<調べ>についてのまとめ②

 <調べ>についての議論で、筆者は、次の説を提出した。すなわち、

・短歌の<調べ>は、「強弱2拍子」で読み下せるものが良い

 という説だ。
 しかし、この説が正しいとするなら、必然的に、次のような仮説が成り立つ。
 すなわち、

・3句以外は、8音までは許容できるのではないか
・3句は6音のトマトトマト型なら許容できるのではないか

 という仮説だ。
 1つ目にあげた説でいうと、短歌は、何も57577の定型である必要性がなくなる。なぜなら、3句以外8音までなら<調べ>が崩れないのだから、77588だろうが、68578だろうが、何でもよいということになる。
 で、実のところ、恐らく現代の口語短歌は、そのようになっていくのではないか、と思っている。
 文語脈なら、57577のかっちりとした<律>の方が<調べ>はいいに決まっているのだが、完全口語は、どうもこの57577のかっちり、とは、相性が悪いのではないか。そのため、短歌の音節は増加傾向にある、というのが私の意見である。
 つまり、短歌を作る作業で、完全口語は、定型におさめるとしっくりこないんじゃないか。で、その「しっくり」がうまく説明できないまま、なんとなく、音節が伸びているのが現代口語短歌ではないか、と思うのである。これをとりあえず、音節「なしくずし」説、と名付けたい。口語短歌の「増音傾向」とか「字余り傾向」というのは、何か戦略的な意図とか、新たな「調べ」の創造とか、そういう主体的な方策によるのではなく、単に、定型におさめるとしっくりこないから、だんだんと「なしくずし」的に音節が伸びている、というわけだ。
 では、実際に作品を提出しながら、増音でもきちんと<調べ>にのっているかどうか、仮説の検証してみよう。

 まずは、初句の増音から。

 優先順位がたがひに二番であるやうな間柄にて梅を見にゆく
                      荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』
 ここはしづかな夏の外側てのひらに小鳥をのせるやうな頬杖
 
 荻原のこの最新歌集は、初句増音がとても多い。これは、なしくずし的に伸びている、というわけはないだろう。そうではなく、初句増音でも<調べ>はのせることができるという確信のもと、新たな<調べ>を試行している、ととらえたらいいと思う。
 1首目、初句4音3音の増音。2首目は、初句3音4音の増音。
 どちらも、強弱2拍子にのせることができる。
 1首目であれば、「ゆうせんじゅんいが・」で、「ゆ」が強拍、「じゅ」が弱拍の2拍子で打てる。
 2首目は、アタマを休符でとると面白い調べになる。すなわち、「・ここはしづかな」で、「こ」をウラに入れる。ウラに入れると必然的に強くなるからここは強拍。そして二拍目の「し」が弱拍。もちろん普通に、「ここは・しづかな」という取り方でも二拍子でとれる。
 1首目2首目とも、初句7音は、定型の5音に比べて、増音した分、<調べ>はせわしなくなっているのが分かると思う。初句2句とせかせかと流れて、3句目の5音で、やっと休止らしい休止になって息をつく、といった感じだ。
もう少し例歌を提出しよう。

 元日すでに薄埃あるテーブルのひかりしづかにこれからを問ふ
 夏のひかりのはかなさ綴るてがみにて涼とひともじ封緘をする

 1首目が4音3音の初句7音。2首目は3音4音の初句7音。初句のリズムが微妙に違っているのが分かると思う。
 他の歌集からも提出しよう。
 次の2首は、初句が4音3音になっている作品。

 大きな猫をどかすみたいに持ち上げて書籍の山を椅子からどかす
                   永井祐『広い世界と2や8や7』
 シロツメクサの花輪を解いた指先でいつかあなたの瞼を閉ざす
                   堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 続いて、初句が3音4音になっている作品。

 スカイツリーと東京タワーをいっぺんに視界におさめて脳をなだめる
                   永井祐『同』
 これが最後と思わないまま来るだろう最後は 濡れてゆく石灯籠
                   大森静佳『てのひらを燃やす』
 左手首に包帯巻きつつ思い出すここから生まれた折り鶴の数
                   野口あや子『くびすじの欠片』
 
 先の2首と、これら3首のリズムの微妙な違いを感じてほしい。
 この違いがじゅうぶんに分かったところで、次の3音4音の作品の初句をみてみよう。この初句7音の<調べ>はどう感じるだろうか。

 一人カラオケ わたしはなぜかしたくなく君はときどきやっていること
                   永井祐『同』
 走れトロイカ おまえの残す静寂に開く幾千もの門がある
                   服部真里子『行け広野へと』

 筆者は、この2つの作品は<調べ>をあえて切っている作品と読む、
 音節を示すとこんな感じだろう。
<ひとり・からおけ/わたしはなぜか・/したくなく・・・/~>
<はしれ・とろいか/おまえののこす・/せいじゃくに・・・/~>
 つまり、強弱二拍子説で、拍節をとるなら、初句と二句の間には、休拍はない。
 しかし、表記では、初句二句の間は、一字アケとなっている。
 これは、休拍をとれ、という作者の指示にほかならない。初句を2拍子で読み下したら、空白の部分はG.P.(ゲネラルパウゼ)として、たっぷり間をとってから二句へと読み進めよ、というわけだ。
 等時拍強弱2拍子説で、もし、初句が五音なら、二句目に入るまでには1拍半の休止が入るのだけど、これら作品は初句7音でしかも3音4音で読み下す音節なものだから、初句二句の間には休止がなくなる。しかし、そうなると、あまりにせわしなくなって<調べ>が悪い。だったら、いっそのこと初句で<調べ>をいったん切ってから、2句に進んだほうが<調べ>はいいのではないか、と、算段して、1字アケを採用したのだろうと思う。
 もし、これら作品が、初句5音だったり、初句7音でも4音3音型だったりしたら、1字アケを作者が採用したかどうかは、分からない。初句3音4音型であるがゆえの表記ということがいえるのではないか。

 今回はここまで。
 次回は、初句6音を検討したい。
 <調べ>のまとめをするつもりが、結構、本格的な検討になってきてしまった。
 初句の検討がおわっても、まだ2句以降の検討が待っている。そうしてやっと、まとめとなる感じだ。

<調べ>についてのまとめ①

 このBlogでは、短歌についてのあれこれについてのお喋りを1年以上ダラダラと続けている。

 思いついたテーマを思いついたままに述べてきたので、だんだんと収拾がつかなくなってきた。なので、ここで一旦、まとめに入りたいと思う。

 そもそものはじまりは、秀歌とよばれる作品の、その秀歌たる理由を知りたい、ということからはじめたものだった。違う言い方をすれば、「秀歌のメカニズム」を探ろう、といったところだ。

