短歌の「写生」を考える⑥

前回、次のような仮説を提出した。 すなわち、現代短歌の「写生」作品は、これまでの近代短歌の読みとは、違う読みを求めているのではないか、という仮説だった。 では、この仮説を検証するために、近代と現代の2つの「写生」作品を並べてみよう。 瓶にさす…

短歌の「写生」を考える⑤

前回からの続きである。 短歌の「写生」でいうところの<私>の「感動」というのは、<作者>の「感動」から、<主体>の「感動」へと変化したのではないか、と言う話題であった。 けど、その前に、しつこいようだが、<私性>の話を今一度。 やは肌のあつき…

短歌の「写生」を考える④

話を現代の「写生」に持っていきたいのだが、なかなかそこまでたどり着けない。 とにかく<私性>を片付けないと、現代短歌は論じることができない。 <私性>を論じるときに、<作者>とともに出てくる用語として<作中主体>とか<主体>といった用語があ…

短歌の「写生」を考える③

前回からの続きである。 「写生」の話であった。 ただ、現代短歌の「写生」を論じるには、どうしても<私性>の整理をしないと、議論が混乱する。なので、遠回りになるが、今回はまず<私性>についての整理からはじめる。 近代短歌では、作品の主人公は<作…

短歌の「写生」を考える②

前回、「写生」というのは、作者の意識である「主観」とか作者の心の動きである「感動」とかの作用によっている、というような議論をした。今回は、これら「写生」をめぐる用語の整理をしながら、「写生」についてさらに考えてみたいと思う。 用語の整理。ま…

短歌の「写生」を考える①

今回からは、近代短歌の重要理念である「写生」について議論したい。 ただし、これまでさんざんお喋りした「韻文」の魅力が引き続きのテーマであることには変わりはなく、おそらく、「韻文」の話題がところどころにぶり返されると予想される。 「写生」とは…

わからない歌⑫

前回からの続きである。 三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす 宇都宮敦『ピクニック』 この作品には、三句目にいきなり「つめたいね」と読者に同意を求めるような句が挟みこまれている。読者にとっては、「三月の光って、つめたいよね」…

わからない歌⑪

この「わからない」歌の連載も、三年目が終わろうとしている。はじめたときから、あまり先のことも考えず、その時その時で気が付いた話題を取り上げてきたせいもあり、だんだん収拾がつかなくなってきた。連載自体が漂流しはじめて、どこに着地するのか分か…

わからない歌⑩

前回、〈リアリティ〉というワードを出して、わからない歌をわかる歌にしようと試みた。次の作品も同様に〈リアリティ〉の追求で読み解ける。 白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』 この作品、一年前…

わからない歌⑨

現代口語短歌には、一読、短歌とはどうにも認めがたい、ただの一行の散文のようなものが存在する。例えば、こんな歌。 あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の 千種創一『砂丘律』 作者の千種創一は、「塔」短歌会所属で中東在住。第一歌集『…

わからない歌⑧

前回から検討しているのは、この作品だ。 撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ 斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』 この歌は、死者を「わたし」にみたてて斉藤が作品化したのである。「作中主体=作者」とするならば、いわば斉藤が…

わからない歌⑦

斉藤斎藤は、初期の作品から、「私性」というものを追求している歌人である。短歌での「私」とは何かを執拗に突き詰めようとしている。ただし、それは、斉藤が作歌するなかでテーマとして浮上したのだと思う。はじまりは、現代社会のかけがえのない私、みた…

わからない歌⑥

斉藤斎藤『渡辺のわたし』の続きである。 着信を拒否られている北口の夕日がきれいですが、何か? モノローグとしても通用するけれど、普通に読めば、「主体」が、他者に話しかけているという設定となるだろう。けれど、この関係性は、かなり曖昧だ。親しい…

わからない歌⑤

斉藤斎藤『渡辺のわたし』は、会話ともモノローグともいえない独特の語り口で詠われている作品がある、という話題の続きである。 前回、掲出した作品を再掲しよう。 お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする 「こんにちは」との挨拶に…

わからない歌④

話の流れが斉藤斎藤の作品へといったので、今回からは、永井祐を離れて、斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』から、「わからない歌」を掲出してみよう。 「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンをおつけしますか」 斉藤斎藤『渡辺のわた…

わからない歌③

前回は、「固定カメラ」「移動カメラ」という概念を使い、わからない歌を解釈した。今回も、この二つの概念を使って、作品を読み解いていくことにしよう。 今回、取り上げるのは次の二首。 赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉『…

