短歌の「読み」について①

 今回は、予定を変更して「読み」の話題について議論しよう。

 角川「短歌」4月号時評、鶴田伊津「ひとかけらの真実」(2020.4)に次のような「読み」の話題がある。

 

 その頃(二〇年以上前―引用者)の批評会は、もう少しテキスト寄りであった。助詞・助動詞の使い方の細かい指摘や表現上の粗さ、癖などを厳しく読み、やわらかい雰囲気というより、多少張りつめた空気の中で一冊が語られていたように思う。
 しかし、最近の批評会はもう少し読み手の自在な読みが展開されることが多いようだ。読み手が歌を自分の側に引き寄せて、その歌を喰らいつくすような。歌を読むというより、歌を通して読み手自身の短歌観を聞いているような。どう読むかにとどまらず、どこまで読めるか、を目指しているような。その分、引用される歌にも詠み手の個性が表れて、同じ歌集からの引用でも全く違う雰囲気の歌が並ぶこともあり、面白くもあるのだか、面白がっていいのかという懸念もある。
(中略)
 歌がそこに言葉として立つ以上、私達読み手はまず言葉に沿ってその歌を読もうとした方がよいのではないか。
(鶴田伊津「ひとかけらの真実」角川「短歌」2020年4月号)

 

 鶴田が言うには、20年くらい前の批評会での読みは、今と比べてもう少し「テキスト寄り」だったという。つまり、歌を「テキスト」ととらえ、一首を分析的に批評したということだろう。
 しかし、今は、「読み手の自在な読み」が展開されることが多くなったという。
この議論について、この先の議論の都合上、前者を「テキスト寄りの読み」、後者を「読み手の自在な読み」と名付けよう。

 さて、私は、この鶴田の文章を読んで、ああ、まだ短歌の「読み」の議論は深まってないんだな、と思った。
 というのも、この鶴田の話題と同じ話題を、数年前にツイッターで読んだ記憶があったからだ。それが、斉藤斎藤が2017年7月24日のツイートだ。

 斉藤斎藤は、自身のツイッターのツイートで「批評」を3つに分ける。
 すなわち、「作者主義」「読者主義」「いいね主義」の3つである。
 斉藤は言う。

 

作者主義における「批評」とは、①テキストから「作者がやりたかったであろうこと」を推測する。②「やりたかったであろうこと」とテキストを比較し、その実現度を判定する。③作者が初心者と思われる場合、「やりたかったであろうこと」をもっとうまくやる方法を例示する。みたいなことです。
読者主義における「批評」とは、①テキストから可能な読みを、最大限に引き出す。②批評は「作者がやりたかったであろうこと」と関係なくてもよい。③むしろ、「やりたかったであろうこと」とかけ離れた読みも可能にするテキストを、クリエイティブなテキストとして評価する。みたいなことです。
いいね主義における「批評」とは、①いいと感じた歌に「いいね」を押す。②一読してすぐ「いいね」を押せる歌がいい歌。「いいね」の数でいい歌が決まる。③「いいね」と感じない歌について語ることに、あまり意味はない。みたいなことです。
で、すこし前まで歌会には作者主義のひとしかいなかったんですが、ツイッターとかで参加のハードルが下がり、読者主義やいいね主義のひとも参加するようになった。すると「批評」のすれ違いが起こります。
たとえば、「一首のうちの一つの単語から連想をひろげ、(作者の意図をはずれた)自由な読みを披露する」ことは、読者主義においては真っ当な「批評」であり、作品へのなによりのご褒美だったりもするわけですが、作者主義の歌会では「脱線ですよ」とたしなめられてしまいます。たしなめられた人は「権威主義(怒)」となってしまったりもするんですが、それは個々の作者を尊重しようとする作者主義のあらわれであって、特定のひとがえらぶる権威主義とは違うんですよね。
斉藤斎藤の2017年7月24日のツイート)

 
 斉藤によると、歌会には「作者主義」しかいなかったという。それが、「読者主義」と「いいね主義」が出てきた。ただし、「いいね主義」については、これ以上の言及はないので、いまひとつ、私はピンとこない。
 それはともかく、この斉藤のツイートは、鶴田の議論と重なるところが多いだろう。特に、鶴田「読み手の自在な読み」と斉藤「読者主義」は、同じ事象のことを言っているのではないかと私には思われる。

 なお、この3つの「読み」について、斉藤は、どれも否定的に述べていいるわけではない。
 せっかくだから、ツイートの続きをあげておこう。

 