 どういう理由で「秀歌」と呼ばれるのか、その客観的な理由を知りたい、といった、わりと素朴な疑問を解きたいと思って、ダラダラやってきた。

 で、一応、その答えのようなものが、散見されはじめたので、まとめていくことにしよう。

 

 数多ある短歌作品のなかで、ある短歌作品は良い作品といわれ、べつの作品は悪い作品といわれる。

 けれど、そんな良し悪しをつける、何か基準みたいなものが短歌の世界にあるのか。

 と、いうと、極論をいえば、そんな基準みたいなものはない。

 誰もが好き勝手に、この作品はいいとか、悪いとか言っている、と言えなくもない。

 ただ、一応、作品の良し悪しをジャッジする以上、何らかの指標がなくちゃあ、ジャッジのしようがないのは確かだ。筆者にしても、筆者なりの指標で、他人の作品を批評していよう。

 けれどその指標といっても、どこかに客観的な指標が転がっているわけでなく、結局は、評者によってまちまちだから、納得できるものもあれば、まったく納得できないものもある。つまり、何でこの作品が良いのか、あるいは何でこの作品がダメなのか、読者としては、どうにも分からない、ということだ。

 けど、評者によってまちまちなのは確かだけど、何らかの指標があるらしいのは間違いない。その、何らかの指標をできるだけ客観的に抽出することができれば、「秀歌」と呼ばれる、その客観的な理由もおのずと抽出できるだろう。そして、その理由が分かれば、「秀歌」のメカニズムもまた解析できるのではないか。

 なので、短歌作品をできるだけ細分化して、これが秀歌の原因というか、素(もと)、といえるようなものを取り出してみよう。そして、そんな「秀歌の素」が集まって、構成されることで、秀歌が出来上がる、といったイメージで短歌作品をとらえてみよう。

 と、いうのが、これまでお喋りの動機だ。

 

 では、実際に「秀歌」のメカニズムを解析するために、まずは、短歌作品の構成部位を3つに分けるところからはじめよう。

 すなわち、短歌の<調べ>と<文体>と<内容>の3つだ。

 短歌は、この3つが組み合わされて、「秀歌」となる。人間が脳みそやら内臓やら骨格から全部合わさって一個のかけがえのない人間となるのと同じことだ。そして、それぞれの部位は、どの人間も違っているから、人間には人格がみんな違うわけだ。けど、脳みそは、いい脳みそもあれはいまひとつの脳みそもある。その違いを研究するために、脳科学なんてのが発達してきたわけだ。けど、脳みそだけが、その人間のすべてではない。脳みそもあれば、内臓もある、骨格もある。いろいろ分類して、いろいろ研究して、人間とはどんなメカニズムになっているのか、研究しているわけだ。そこでは、分かったことと、まだ、分からないことがあるだろう。

 これから、短歌作品でやろうとしていることもおんなじことで、一つの作品を3つの部位に分けて、それぞれの良さのメカニズムを発見していく。そうして、それらが全部合わさって、「この作品は良い」だの「良くない」だののジャッジができよう、ということなのだ。

 

 そういうわけで、「短歌」の部位を順番に見ていこう。

 今回は<調べ>だ。

 

 <調べ>については、何と15回にわたって本Blogでお喋りをしている。

 この15回で議論されたことを、以下にまとめたい。

 

 短歌は韻詩である以上、<調べ>の良さが作品の良し悪しを測る指標となるのは当然である。

 じゃあ、<調べ>とは何か。

 というと、普通、短歌は<韻律>で<調べ>の良さを評価してきた。

 つまり、<韻律>が良ければ、それは<調べ>の良い歌である。とされてきたのだ。

 じゃあ、<韻律>とは何か。

 というと、これは<韻>と<律>に分けることができる。

 そのうち<韻>については、短歌では、漢詩のように、あるいは西洋詩のように頭韻とか脚韻とかが、はっきり定義づけられているわけではないし、厳密な解釈が施されているわけではない。逆に、短歌で漢詩や西洋詩でいうところの頭韻や脚韻がそろいすぎると、幼稚くさくなる。これは、定型で十分調べが良くなっているところに、韻をそろえると、ヤリスギになってしまう。だから、短歌で<韻>を感じながらも「調べがいい」なんていうのは、かなり曖昧な解釈がなされているのが現状だ。漢詩や西洋詩の概念である<韻>とは別物であるが、<韻>のような母音や子音の並びに注目して「調べがいい」理由として短歌の世界では議論されている。

 だから、<韻>については、頭韻がそろっているとか、A音の優位性とか、破裂音が共鳴しているとか、そんなレベルでしか議論ができない。メカニズムを抽出するほどの条件が短歌には存在していないのである。なので、ここは議論を深めようがない。短歌作品それぞれがそれぞれの<韻>で語るしかないので、客観的な指標を抽出することは不可能だ。なので、<韻>については、ここで、議論が終わる。

 では、<律>はどうか。

 というと、こちらは、大前提として57577という定型のリズムが備わっている。その前提で、<調べ>がいいだの悪いだの議論しているのであるから、何か、メカニズムが抽出できるのではないか、という憶測のもと、議論を深めてきた。

 Blogでは<音歩>なる概念まで提出しながら、あれこれ議論したのであるが、そのなかで、ひとつの結論として、

 

・短歌の<調べ>は、「強弱2拍子」で読み下せるものが良い

 

 というのを提出した。

 「強弱2拍子」説とでも呼べる説だ。

 

 Blogでは、斎藤茂吉『白き山』の

 

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

 

 をテクストとして、「強弱2拍子」説を展開した。

 その骨子は、

 

もがみがわ/さかしらなみの/たつまでに/ふぶくゆふべと/なりにけるかも/

 といったもので、初句「モガミガワ」は、「モ」が強拍で「ワ」が弱拍。二句「サカシラナミノ」は「サ」が強拍で「ナ」が弱拍。あとも同じく、「タツマデニ」の「タ」が強、「ニ」が弱。「フブクユーベト」の「フ」が強、「ユ」が弱。「ナリニケルカモ」の「ナ」が強、「ケ」が弱。そうやって強弱をつけて、2拍子で読む。等時拍だから、例えば5音句の「モガミガワ」のワのあとは休拍がある。

 つまり、こんな感じ。

 

もがみがわ・・・/さかしらなみの・/たつまでに・・・/ふぶくゆふべと・/なりにけるかも・/

 

 と、いうように読めるのであれば<調べ>が良い、というわけだ。

 これが「強弱2拍子」説の骨子である。

 ただし、この結論に至るまでに、<等時拍>説と<緩急>説についての議論が必要なんだけど、それは、ここでは省略。一応、過去の<調べ>についての稿で、現代人は<等時拍>で読んでいる、という理由を説明してある。

 

 さて、この「強弱2拍子」説であるが、この説でいくと、必然的に次のような仮説が成り立つ。

 

・57577にこだわらなくても、各句8音までなら、許容できるのではないか

 