わからない歌②

前回に続いて永井祐『日本の中で楽しく暮らす』から作品を見ていこう。 白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう 元気でねと本気で言ったらその言葉が届いた感じに笑ってくれた この二首を読んで、どう感じるであろうか。 言葉は平易で意味…

わからない歌①

(2019年初出の、歌誌の連載原稿を転載) 「わからない」歌をわかるようにしたい、そして、願わくば「いい」歌と読めるようにしたい、というのが、ここのところの話題であった。 今回は、永井祐の作品を取り上げる。 あの青い電車にもしもぶつかればはね…

わからない歌、わかる歌

現代の短歌には、一読「わからない」、という歌がある。 ただし、この「わからない」は、表現や言葉が難しくてわからない、というのではなく、表現は平易で言葉の連なりも正しいけれど、「え、この歌の何がいいの?」というような、いわば、「作品の良さがわ…

<内容>についてのまとめ

ここまで、このBlogでだらだらとお喋りしてきた議論のまとめの作業をしているが、今回は、<内容>についてまとめたい。 ただ、<内容>については、本Blogではたいした議論をしていないので、すぐに終わる。 短歌の世界では、どういう<内容>であれば、良…

<文体>についてのまとめ③

<文体>について議論している。 繰り返しになるが、短歌の<文体>について、大きな分類としては、次の3つだ。すなわち、 ・「近代短歌」の「私=作者」である<文体> ・「前衛短歌」からはじまる、「私=主体」である<文体> ・穂村の作品のような「語…

<文体>についてのまとめ②

前回、短歌の<文体>について、3種類提出した。 すなわち、 ・「近代短歌」の「私=作者」である<文体> ・「前衛短歌」からはじまる、主体の見たことや考えたことや感じたことを、作者が主体に代わって叙述する<文体> ・穂村の作品のような「語り手」…

<文体>についてのまとめ①

今回からは短歌の<文体>について、まとめていきたい。 本Blogでは、主に<私性>をテーマとして、9回にわたって議論した部分である。 そもそも短歌の<私性>と<文体>は、いかなる関係があるのか、というと、これは大ありで、というのも、「近代短歌」…

<調べ>についてのまとめ④

さて、ここまでは、強弱2拍子説で8音までの増音では<調べ>が崩れないことを検証した。 この話題の最後に、どうにも<調べ>が良くない作品をみて、その良くない原因を探ってみたいと思う。 ただ、近代短歌はもちろんのこと現代口語短歌だって、<調べ>…

<調べ>についてのまとめ③

今回は初句6音の検討からはじめる。 半年前雪が積もった 半年前人にもらったUSBだ 永井祐『広い世界と2や8や7』 日曜から土曜にわたる階段で僕は平たいアメーバになる この2首は、初句を4音2音に分けることができる。そして、強弱2拍子で読み下す…

<調べ>についてのまとめ②

<調べ>についての議論で、筆者は、次の説を提出した。すなわち、 ・短歌の<調べ>は、「強弱2拍子」で読み下せるものが良い という説だ。 しかし、この説が正しいとするなら、必然的に、次のような仮説が成り立つ。 すなわち、 ・3句以外は、8音までは…

<調べ>についてのまとめ①

このBlogでは、短歌についてのあれこれについてのお喋りを1年以上ダラダラと続けている。 思いついたテーマを思いついたままに述べてきたので、だんだんと収拾がつかなくなってきた。なので、ここで一旦、まとめに入りたいと思う。 そもそものはじまりは、…

短歌の<比喩>③

<比喩>の話に戻る。 短歌の世界の<比喩>表現として、「短歌的喩」と呼ばれるものがある。 これが、なかなか面白い。 この「短歌的喩」は、吉本隆明が提唱した概念で、短歌のみにあらわれる独特の比喩の働きをいう。概略をかいつまんでいえば、短歌を上句…

再び短歌の「読み」について

短歌の<読み>についての議論で、典型的な事例があったので、今回はそれを取り上げてお喋りをしたい。 角川「短歌」2021年1月号に、新春特別座談会「見つめ直す自己愛」が掲載されている。この座談会では、馬場あき子、伊藤一彦、藤原龍一郎、小島ゆか…

短歌で虚構をやる理由②

あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。 少し前に、去年の角川短歌賞受賞作品の田中翠香「光射す海」の虚構性について議論した。 この作品は、シリア内戦に赴いた戦場カメラマンを主人公とした50首連作なのだが、作者は、戦場…