の「刹那読み」と「物語読み」は、一首評での議論であろう。であれば、この両方の「読み」についても、テクストに拠って批評しない以上、私は否定的である。
 他方、鶴田の議論は、歌集の批評会での議論であった。であれば、また、違う議論になろう。つまり、「読み」が違ってくる。「形式主義的」な批評で歌集を批評するのは、なかでも近代短歌の歌集の場合は、あまり生産的な議論にならない、というのが現時点での私の考えである。
 つまり、短歌の場合は、一首評、連作での批評、歌集評、それぞれ「読み」が違ってくる、というのが私の意見である。そして、それは、短歌特有の事情によるのだ。
 では、その短歌特有の事情とは何か。

 …そういうわけで、次回もまたもう少し「読み」について、考えていくことにしたい。