で、三つの「批評」はなかなか相容れにくいところはあるんですよね。それぞれ交流を持ちながらも、ゆるくすみ分けるのがいいのかな、という気はしますかね。そんなかんじです。で、わたし個人はハードな作者主義というか、「作者のやりたいこと」をやりきってる歌=いい歌、という立場。なので歌会は、最初のうちはいろいろ行くといいけど、行き過ぎるのもよくないのかなと。歌会に出過ぎると、目の前の読者にとらわれ過ぎて、「やりたいこと」の牙を抜かれる場合があるので。ついでに言うと、わたしは作者主義者である以上、読者主義者やいいね主義者を作者主義者にしようとしません。読者主義の実作者の「やりたいこと」が、「読者の自由な読みをできるだけ引き出す歌をつくる」ことなら、徹底的にやればいいと思います。本人のやりたいようになるのが、いちばんです。
(2017/7/24)

 

 さて、斉藤や鶴田の提供している「読み」の問題。これ、最初に論考で世に説いたのは、大辻隆弘じゃないかと思う。(大辻「三つの『私』」(短歌研究、2014年11月号)『現代短歌の範型』(六花書林、2015年所収)。
 大辻は、この論考のなかで、21世紀の短歌の「読み」について次の論点を提出したのだが、それを引用する前に、まず、私なりにまとめた、それまでの「読み」を確認しよう。
 まず、これまでの近代短歌の「読み」というのは、一首の中の「私」というのは、とりもなおさず、作者そのものであった。つまり、斎藤茂吉の歌に出てくる「私」の感慨は、斎藤茂吉そのものの感慨として、読者は「読む」。『みだれ髪』の「私」は、与謝野晶子だし、『サラダ記念日』の「私」は俵万智だ。少し乱暴に言うと、近代短歌は「私小説」を読むように鑑賞すればよいのである。
 しかし、前衛短歌運動は、この近代短歌の「読み」を否定しようとした運動だ。
 塚本邦雄の作品の「私」は、塚本自身ではない。つまり、作者と作品の「私」を切り離す試みだったのだった。ものすごく乱暴に言うと、前衛短歌は「一人称の小説」を読むように鑑賞すればいいのである。
 ここまでが、私なりにまとめる、大まかな従来の「読み」だ。
 これを踏まえて、大辻の「読み」をみてみよう。大辻によれば、21世紀に入って、短歌の「読み」には、2つの変化が起こっているという。すなわち、「刹那読み」と「物語読み」の2つだ。

 大辻は言う。

 

 「刹那読み」とは「私①」(一首の背後に感じられる「私」のこと―引用者)だけに注目する読み方のことである。現代の短歌の読者たちは、ともすれば一首の歌のなかの「作中人物」が、どれだけ衝撃的な発言をし、どれだけ意外性のある行動をするかということに多大な関心を寄せる。(中略)彼らにとっては、一首の歌を読んだ刹那に感じる衝撃力だけが重要であり、「私像」や「作者」には興味を持たない。(中略)今世紀に入って若い読者の間で顕著となってきたこのような歌の読み方を、私は「刹那読み」と呼びたいと思う。
(大辻『現代短歌の範型』六花書林、2015年)。

 

 一方、これとは対照的に、近代短歌の「読み」以上に、作者や連作や一首の「私」を強固に結びつけ、がちがちに固まった定式のもとで作品を読もうとする「読み」を「物語読み」と名付ける。
 ここで、大辻は大口玲子の一首、ならびに歌集、ならびに大口本人を例にあげて、次ように言う。

 

 たとえば、大口玲子の一首を読み、そのなかの「作中主体」の行動に感心し、歌集『トリサンナイタ』の背後にある「子どもを放射能から守るために放浪を決意する母親」という「私像」に共感する。さらに、その「私像」を「大口玲子」という生身の個人と同一視し、その行動に喝采を送る。(中略)そんな「物語読み」も、現在、勢力を増してきているように思う。
(大辻、前掲書)

 

 以上、大辻は「刹那読み」「物語読み」という2つの「読み」を提出した。
 どうだろう。大辻の言う「刹那読み」というのは、鶴田の「読み手の自在な読み」や斉藤の「読者主義」と重ならないだろうか。私には、この3者は、同じ事象についてそれぞれが言っているように読めるのだ。

 ところで、この大辻の論考で、「刹那読み」「物語読み」についての大辻の論評はない。すなわち、この2つの「読み」に、氏は、いいも悪いも言っていない。
 ただし、文章からは、どちらも否定的な雰囲気は感じる。どうも、はっきりとは言っていないが、どっちの「読み」についても否定的なようだ。
 大辻は、「刹那読み」のように「私像」や「作者」に興味を持たないのも、近代以降脈々と続いていた近代短歌の「読み」の伝統からして、どうかと思うし、一方で、「物語読み」も、せっかく前衛短歌で作者と作中主体を切り離して短歌の「私性」について深まってきているのに、先祖返りもはなはだしい、といった感じで、どっちも否定しているように感じる。

 …と、話は佳境に入ったところであるが、けっこう紙幅を費やしたので、今回は、ここまでにします。