 つまり、8音を4音4音といった2拍子に分解できるのなら、各句8音でも<調べ>は崩れない、ということだ。

 ただし、これ3句は例外。3句だけは、5音もしくは6音でないと<律>はつくれない。この点についても、過去の稿で理由は述べた。

 なので、仮説としては、次の2つを提出しよう。

 

・3句以外は、8音までは許容できるのではないか

・3句は6音のトマトトマト型なら許容できるのではないか

 

 次回、この仮説の検証をしたいと思う。

 

 

短歌の<比喩>③

 <比喩>の話に戻る。

 

 短歌の世界の<比喩>表現として、「短歌的喩」と呼ばれるものがある。

 これが、なかなか面白い。

 この「短歌的喩」は、吉本隆明が提唱した概念で、短歌のみにあらわれる独特の比喩の働きをいう。概略をかいつまんでいえば、短歌を上句と下句にわけて、それぞれが喩として円環的、相互的には働いている、とする(『現代短歌大事典』三省堂)。

 

 灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ

                       岡井隆『斉唱』

 

 吉本は、この岡井の作品で、上句は下句の「像的な喩」、下句は上句の「意味的な喩」とした。(前掲書)

 「像的な喩」「意味的な喩」というのは、少し難しいけど、要は、上句は下句の喩であり、下句は上句の喩だ、お互い喩え合っているのだ、と簡単にとらえるとスンナリわかるかと思う。

 岡井の作品でいうと、<灰黄の枝をひろぐる林>というのは、まるで<亡びんとする愛恋ひとつ>のようなものだとして、心象を実景の意味として喩えているといえるし、一方で、<亡びんとする愛恋ひとつ>というのは、まるで<灰黄の枝をひろぐる林>のようだと、実景を心象の像として喩えている、ということがいえよう。

 本当は、もう少し難しい概念なのだけど、ごく乱暴にいうとそういうことである。

 以前、取り上げた角川「短歌」2020年12月号の特集「比喩の魔力」でも、「短歌的喩」の作品として、田村元が次の作品を取り上げている。

 

 群青の胸をひらいて空はあるかけがえないよさみしいことも

          北山あさひ「かばん」2016年5月号

 ゆうぐれの前方後円墳に風 あのひとはなぜ泣いたのでしょう

                  田口綾子『かざぐるま』

 

 北山の作品ついて、田村は次のように解説する。

 

 (前略)「群青の胸をひらいて」が青空の隠喩になっている。また、この歌は、上の句の青空(風景)と、下の句のかけがえのなさ(思い)とが、互いに比喩の関係にある。吉本隆明が「短歌的喩」と呼んだ、短歌ならではの比喩が用いられた歌だ。

(角川「短歌」2020年12月号)

 

 田村の解説を補うならば、群青の「空」は、まるで「かけがえのない」さみしさのようだ、ともいえるし、今わたしが抱えている「かえがえのない」さみしさというのは、まるで、今見上げている「空」のようだ、ともいえる、というわけである。

 空の風景が「像」で、今の心情が「意味」ということだ。今の心情を空という「像」で喩え、空の風景を心情という「意味」で喩えている、ということである。

 2首目の田口の作品も同様だ。

<ゆうぐれの前方後円墳に風>は、悲しみの「像的な喩」といえる。つまり、悲しみとは、まるで、ゆうぐれの前方後円墳に吹いている風のようなものだ、といっている。一方で、あのひとの悲しさは、ゆうぐれの前方後円墳に吹く風の「意味的な喩」といえる。つまり、ゆうぐれの前方後円墳に吹いている風というのは、まるで、あの人の悲しさのようなものだ、といっているのである。

 

 もう少し、掲出してみよう。

 筆者が最近読んだ歌集、永井祐『広い世界と2や8や7』(左右社)から。

 

 君は君の僕には僕の考えのようなもの チェックの服で寝る

 宇宙でもこわれないもの 枕もとにグレープジュースを置いて昼寝を

 春のなかで君が泣いてる 階段はとてもみじかくすぐに終わった

 七月の夜は暑くてほっとする むかしの携帯を抱いて寝る

 セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい

 

 1首目から4首目までは、上のかたまりが「意味的な喩」で、下のかたまりが「像的な喩」であり、5首目だけは、上句が「像的な喩」で下句が「意味的な喩」といえるだろう。そして、どの作品も、上のかたまりと下のかたまりが互いに比喩の関係にある、ということがいえるだろう。

 

 以上が「短歌的喩」なのだが、さて、どうであろうか。

 スンナリで納得できるであろうか。

 もう一度初めに戻って、岡井隆の歌を、再び掲出しよう。

 

  灰黄の枝をひろぐる林みゆ 亡びんとする愛恋ひとつ

 

 この作品、上句と下句は互いに比喩の関係にあるんですよ、と言われると、ああ、そうか、と思うが、もし、そんな解説がなかったら、果たして、そんなことに気が付くだろうか。

 筆者は、もしこの「短歌的喩」という概念の解説がなかったら、到底、分かりようもなかったろう。林を見ている主体がいて、それを見ながら、愛恋がいま終わろうとしているなあ、と感嘆しているんだなあ、としか解釈ができなかったと思う。

 せいぜい、主体の林を見ている状況と、愛恋の終わりを重ねて、一首を重層的に構成している、という理解までであろう。比喩の関係にあるというところにまでたどり着けるかどうかは、はなはだ心許ないし、もし、運よく比喩関係にあった、と読み取ることができても、お互いが比喩関係にあるとまでは、分かりっこなかったろう。頑張ってみて、灰黄の枝が広がっているイメージは、愛恋の終わりと重ねることができる、なんてところまでで、愛恋の終わりは、灰黄の枝が広がっている林のようだ、という解釈は導き出せようもなかったろう。

 そのように考えると、この「短歌的喩」というのは、<読み>の解釈のひとつと捉えることもできる。なので、この概念を使うことで、より深い<読み>ができる、ということはいえるだろう。ただし、「それは深読みですよ」という批判もまた成り立つとは思う。

 なので、この岡井の作品にしても、今後、新たな視点を見つけ出すことで、「短歌的喩」を批判的にとらえる論点は提出できると思う。まして、筆者のあげた永井祐の作品は、果たして「短歌的喩」として、相互的な比喩関係にあると主張できるかどうかは、はなから議論の余地がありそうである。

 筆者としては、この「短歌的喩」が、短歌の<読み>というのをカルト的というか、短歌愛好者だけにしか分からない閉鎖的な<読み>に陥ってしまうきらいはあるものの、短歌独特の<比喩>表現であるという点については首肯する。すなわち、上句と下句が隠喩関係にある表現である、ということは成り立つと思う。そして、そうした、互いに比喩的な関係にあるというのは、短歌形式以外にはありえない修辞技法ともいえよう。

