穂村弘『水中翼船炎上中』を読む3

 穂村弘の新歌集『水中翼船炎上中』を引き続き見ていこう。
 この歌集には、母の死を詠った一連「火星探検」がある。集中の白眉といってもいいだろう。いわゆる挽歌といえるのだが、では、現代短歌の挽歌を読み解いていこう。

月光がお菓子を照らすおかあさんつめたいけれどまだやわらかい

 

 一連十二首の三首目の作品である。死者となった母親が、布団に安置されている場面であろうか。そこに子である主体が、亡母の頬なり頸なりを触ったときの感触を詠ったということであろう。「つめたいけれどまだやわらかい」という描写から、母の亡骸を前にした子の心情を鑑賞するのだと思うが、それよりも私は、三句「おかあさん」に注目する。「母」でも「母親」でもなく、「おかあさん」である。
 この「おかあさん」の表現に、私は現代短歌の溢路にでくわした感じがする。挽歌である以上、読者は「作中主体=実作者」と読む。すなわち、ここでの亡母は穂村の実母であり、子は穂村自身と設定される。
 穂村弘を「ピーターパン」と呼び、そして、この歌集を読んで「そうでもなかったんだなあと思っ」た、と座談会で語ったのは、栗木京子だったが(「2018年歌壇展望」『短歌研究』平30.12)、この作品によって、いみじくも穂村の作品世界の限界が露呈したように私には思える。
 すなわち、従来の作品設定、場面設定であれば、穂村はずっと「ピーターパン」のまままでいられた。しかし、実母の死というのは、いわゆる虚構として詠うことができない。母親はシワシワのオバアさんであろうし、その子もいい歳のおじさんで、「ピーターパン」ではありえない。しかし、これまでの穂村のピーターパン的作品世界を維持するのであれば、母の死顔を前にして、「つめたいけれどまだやわらかい」と詠い、母親を「おかあさん」とモノローグするしかないのだ。
 これは、相当にイタい。現実世界の、ただの中年男が「おかあさん」と幼げにモノローグする状況は相当にイタい。けれど、下句の描写から、ここは「おかあさん」でないと一首として整合しない。すなわち、この歌は、ピーターパン的作品世界の構築が許容されている現代短歌と、挽歌に代表される自然主義的近代短歌の衝突が起こっているのである。そして、その衝突でダメージを受けているのは、ピーターパン的世界を維持して、イタい思いをしている現代短歌の側、と私はみる。やはり、挽歌に代表される自然主義的近代短歌の牙城はなかなか手ごわい、と改めて思う。
 では、現代短歌が溢路に陥ることなく、あるいは、ダメージを受けることなく挽歌を詠うには、どうしたらいいか。それは、やはり近代短歌との衝突を回避するしかないだろう。
 回避する方法のひとつとして、子ども時代にタイムスリップするという設定の仕方がある。それならば、近代短歌に触らずに、挽歌を詠うことができる。そんな一首。  

ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検

 

夢の中なら、子どもに戻ることができるし、母親も現実のシワシワのオバアさんではなく、若くてキレイな女性でいられる。もう、死者すらも、夢の中にすぎないということだ。そして、母が若かった頃の子どもならではの多幸感を、炬燵にもぐった感覚にあらわしているのだ。