 であるから、「短歌的喩」というのは、短歌形式のなかで独自に進化した<比喩>表現である、と主張するのはそんなに無理な主張とは思わない。ただ、「短歌的喩」という呼称はどうなんだろう。短歌形式で、喩法が独自の進化を遂げたということで、ガラパゴス的比喩表現ととらえてみてはいいのではないか。で、呼称も「ガラケー」ならぬ「ガラユー」なんて感じのキャッチーなネーミングにすれば、わりと受け入れられやすいかもしれない、なんて思ったりもする。

 

 

再び短歌の「読み」について

 短歌の<読み>についての議論で、典型的な事例があったので、今回はそれを取り上げてお喋りをしたい。

 

 角川「短歌」2021年1月号に、新春特別座談会「見つめ直す自己愛」が掲載されている。この座談会では、馬場あき子、伊藤一彦、藤原龍一郎小島ゆかりの各氏が、「自己愛を感じる歌」を持ち寄って議論しているのであるが、そこで、馬場あき子が、富小路禎子の<処女にて身に深く持つ浄き卵(らん)秋の日吾の心熱くす>の作品について、次の発言をしている。

 馬場は言う。

 

馬場:富小路の歌ね、私はどうしてもこれを挙げたかった。衝撃的だったんですよ、我々にとって。女の人がこういう歌を歌うのかと。(中略)「処女にて身に深く持つ浄き卵」、ここで度肝抜かれましたね。浄き卵を女は持ってるんだ、びっくりしたけれど、この人斜陽の貴族で富小路家の最後の人ですけれど、貴族の間ではこういう性的なものが割とオープンに語られていたんです。私は友達に一人貴族がいましてね、そこへ行くと平気でそういうことを言うんです。(中略)富小路さんも貴族だったので、平気で口にできたんじゃないかな。性に関しては貴族階級はちょっと違った感覚を持っていたんでしょうね、しかも、この浄き卵が滅びるか生きるかによって、富小路の家が存続するかしないかに繋がっていた。自分の血の絆が家を存続する絆と重なってるわけでしょ。責任感があるんですよ、この浄き卵をどう保つかっていうことに。これを歌にしたって画期的なこと、凄いなと思った。自分が家を繋ぐ卵を持っているんだという自己愛はね、あの時代の姫君は皆持っていたのかもしれないなと思って、瞠目した歌の一つです。

(角川「短歌」2021年1月号)

 

 馬場に、このように語られると、富小路の作品がいかに凄くて画期的であったかがわかり、作品の理解も深まることだろう。

 さて、このような馬場の短歌の<読み>は、短歌の世界では典型的な<読み>といえよう。こうした短歌の世界の典型的な<読み>というのは、作者と作品をセットとして読む、いわば<セット読み>とでも名付けられそうな<読み>だ。すなわち、作品に登場する主体は、作者とイコールであり、作者について理解が深まれば作品の理解も深まるということになる。逆にいえば、作者の属性が分からなければ、作品の理解ができない、という<読み>である。

 今回の富小路の作品であれば、富小路禎子が「富小路家の最後の人」で斜陽貴族であった、という作者の属性を知らなければ、到底、馬場のような<読み>はできない、ということになる。こうした作者の属性を理解することで、<処女にて身に深く持つ浄き卵>の凄さが深く理解できるということだ。逆にいえば、作者が斜陽貴族であるという属性が分からなければ、<処女にて身に深く持つ浄き卵>の凄さは理解できない、ということになろう。

 現に、このあと、いつくかの発言の後に、小島ゆかりが次のように発言をしている。

 

小島:でも、時代感覚がまるで違う今後の世代には、この歌はどういうふうに理解されていくのかなと。とんでもない理解が出てくるんじゃないかなって怖れもします(笑)。

(前掲書)

 

 小島は<時代感覚>と発言しているが、これは、富小路が斜陽貴族であるという属性とともに、そうした斜陽貴族が持っていたであろう当時の時代の感覚、ということをいっていよう。そんな当時の感覚とは大きく違っていくであろう今後の世代は、馬場や小島の世代のような理解とは違う理解をされてしまいそうで怖ろしい、といいたいのであろう。

 小島の<とんでもない理解>という発言は、馬場の発言のような、富小路作品の本来的な理解から大きくはずれた誤った<読み>による理解、ということなんだろう。

 さて、この小島の発言について、どのようにとらえたらいいだろうか。

 筆者としては、この小島の言っていることは、その通りだろうと思う。

 つまり、世代が違っていけば、小島の怖れるような<とんでもない理解>になってしまう危惧は生じるだろう。そして、<とんでもない理解>よりは、馬場のような本来的な理解の方が、短歌の<読み>としては良いに決まってはいよう。

 では、どんでもない理解に陥らないためにはどうしたらいいか。

 と、いうと、富小路禎子という作者の属性の理解をすることが肝要、ということになる。つまり、馬場が発言しているような富小路についての属性を理解していないと、到底、馬場のような理解はできない、ということになるわけだ。

 ここに<セット読み>の限界を筆者はみる。

 それは、馬場や小島の世代で理解していたことを、後の世代もまた理解しない限り、馬場や小島の世代と同じ理解はできない、という点にである。そのうえ、たとえ後の世代が、馬場や小島の世代の<読み>を理解したとしても、<読み>についてはそこまでで、決して馬場や小島の世代以上の<読み>にはならない、という点でも、この<セット読み>には限界がある。

 もっと言うと、こうした<セット読み>には権威主義的な臭いも感じる。

 なぜなら、富小路のことを知らなくては到底、作品の理解ができないとなると、同時代に生きた人間の方が深く理解できるのは当然、ということになるからだ。後発の世代が先発の世代の<読み>を更新することができないのであれば、それは議論にならず、先発世代の理解を後発世代がありがたく拝受するだけということになる。後発世代は、先発世代の<読み>を越えることはないのである。こうした立場を筆者は権威主義と呼ぶ。

 そういうわけで、<セット読み>では、富小路のこの作品についての議論は、これ以上は深化しようがない、ということになる。

 もちろん、短歌史のなかにこの作品を位置づけて批評することはできようが、それは、作品評というよりは、短歌史論とか歌人論といった議論になるだろう。

 では、作品評はこれで完結しているのだから、もう終わったのかというと、そんなことはない。要は、短歌の世界に典型的な<セット読み>とは違う<読み>をすればいいのだ。

 では、その違う<読み>にはどのようなものがあるか。

 そのひとつとして、筆者は<テクスト分析>の手法を用いた作品分析を提案している。<テクスト分析>の手法を用いて短歌作品を読めば、世代の違いなく議論ができるのではないか、というのが筆者の意見だ。

 実は、この富小路の作品について、馬場の発言の直前に、伊藤一彦が次のように発言している。

 伊藤は言う。

 

伊藤:…馬場さんが引かれた富小路禎子さんの<処女にて身に深く持つ浄き卵(らん)秋の日吾の心熱くす>も、心が熱いんじゃなくて「熱くする」という、凄く何か意志的なものがありますよね。

(前掲書)

 伊藤は、富小路の作品の結句、「心熱くす」に注目する。

 普通であれば、心というものは、受動的に「熱くなっていく」ものだろう。感情というのは、本人の意思とは別なところで揺れ動いたりする、というのが自然であろう。あるいは、気が付いたらそうなっていた、というものだろう。例えば、映画や風景をみて「感動する」なんていう経験は、「感動しよう」という意志のもとそうするのではなく、見たことによって心が動かされることで、「感動する」という状態になる。

 しかし、この作品の結句は、そうした自然な心の動きではなく、主体自らが、自らの意志をもって、心を熱くさせている。ここに、伊藤は注目し、この作品の「凄さ」を批評しているのだ。

 こうした伊藤の<読み>は<テクスト分析>の手法に非常に近いといえる。

 この<読み>には、富小路禎子という作者の属性は必要ない。

 「熱くなる」ではなく、「熱くする」という主体の意志は感じるが、それはあくまで、主体の意志であり、作者のそれではない。そうした意志を作者の属性(例えば、斜陽貴族の最後の姫君といった属性)に向けることをしていない。ここに、作品をテクストとして批評する道が開かれている。

 こうした議論であれば、「熱くなる」と「熱くする」のテクスト上の違いについて、富小路のことを知らなくとも、誰でもどんな世代の人間でも対等に議論に参加できる。筆者は、こうした議論のほうが、ずっと風通しがいいと思うし、そのような議論をすることで新たな<読み>が期待できるし、結果、作品の理解も深まるだろうと思うのだ。

 

 短歌の世界で<セット読み>が主流なのは、もちろん理由がある。

 乱暴に言えば、<主体=作者>という、「近代短歌」の<私性>の約束に拠っているためであり、それは「近代短歌」が自然主義的文学を志向したことによる、ということは、本Blogでも何度か主張してきている通りである。

 だから、短歌の世界で<セット読み>が主流であることは、仕方がないこととは思う。

 しかし、そうした短歌の世界の主流な<読み>には限界があることと、権威主義的になる傾向もある、という点は押さえたうえで、<セット読み>をした方がいいだろうと、筆者としては思うのである。

 

短歌で虚構をやる理由②

 あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いいたします。

 

 少し前に、去年の角川短歌賞受賞作品の田中翠香「光射す海」の虚構性について議論した。

 この作品は、シリア内戦に赴いた戦場カメラマンを主人公とした50首連作なのだが、作者は、戦場カメラマンでも何でもなく、虚構として50首連作を構成していたのであった。

 この50首連作について、筆者が出した論点は、大きく2つだった。

 まず、前提として、

・一首をテクスト分析するであれば、虚構であることは問題にはならない。

 ということを確認したうえで、次の2点を提出した。

 すなわち、

・ただし、今回は50首連作での評価であるので、テクスト分析とはまた違った指標での評価となる。そのうえ、今回は、作者の匿名性を利用した所業であり、作者の属性が明らかになっていれば到底評価されない連作である

・また、こうしたルポルタージュ性の強い内容を短歌でやるのは無理があったのではないか。ルポルタージュや小説世界といった散文形態の方が、短歌のような韻文よりもずっと作者のいいたいことを伝えられるだろうと筆者は考えるから、こうした作品を作ろうとした作者の動機を筆者は理解できないし、もっというと倫理的な問題もある

 

というようなことを論点とした。

 

 さて、この50首連作について、江戸雪と内山晶太の両者が角川「短歌」1月号の「時評」で取り上げた。

 

 江戸雪は時評「誰にも邪魔されない世界」で、次のように言う。

 

 長く内戦状態にあるシリアにカメラマンとして赴く人間が詠われている。厳密と言っていいほどの場面設定のせいか映画を見ているような感覚を持って読んだ。読みが分かれるような難しい歌はない。(中略)

 …これは小説ではない。つまり、短歌を読むときの、歌を読み解いて何かを探り当てる楽しさは得られない。(中略)

 さらに、受賞のことばの冒頭でこの連作が「想像と虚構を中心としつつ」作られたことが表明されている。そこに少し違和感を感じてしまった。もちろん、目の前の作品が虚構かそうでないかは大きな問題ではない。読者として言葉を手がかりに想像をふくらませて読み、感じ、ときに感動するだけだ。ただ、それを可能にするには作者と読者の間の暗黙の契約がある。「本当にあったことかもしれない」という曖昧さの契約だ。(中略)

 …短歌は言葉の、言葉だけの世界だ。そこに「虚構」という情報が入ってしまうと、言葉が作り上げた世界が褪せてしまう。(中略)

 本当にあったことと虚構との間にあるものこそが文学の面白さ、魅力だとおもうのである。

(角川「短歌」2021年1月号)

 

 端折りすぎて、よく分からなくなった感じもするけれど、とりあえず、要旨をまとめよう。

 

・この作品からは、「短歌を読むときの、歌を読み解いて何かを探り当てる楽しさは得られない」

・作品が「虚構かそうでないかは大きな問題ではな」い

・読者と作者の間にある「本当にあったことかもしれない」という曖昧さの契約が重要だ。なぜなら、短歌は、言葉だけの世界なので、「そこに『虚構』という情報が入ってしまうと、言葉が作り上げた世界が褪せてしまう」からだ

・「本当にあったことと虚構との間にあるものこそが文学の面白さ、魅力だ」

 

 と、いったところが、今回の江戸の評論の論点といえるだろう。

 とりあえず、順番に見ていこう。

 

 まず、1点目の「短歌を読むときの、歌を読み解いて何かを探り当てる楽しさは得られない」については、例えば、道券はなの50首連作と比べると分かり易い。本Blogでも田中と道券の両方の連作を取り上げたが、確かに、田中の作品の一首一首に読みが分かれる歌は、ほぼないといってよい。他方、道券はなの50首は、読み解くのに時間のかかるものが結構ある。本Blogでも、「解凍」なんて言葉を使いながら、かなり字数を使って作品を読み解いている。なので、この江戸の主張は、筆者も首肯できる。ただし、だからといって、田中のこうした作品群を否定的にとらえる必要はない。そういう作品世界も短歌にあってもいいだろう。

 続いて、2点目。江戸は虚構作品であっても、大きな問題はない、と述べている。この点についても、筆者としては、一首評であれば異論はない。その通りである。

 3点目。ここが、今回の主要な論点となる。すなわち、江戸のいう「曖昧さの契約」というワードについての賛否だ。江戸によれば、作者と読者に間には、ある曖昧な「契約」があるという。それはどんな「契約」かといえば、「本当にあったことかもしれない」という「契約」なのだという。つまり、読者は、作品を「本当にあったことかもしれない」という「契約」を作者と曖昧ではあるが交わしたうえで読んでいる、という。だから、作者が、この作品は虚構ですよ、とあからさまに言われてしまうと、「そこに少し違和感を感じてしま」うし、「言葉が作り上げた世界が褪せてしまう」というのである。

 この点が、今回の江戸の主要な論点と筆者はとらえる。で、この主張、筆者がこれまで本Blogで繰り返し主張している、「ホントのようなウソ」とかなり近いのではないか、と思う。

 かつて、本Blogでは、エッセイの例を持ち出して、「ホントのようなウソ」を例示した。

 それが以下だ。

 

 話をものすごく単純にいうと、小説というのは、作者が考えた「面白い話」を、「いかに面白く書くか」、というのものだろう。読んで、面白ければ本は売れる。

 他方、エッセイというのは、作者が考えた「面白い話」を「いかに本当らしく書くか」というものなんだと思う。だから、「面白い話」が本当なのかウソなのかは問題ではない。それが、ちゃんと本当らしく書かれてあれば、もともと面白い話なんだから、本は売れる。

 で、「本当らしい」の担保として、そのエッセイを書いた作者の属性はかなり重要になる。「枕草子」の作者が実は男性だった、となると、あの内容はフィクションだった、ということになり、とたんにツマラないものと感じよう。べつに、古典にこだわる必要はなく、なんでもいいけど、例えば、さくらももこもものかんづめ』が、実はさくらももこが書いていなくて、別のゴーストライターがいて書いていたとしてもバレなければ作品に支障はないがけど、実はゴーストライターがいたなんてことがオオヤケになると、途端に、内容が嘘くさくなってしまう(というか、ウソだったということがバレる、ということだろうけど)ということだ。私は、あまりエッセイは読まないけど、売れている作家のエッセイの多くは、アシスタントなりゴーストライターなりが代わりに書いていると思うし、そして、その内容のほとんどは雑誌や編集者のテーマに合わせた作り話だと思っているけど、別に、それはそれで問題はない、と思う。

 そういうわけで、エッセイというのは、「本当らしく」書かれてあればそれでいいのであり、「本当かどうか」の証明は一切必要としないジャンルである、ということだ。

 と、ここまで、話を進めて、短歌の話題に移る。

 私は、原則として「歌集」というのは、「エッセイ集」と同じように読んで愉しむものなのだろうと思う。

つまり、やはりそこで詠まれてある歌の内容が、本当がどうかは問題にならない。別に、作り話でも、見てもいないことを見たように詠っても問題はない。大切なのは、それらの歌にリアリティがあるかどうか、ということである。リアリティがないと、読み手としては、まったく面白くない、ということだ。あるいは、本当らしく書いていながら、明らかなウソが分かるととたんに騙された気持ちになってツマラなくなる。こちらも、エッセイを読む愉しみと同じだろう。

 

 どうだろう。江戸の主張とかなり一致していると思う。

 で、今回の田中の所業について、江戸は、契約の不履行を主張している、ということができよう。すなわち、読者である江戸にとって、作者である田中が、これは虚構です、と、「受賞のことば」でいうのは、読者と作者で交わした「曖昧な契約」の不履行だ、と主張しているのである。

 この点について、読者側である江戸の主張については、これまで見てきた通りである。

 では、一方の作者側である田中は、どうか。

 と、いうと、やはり「受賞のことば」あたりで、カミングアウトはしておかなくちゃアカンだろうな、とは思う。

 つまり、この作品は「ホントのようなウソ」ですと、言っておかないと後々面倒なことになる、という計算が働いたのだろうし、それはそれで、賢い計算だったとは思う。

 で、筆者としては、「今回は、作者の匿名性を利用した所業であり、作者の属性が明らかになっていれば到底評価されない連作である」と、作者の田中を責めつつも、やはり、賞レースと匿名性は相性が悪いということは、繰り返し主張しておきたいと思う。

 

 と、いうことで、論点は、作者の属性がわからない状態での連作の評価についての可否、というあたりに絞られるのではないか。

 そんなことを踏まえて、続いて、内山晶太の「時評」をみてみよう。

 内山は言う。

 

 …たしかにこの一連は作中主体の葛藤が薄い。(中略)修羅場にあるはずのどっちが前だか分からなくような混乱がない。ぐねぐねとした曲線状の流れはなく、直線的に連作が進んでゆくように見える。だから想像や虚構が良くないというわけではなくて、その葛藤の薄さや直線的な連作の進行が戦場カメラマンという特殊な職業の冷静かつ沈着なイメージとうまく結びつけられたのが「光射す海」だった。(中略)

 そして、田中が選択した作品作りの方法は、選考委員に事実性を重んじて選ばれたものであったとしても全く否定される筋合いではない。作者匿名による選考は、作者名ありきで作家性に沿った読みができないところが難しいとして、それはこれまで論じられてきた部分であり、作品そのものの力の有無とは次元の異なる問題ということになる。

(内山晶太「二つの新人賞」角川「短歌」2021年1月号)

 

 注目すべきは、後半のパラグラフだ。

 内山は、田中の作品作りの方向は否定される筋合いではない、と田中を擁護する。

 そのうえで、「作者匿名による選考は、…作品そのものの力の有無とは次元の異なる問題ということになる」と述べる。

 さて、ここで内山の言う「作品」とは、「一首」なのか「一連」なのか。

 ここが、どうも筆者にはわからない。

 文脈で判断すると「連作」ととらえていいと思うが、ちょっと確信が持てない。

 もし、このパラグラフで内山が言っている「作品」が「一首」単体を指すならば、筆者は首肯できる。しかし、「作品」が「連作」全体として指しているならば、筆者は到底首肯することはできない。なぜならば、筆者は、「連作」での作者匿名と連作そのものの力の有無は、同じ次元の問題と考えるからである。

 つまり、50首連作で、一首評の読みは到底できない、というのが筆者の立場である。

 例えば、道券はなの50首をテクスト分析したとしても、それで、50首の「連作」の評価になるのかといえば、そんなことは到底できない。できるのは、あくまで「一首」の評価である。

 同様に、田中の50首作品を、作品構成をバラバラにして、テクスト分析の手法で分析する意味があるかというと、その必要性は感じられない。

 この作品の評価は、先ほどの江戸の論述に沿っていえば、「本当にあったかもしれない」という作者と読者の「曖昧な契約」があってはじめて成り立つといえるのだ。

 というわけで、内山の主張については、「一首」単体を指すならば首肯できるが、「連作」全体として指しているならば首肯することはできない、というのが筆者の立場である。

 

 

短歌の<比喩>②

 <比喩>の話題の2回目。

 今回は<隠喩>から。

 <隠喩>とは、<直喩>の「~のような」「~みたいな」「~ごとき」が消えたもの、ととらえていいだろう。「綿のような雲」は<直喩>だが、「雲は綿」となると<隠喩>になる。

 この<隠喩>の一般的な修辞の効果は、というと、例えば「雲は綿」みたいな文章をいきなり読まされると、一瞬、「??」みたいな感じになって、「雲」から「綿」へ、頭の中でイメージの変換が必要になる。<隠喩>というのは、「~ような」が省略されているので、それを頭のなかで補って理解するという、読んでから理解にいたるまでのタイムラグが生じる。このタイムラグが心地よく感じることができれば、文芸としての<隠喩>技法は効果的だったといえるし、何だかよく分からないままだと、それは失敗ということになるだろう。

 理屈はともかく、実作をみていこう。

 今回も、前回同様に、の田村元による「すごい比喩の名歌集」30首選(角川「短歌」2020年12月号)より。

 

 身の内にまっ赤な鉄を滅多打つ鍛冶屋が居りて二日酔いなり

                     佐佐木幸綱『テオが来た日』

 雪はみぞれに、みぞれは雨に、そうやって会わなくなっていったことなど

                     小島なお『展開図』

 

 1首目。「二日酔い」を「身の内にまっ赤な鉄を打つ鍛冶屋が居」るようだと喩えたわけである。こういう作品は、完全に比喩を愉しむ作品。へえ、面白いこと言うなあ、と愉しめばよい。

 2首目。雨がみぞれから雪になるのではなく、雪がみぞれを経て雨になっていくというのが、少しばかり面白い感じ。田村の解説を引用するなら「…下の句の内容を踏まえると、恋人への思いが、だんだんと薄らいでいったことの暗喩なのだろう」とのこと。そうやって読むといいのだろう。

 

 <隠喩>というのは、<直喩>と比べて、各段に<喩>を味わうという要素が強くなる。つまり、「AのようなB」の「B」を説明するために<喩>を使うのではなく、「A」を味わいましょう、ということだ。けど、佐佐木幸綱作品のような、こんな「A」を詠んでみましたよ、ドヤア、みたいな感じだと、ただの面白い歌になってしまうので、修辞技法として洗練させようとすると、複雑な様相を示してくる。

 次は、そんな複雑な<喩>の作品。

 

 陽に灼けて胸筋腹筋割れてゐる板チョコレートが私は好きだ

                 松山紀子『わたしも森の末端である』

 モルヒネを打たずに心を縫うような痛みだ今日の空の高さは

                 中島祐介『Starving Stargazer

 青空へわたしはろくろっくび伸びてくちづけしたし野鳥のきみと

                 大森静佳「現代短歌」2019年4月号

 

 1首目。「板チョコレート」を「陽に灼けて胸筋腹筋割れている」ような人間、に喩えた。一読、<この喩ドヤア>系の作品に分類できそうだが、「ような人間」の部分が<省略>されているのがポイント。短歌は、字数に制約があるから、どうやって<省略>を施すか、というのも、短歌の修辞技法のひとつといえる。それはともかく、この<省略>があることで、「私は好きだ」が、「板チョコレート」だけではなく、「板チョコレートのような体をした人」にもかかってくるように読めてしまうのである。短歌ならではの<隠喩>の効果ということがいえるだろう。

 2首目。「今日の空の高さ」を「モルヒネを打たずに心を縫うような痛み」に喩えている。これは<隠喩>。そして、「痛み」を「モルヒネを打たずに心を縫う」ような痛みに喩えている。なので、ここは<直喩>。それから、「心を縫う」も<比喩>。前回までの議論の用法でいえば<コロケーションのずらし>。「心」は縫えない。「心臓」は縫えるだろうから、ここは「心」を「心臓」のような臓器に喩えた。ということで、1首に3つの<比喩>が折り重なって詰まっているという、複雑な<喩>を施した作品といえる。

 3首目。大胆な<省略>と<倒置>が施されている。<省略>は、「伸びて」のところ。「首が伸びて」と補うといい。<倒置>は2つ。上句は「わたしはろくろっくび青空へ(首が)伸びて」、下句は「野鳥のきみとくちづけしたし」となる。なので、散文にすると、「わたしはろくろっくび。青空へ首が伸びて野鳥のきみとくちづけがしたい」となる。で、そう解読すると「首が伸びて」のところは、「首を伸ばして」が日本語として正しいだろうから、<省略>技法を効果的に使用した、といえるかもしれない。

 で、<比喩>はどこにあるかというと、「わたしはろくろっくび」と「野鳥のきみ」の2つ。

 修辞技法を取り出せば、<省略>と<倒置>と<隠喩>の合わせ技、という作品といえよう。

 

 ところで、複雑な<喩>としては、視覚を聴覚で喩えるという、アクロバティックな作品もある。

 引き続き、田村元選による作品を取り上げよう。

 

 朝の陽のいまだ脆きにひとときの拍手のごとき川面を越えつ

                      小原奈実『短歌』2019年5月号

 スプレーのやうに演歌をまき散らし銀のトラック那智の浜越ゆ

                      小黒世茂『やつとこどつこ』

 

 1首目。「拍手」のような「川面」。聴覚で視覚を喩えている。

 2首目も同様。「スプレー」のような「演歌」。こちらの方が、<喩>としては複雑で、トラックから漏れ出る大音量の演歌がスプレーの噴霧のようだ、というのを凝縮して「スプレーのやうに演歌をまき散らし」と表現した。凝縮してもキチンと読者に伝わるのは「まき散らし」の部分が的確だからだろう。

 

 筆者も視覚を聴覚で喩えた作品を思い出した。それは、佐藤佐太郎の代表歌。

 

 はなやかに轟くごとき夕焼はしばらくすれば遠くなりたり

                          『歩道』佐藤佐太郎

 

 「轟く」ような「夕焼」。アクロバティックな表現には違いないが、この作品がそれだけで終わらないのは結句の「遠くなりたり」。「遠く」が、夕焼けが遠くなっていく様子と響きが遠ざかっていく比喩様子と両方にかかっているからだ。

 

 と、今年は、ここまで。

 また来年、引き続き「短歌」の世界のあれこれについて、お喋りします。

 

 

短歌の<比喩>①

 今回からは<比喩>をテーマにお喋りをする。

 けれど、実のところ短歌の世界で<比喩>の話はもう出し尽くした感があるので、ここで何か新奇なことを言えるかどうかは、ちょっと自信がない。

 それに、おそらくお喋りしていくうちに、だんだんと話がいろんな方向にとっ散らかっていくような気もするが、これまでの<コノテーション>や<コロケーションのずらし>といった議論とも絡めることができればとも思う。

 

 今回は<比喩>のなかでも、比較的分かりやすい<直喩>から。

 

 <比喩>とは何か。

 というと、「あるモノやコトを、別のモノやコトで表す」ということだ。<直喩>なら、「綿のような雲」「夢みたいな時間」「まるで写真のような感じのする絵」とか、「~のような」「~みたいな」「~の感じの」といった<比喩>の目印があるのでわかりやすい。ちなみに、これらは、口語体の場合。文語体なら、「~のごとき」一択だ。

 こうした<直喩>であれば「AのようなB」「AみたいなB」「Aのような感じのB」というように、BをAで表しているのがわかると思う。

 作品から確認しよう。

 今回、引用する作品は、角川「短歌」2020年12月号の田村元氏による「すごい比喩の名歌集」30首選より。作品の素晴らしさもさることながら、膨大な作品のなかから「これぞ」という新旧の名歌を取り出してきた氏もすごい。

 

 トランプの絵柄のように集まって我ら画面に密を楽しむ

                        俵万智『未来のサイズ』

 縛りなきしりとりのやうな日常を揺さぶるために水仙を買ふ

                        門脇篤史『微風域』

 かなしみは出窓のごとし連理草夜にとりあつめ微かぜぞ吹く

                        北原白秋『桐の花』

 

 1首目。今年発刊の俵万智の最新歌集から、Zoomのようなオンラインの場で映る画像を「トランプの絵柄」に喩える。説明するのにけっこうな言葉数を要するようなモノ(Zoomのようなオンラインの場で映る画像、じゃあ、説明としては乱暴だ)を喩えるなら「トランプの絵柄」みたいなものよ、と、さっくりと説明できて、ああ、なるほどねえ、とさっくりと理解できる、という、<比喩>表現のお手本のような作品。

 2首目。「日常」という、ちょっと短歌じゃ説明できないバカでかいモノを「縛りなきしりとり」のようなものさ、といって、なんとなく説明した気になるという、これも<比喩>表現のお手本といっていい作品。

 3首目。「かなしみ」を「出窓」に喩える。感情はなかなか言葉で言い表せないので、<比喩>を使うと伝わりやすい。

 とりあえず、3首をみたけど、「AのようなB」という<直喩>というのは、「AのようなB」の「B」が、説明するのにちょいと面倒だったり、漠然としていたり、言葉にしにくい感情だったり、といったものを、そうだねえ、喩えるなら「A」のようなものだよ、と表現することだ。掲出歌でいえば、「A」は「トランプの絵柄」であり「縛りなきしりとり」であり「出窓」である。

 すなわち、<比喩>というのは、説明しにくい、あるいは、イメージをしにくい「B」のようなモノやコトを、分かりやすい、あるいは、イメージしやすい「A」のようなモノやコトに置き換えて表現する修辞技法である。

 と、ここまでは、そもそもの<比喩>の修辞技法の説明としていいだろう。

 しかしながら、短歌では、そうした本来的な修辞技法から、より文芸的なそれへと深化してきている。

 

 他人(ひと)の記憶に入りゆくような夕まぐれ路地に醤油の焦げるにおいす

                        久々湊盈子『世界黄昏』

 自販機のなかに汁粉のむらさきの缶あり僧侶が混じれるごとく

                        吉川宏志『石蓮花』

 苦しみののちに生まれし小国のごとき椿を拾ふ二つ、三つ

                        栗木京子『ランプの精』

 

 1首目。「夕まぐれ」を「他人(ひと)の記憶に入りゆくよう」なものと喩えた。 「AのようなB」の<直喩>の修辞技法には違いないが、先ほどとは、様相が異なっていることがわかるだろうか。普通、「夕まぐれ」を喩えるのに、「他人(ひと)の記憶に入りゆくよう」だとは、喩えない。こうした作品というのは、<比喩>そのものを味わう作品、ということがいえよう。

 「AのようなB」の関係性というのは、「B」を説明するために「A」を持ち出してきているものだ。主従関係でいれば、「B」が主で「A」が従だ。しかし、掲出歌のような「AのようなB」の関係性というのは、「A」の比喩表現を味わうために「B」の「夕まぐれ」を持ち出してきた感じだ。つまり、主従関係でいうと、本来的な<比喩>の用法とは逆転している、といえよう。

 2首目。「自販機に並んでいる汁粉の缶」を「僧侶が混じっている」ようだ、と表現した。これも、<比喩>の愉しさを味わう、「ザ・短歌」のような作品。当然、吉川もそんなことは分かって作っているので、わざわざ直喩を結句に持ってきて、「これは比喩を愉しむための作品ですからね」と目配せをしているようだ。

 3首目。2,3個の椿を「苦しみののちに生まれし小国」に喩える。これなんかもう、「社会詠」の範疇に入れてもいい作品だろう。「椿」を詠いたいんじゃなくて、当時の国際社会を詠いたかったのだ。だから、「AのようなB」の「B」は、「椿」じゃなくてもいいかもしれない。落ちて拾える花なら、何色の花でもいい感じがする。なので、これを<直喩>の表現技法の掲出作品とするには窮屈な感じがするけど、こういう詠い方ができるのも現代短歌の深化だ。

 

 せっかくなので、「AのようなB」の主従関係について、吉川宏志の作品で確認しよう。氏の作品群は、これまで「近代短歌」が連綿と繋いできた修辞技法の到達点、といっていいと思う。今回の角川「短歌」12月号の特集でも、先の田村元のほか、高野公彦、内山晶太の両氏が、吉川の作品を引用して比喩について論じている。

 次の2首は、その内山の掲出した吉川作品。

 

 人を抱くときも順序はありながら山雨のごとく抱き終えにけり

                         吉川宏志『夜光』

 画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ

                             『青蟬』

 

 この2首を比べて、筆者の言う「AのようなB」の主従関係の違いがわかるだろうか。

 1首目は「山雨」のような「情事」の関係であり、とある情事を「山雨」に喩えている。この作品については、情事にも順番があるんだけれど、の、「けれど」の逆接を比喩で補っており、「情事」が主で喩は従の関係だ。本来的な<比喩>の修辞技法だ。

 一方の2首目は、「画家が絵を手放す」ような「春の日暮れ」。こちらは、<比喩>そのものを味わうための作品といえる。すなわち、「画家が絵を手放す」が主であり、「春の日暮れ」は従だ。何となれば、「春は暮れ」でなくても、「秋は暮れ」でも「冬は暮れ」でも歌としての味わいはそんなに変わらないんじゃないか、とまで、思う。

 

 今回は、<直喩>表現についてみてきた。

 <比喩>は、もともと、分かりにくい物事を、「AのようなB」といった表現で、分かりやすく説明するための修辞技法のひとつだった。しかし、短歌文芸に取り入れられることで、<比喩>そのものを味わう、といった短歌技法のひとつに深化した、というのが、今回の主張だ。

 

 次回は、少し難しくなって<隠喩>、さらにいくつかの技法を重ねた複雑な<喩>についてみていきたい。